観頣荘 | さがの歴史・文化お宝帳

観頣荘

所在地 佐賀市鬼丸町西端、赤松町南端、本庄町東側
年代 近世
登録ID 2448

出典資料から記載

観頣荘(かんいそう)は、西御屋敷とも称し、佐賀藩3代藩主鍋島綱茂の別邸であった。元禄11年(1698)、家老鍋島弥平左衛門の抱え地に観頣荘が建立され、さらに、家臣の邸宅が取り上げられて広大な庭園が築かれた。元禄12年の文書にいわく「・・・御屋敷内手狭く殊に御近辺に罷り居り候者御近所故心遣い致し不自由迷惑致す由聞召し上げられ水月庵小路西側迄屋敷召上げられ候・・・」。造園には攝州兵庫の御本陣粘右衛門が招かれて当たったという。
 観頣荘の模様については、綱茂の手記「観頣荘記」や作者不詳の絵図「観頣荘之図」(いずれも県立図書館蔵)からうかがうことができる。中央に灔藍池と呼ばれる池があり、周囲に観頣荘や繁陰山となる築山をつくり、各所に楼屋や亭を配したいわゆる回遊式庭園であったらしい。建物にはそれぞれ漱玉窩、真意楼、雲棒楼など経書から引用した名が付けられ、名前の由来が「観頣荘記」に記されている。聖堂もつくられている。しかし、「観頣荘記」は一種の文芸作品であるので、観頣荘の正確な建設場所は明確でない。だが、元文5年(1740)の城下図には池と聖堂が記されているので、敷地全体のおよその位置はわかる。同図にある鍋島主水抱え地は南側に池を望み、かつて荘居のあった場所と思われる。諫早石見抱え地は池の西側に接し、築山などを有する庭園の主要部分であったであろう。池の南東の慈眼院のある場所は、観頣荘建設の際に取り上げられた水月庵の旧跡で、ここも敷地内であったであろう。元禄13年の暮に1ヶ月近く、綱茂は息女と共に観頣荘に滞在している。城との往来は船によっているので、城とは水路で直接通じていたのであろう。池には大船を十余隻も浮かべることがあったという。同年、二の丸から聖堂を移した。このころには、観頣荘の建物、庭園はほぼ完成していたと思われる。綱茂はまた、親類や家老に縁付いた妹たちを呼んで藤の花見と歌会を行っている。その他、家老と、大風の被害を受けた領民の出来、出銀を免ずる相談を行うなど、ここで藩政をみることもあったようである。
 ところが、綱茂の没後間もない宝永4年(1707)、早くも観頣荘の一部は解除され家臣8名に下賜されている。敷地内の水月庵旧跡に慈眼院が建立されたのは、宝永年中(1710まで)である。また、前出の諫早石見抱え地は4代藩主吉茂(1664~1730)から賜ったといわれている。このように観頣荘が短期間のうちに縮小解除された原因については、綱茂の文治主義に対する藩内の不評、綱茂に対する親類筋の個人的感情、天災・火災等による経済的圧迫などが考えられるが明らかでない。これに関連する資料の出現が待たれる。
 元文の城下図を現在の地図と重ね合わせて観頣荘の敷地の境界を推定すると、東は西堀端と宝琳院西側の通ずる水路、西と南は佐賀大学東側を通り、左折して宝琳院南側を流れる善左衛門井樋水系、北は中周路通りとなる。鬼丸町の西部と赤松町の南部とを含む東西約200m、南北約400m、面積約8万㎡の区域である。水の流れは昔と変わらないが、昔をしのばせるものは、水辺の護岸の石とわずかばかりの立ち木のみである。
出典:綱茂公譜、吉宗公譜、曹洞宗由緒、校註葉隠、長崎県史編集委員会改編、佐賀藩諫早領、佐賀市史 宮口尹男

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