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[神社仏閣][その他][東与賀町]は5件登録されています。
神社仏閣 その他 東与賀町
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観音信仰
わが国における観音信仰は仏教渡来とほぼ同時に始まったと言われている。衆生の願い事を聞くことから観世音といい、すべての衆生を救済するため33の姿に変化するという。観音は聖観音・十一面観音・千手観音・馬頭観音・如意輪観音など各種あり、形としては、頭髪を美しく結いあげ、頭には宝冠を戴く慈悲相で、上半身に条帛(じょうはく)、下半身に裳(も)をつけている。例外として馬頭観音は忿怒相で頭上に馬頭を戴いている。 平安時代中期には六道輪廻の思想がひろまるにつれて、六道に6体の観音を配する六観音の信仰が起こった。町内には造立年は不明であるが、六地蔵のうえに6体の観音の坐像を彫った上下12体の六観音六地蔵塔が、立野の龍王宮前、実久の龍水院前にある。 また旧7月10日(新8月10日)は、四万六千日で観音の結縁日とされ、この日に参拝すると四万六千日分の功徳があると言われている。 慈愛に満ちた面相から女性の信仰が厚く、観音講をつくり毎月定期的に茶講を行っている集落も多い。また、妊娠や安産を願って観音に願をかけ無事、妊娠あるいは出産をすれば願成就のお参りをした。 馬頭観音は、もともとヒンドゥー教のジシュヌ神の化身から転化し仏教にとりいれられて観音になったものと言われる。頭に戴く馬からの連想で、馬の供養や安全息災を願って広く祀られるようになった。
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地蔵信仰
地蔵菩薩は、釈迦入滅の後、弥勒菩薩が現われるまでの間、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の救済の菩薩とされ、平安末期におこった末法思想により庶民の間に広く信仰されるようになった。 近世には、さらにあらゆる願いをかなえてくれる仏として祈願され、いろいろな供養塔の本尊としても用いられるようになった。佐賀においては三界萬霊塔の上に建つものが多い。三界とは欲界(食欲、性欲など欲の世界)、色界(物色の世界)、無色界(欲も物もない精神のみの世界)の三つをさし、この世のすべての霊をこの塔に宿らせ回向することによって誰でもすべての霊を供養することができると言われ、集落の辻など多くの人から回向をうけやすい場所に建立されている。 また、独尊像のほかに六地蔵像がある。六地蔵は六道巡錫(じゅんしゃく)を造型化したもので、丸彫り像を6体並べたものと石幢に彫ったものがある。 六地蔵の典拠となるものは不明で、諸説があって一定しないが1、2を示しておく。 地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道、あるいは、予天賀地蔵・放天王地蔵・金剛幢地蔵・金剛悲地蔵・金剛宝地蔵・金剛願地蔵などで、これが造型化されたものと言われている。 石幢に彫られたものは六地蔵像と観音信仰で記した六観音六地蔵像があり多くは寺院や墓地でみられる。上古賀の栄蔵寺境内には、三界万霊を中心に左右に3体ずつ6体の地蔵と石幢六地蔵があり実久の龍水院前、立野公民館前と路傍、下飯盛地蔵院・龍田寺などにもある。 地蔵は身近な信仰の対象として庶民に親しまれており、いろいろな伝承を持つ地蔵がある。実久の通称泣きびす地蔵(夜泣き地蔵)は、赤児の夜泣きを封じる地蔵として、夜中に人に知られぬように赤色の胸掛けをかけてやると良いと言われている。中村の地蔵は眼病に霊験があると言われ、中割の地蔵は男児を望む人の信仰を集めている。
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稲荷信仰
稲荷信仰は多様であるが、その一つに五穀の守護神、稲なりの神としての信仰がある。 神道では稲荷社の祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)とか保食神(うけもちのかみ)と言われている。ウカ、ウケとは食物、特に稲をさしており、また、倉稲(うか)とは倉の中の稲(籾俵)のことである。中村の郷倉屋敷跡の文久2年(1862)銘の正一位稲荷大明神は郷倉すなわち穀倉の神として祀られたものかもしれない。 鍛冶屋の天満宮境内には宝暦4年(1757)、安政2年(1855)の2基の稲荷社がある。稲荷は稲なりの神としての農耕神のほかに漁業神、商工業者の守護神さらに刀工・鍛冶屋など、ふいごを用いる職のものが、鍛冶屋の神として信仰している。鍛冶屋の地名由来も単に伝承とばかりは言えないのではないだろうか。 大野の十六丁という地名は、本土居の修理に丁場(人夫小屋)を16回も建てたので十六丁の地名が起こったと伝え、16回目に京都の伏見稲荷に参って願をかけたところ、常盤の森という稲荷が西下し、ようやく土居が切れなくなったという。初めは住吉社に合祀されていたが明治6年に本土居上に移転したのが現在の常盤の森稲荷と伝えられる。一般にはトキワ(カヤの一種)が、うっそうと茂っていたことからそう呼ばれていたと考えられる。 ※写真は常盤の森稲荷神社
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水神・海神
水は稲作民にとって命ともいえるので古くより水神信仰が発達していた。 水神の本体としては蛇が崇敬されていたが、中国の龍神信仰の影響をうけて蛇が長じて龍となり昇天したと考えられ蛇と龍は同一視されるようになった。 蛇を使わしめとする弁財天は、七福神の一員としてよく知られているが、もともとインドの一地方の河神であったものが仏教に取り入れられ、水をつかさどるところから農業神として崇敬されるようになった。 龍神は「八大龍王」として祀られており、旱天に汐水を竹筒に汲んで石祠にかけて雨を祈願したという伝承がある。 龍神は水神としての信仰のほかに海神として信仰する風も厚く漁民は航海の安全と豊漁を祈って祀った。海に近い立野・作出・搦などに、八大龍王を祭神とした龍王社がある。 実久公民館前に文化5年(1808)銘の琵琶を抱く2臂の弁財天像があり、搦に「弁財天 八大龍王」と二神の名を刻んだ享保元年(1716)建立の石祠がある。 上町若宮社境内の元治元年(1864)建立の「天山大権現社」の石祠も弁財天信仰によるものと思われる。 航海と漁業の守護神として信仰されている神は八大龍王のほかに住吉三神、金毘羅、沖仲大明神などがある。住吉三神とは底筒之男命(そこつつのおのみこと)・中筒之男命・上(うわ)筒之男命で住吉神社として祀られている。 金毘羅は讃岐の金毘羅さんと呼ばれて全国的に信仰されている。町内には実久の円通寺境内の金毘羅社と搦東の通称搦の山、下飯盛の地蔵院境内に金毘羅社の石祠がある。搦の山は有明海を航行する漁船が目標にしていたともいわれ、また、高潮時の避難場所ともいわれていた。地蔵院の金毘羅社は由来はわからぬが火の神として信仰されている。 今町や船津の沖大明神・沖仲大明神は、有明海の沖の島の御髪信仰に基づくものと思われ、今町では明治の初めに漁師のこぐいという網にかかったという伝承がある。
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舟霊
海で暮らしをたてる人たちの祀る神として船の守護神「舟霊さん」がある。舟霊さんの神体は男女1体の人形、銭12文、双六の賽(さい)2個など。人形は紙でつくり銭12文は今では10円貨をもって代用するが閏年は13枚、平年は12枚。賽は「天一地六(てんいちぢろく)向こう三三(さざなみ)、前四(し)あわせ、中に二(荷)を積む」と1を上に向け、6を下にし、表に3、艫(とも)に4の目が向くように2個をあわせて入れる。これらの神体は船おろしのときに船大工によって中央の帆柱のところにはめ込まれた。 舟霊は、船での吉凶を前もって知らせてくれると信じられており海のしける時などは、「チッチッ」という音が聞こえるという。これを「舟霊さんのさえさす」というが、漁船の動力化によりこの音も聞きとれなくなった。