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[神社仏閣][その他][循誘校区]は3件登録されています。
神社仏閣 その他 循誘校区
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牛島神社の金刀比羅神
金刀比羅神は海上での交通安全、大漁満足の神として、漁師・水上関係者ら船舶関係者が特に信仰を寄せる神様である。この神は梵語(古代インドの文語)のクンピーラから出たといわれ、インドの聖なる河に棲むワニを、神格化したといわれ、水の神、海の神として信仰された。 日本に渡来して讃岐の国(香川県)琴平に祀られ、『金刀比羅』権現の本宮となって、全国の金刀比羅信仰の中心になっている。正式には『象頭山金比羅大権現』というのが正しい呼び方である。明治になって神仏混淆を禁ぜられてから、金刀比羅宮(ことひらぐう)と呼ばれるようになった。現在は、大物主命(おおものぬしのみこと)を祭神として、崇徳天皇を相殿として祀ってある。もともと農神であり水神であったため、農民の間にも信仰され、特に雨乞いの神として霊験があったといわれる。それが室町時代以降になり商業が盛んになるにつれて、海上交通、海運業が盛んになり、瀬戸内海交通の守護神のように崇められ、かつての農神、水神としての影が薄くなった。 瀬戸内海の海上交通は、現在想像する以上に盛んで政治、軍事、経済に大きな役割を演じていた。平常は鏡のように穏やかでも、一度荒天ともなれば波浪が高く突風が起きたり、たくさんの島々で潮流が複雑となり大変危険で、また海賊が出て航海の難儀は、おのずから危険をさけ守護してくれる神を信仰することになった。海上で遭難したとき、金比羅大権現の名を口に唱え、毛髪を切ったり、持物を海中に投ずれば難をまぬがれるという。また、暗夜に船の行く先がわからなくなったとき、この神を念ずると、きっと、ひとかたまりの火がぼーっと現れ、それを目あてに漕いで行けば、無事着岸できるといわれていた。金刀比羅宮が今日伊勢に劣らない程全国民の信仰を集め、一年間お参りする人は、400万にも及んでいるといわれるように繁盛したのは、江戸時代になってからで、慶安2年2月(1649)に幕府の朱印地となって、330石の地を給せられ、宝暦10年5月(1760)には勅願所と定められたりした。また、ここには四国第一の芝居小屋『金丸座』が常設されて、大坂や江戸の千両役者も出演し、西国の大名なども参勤交代の途中にここに立ち寄って芝居見物をしたともいわれ、3月、6月、10月の顔見世興業がとくに人気があった。佐賀市金立町の金刀比羅神社は、四国の金刀比羅宮分神で今から1300年程前に勧請されて、龍造寺、鍋島家の勅願神社として海上安全のほか農業殖産、医薬祖、福徳円満縁結びの神として祈願立願で庶民も合わせて心の支えとしてきた。牛島神社にも金刀比羅神が祀ってある。
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佐賀の南蛮寺(キリスト教会)
慶長年間の城下絵図の中に、材木町の北方、長徳寺と堀をへだてて、柳町の東部一帯に東西47間、南北43間の広大な面積に南蛮寺が記載されてはいるが、今はその面影を偲ぶ何物も見当たらない。慶長11年(1606)にドミニコ会のアロンソ・デ・メーナ神父が佐賀の領地内で教会を建てる許可を、佐賀の大名勝茂に申し出た。このとき、領内に教会を建てることを許したが、その前にガッコウと呼ばれる有名な僧と相談しなければならないと言った。 このガッコウと呼ばれた人物は、当時徳川家康の顧問で、鍋島家へも大きな影響力を持っていた小城の円光寺生まれの元佶和尚であった。この僧の協力で教会を設立することができたが、この元佶和尚の寛大な態度にデ・メーナ神父も非常に驚くとともに感謝したといわれている。当時仏教とキリスト教の対立が激しい時代だけにこのような形で教会設立の許可がなされた例は、佐賀以外に日本のどこにもなかったことであるといわれた。 デ・メーナ神父は早速慶長12年(1607)に鹿島の浜町に教会と修道院を建てた。また翌年鹿島に別の教会を建設した。柳町には、慶長13年(1608)に建てられた。 またドミニコ会の神父たちが浜町に教会を建てた頃、イエズス会の神父たちは嬉野町の不動山に教会を建設した。このほか白石町の須古にも建てられた。ところで佐賀の大名は、キリシタンに対し、好意はもっていたが、徳川家康が慶長17年(1612)に、第1回のキリシタン禁教令を出し、つづいて慶長19年(1614)に出されたものは、今までにない厳しいものであったし、その後秀忠、また特に家光はますます徹底的に力を入れた。 幕府の度重ねての禁教の命に従い、佐賀で教会の神父を追放したのは、慶長18年(1613)10月であったので佐賀での布教活動は、僅かに5年間であった。 佐賀の南蛮寺教会の姿を今に見ることはできないが、神戸市立美術館所蔵で、狩野永徳の弟宗秀の筆になる扇型の洛中洛外図に書かれているものを見て想像するしかないのである。
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願正寺鐘楼、時の鐘
当寺の鐘楼は、鍋島3代藩主綱茂の代となった元禄8年(1695)から同9年の間に建立された。 この鐘は佐賀城下に時間を知らせる鐘として、元禄9年8月から用いられた。 時報は、明け六つ(午前6時)から暮れ六つ(午後6時)までで、鐘楼役、香番役の2名が昼夜勤務をしていたようである。 鐘楼香番所は、鐘楼の石段を登った内部に設けられ、六畳敷きの部屋を住居として、そこに”時計香ためし”やその他の時を計る諸道具が備えてあったようである。この詰所で時間を計り、時が来れば、ここから更に階段を上って、四方吹き抜けの楼上で鐘をついていたと思われる。 藩からは毎年10石の鐘つき料を下付されていた。 この時の鐘は安政元年(1854)5月にはひびが入って、役目を終え、あとは白山の八幡社で撞くように命じられている。それまで約160年間、途中で鐘楼の修復再建の時期を含め、城下に時を告げる役目を続けたことになる。現在の鐘は戦後の昭和24年に鋳造したもので、毎夕5時に夕べの鐘を鳴らし、人々に親しまれている。