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[神社仏閣][寺][赤松校区]は8件登録されています。
神社仏閣 寺 赤松校区
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乾亨院
【宗派】南禅寺 臨済宗 【山号】四徳山 佐賀城本丸歴史館と城堀を隔てた南東の地点にあり、龍造寺隆信の生誕地と隣合っている。 永正年間(1504〜1521)隆信の曽祖父、山城守家兼(剛忠)の創建で、その弟天亨和尚が開山。この乾亨院には、明治7年の佐賀戦争に戦死した陸軍将兵が埋葬され豪壮な大理石が3基ならんで建てられている。右が中隊長大池蠖二大尉以下2名の将校の墓。中は下士官20名の階級と氏名が刻まれ、左が兵卒75名と軍属9名の身分、氏名が刻まれている。3基とも背面には「明治7年佐賀役戦死者の墓」と刻んであり、裏面には白川県、第二大区九区宮内村と刻んである。白川県は明治16年熊本県となる。墓碑にある隊号は、熊本鎮台第十一番大隊のことで、佐賀不穏の情報によって鎮圧のために派遣されたものである。新任の岩村通俊佐賀権令とともに佐賀城に入り、佐賀軍と銃火を交えて敗北した。この寺の境内には官軍と戦った征韓党の実際の指導者だった朝倉弾藏の墓もある。
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寶琳院
【山号】恵日山 【宗派】天台宗 【本尊】聖観音菩薩 和銅4年(711)行基建立と伝えられ佐賀城下鬼丸町の南部にある。龍造寺氏の本拠に近く深いつながりをもっていた。長く衰微していた龍造寺氏を龍造寺康家が復興した。龍造寺の家系図によると、明応年間(1492〜1501)に水ヶ江城の館に移った水ヶ江龍造寺氏の祖康家の4子澄覚(家兼の兄)が開山し、住職となった。その後歴代の住職は龍造寺家から出た。2代目は家兼の孫にあたる豪覚であり、また豪覚の兄周家の子である胤信(隆信)は7歳で出家して寶琳院へ入り円月(圓月)と称した。のち還俗して五州二島の領主とよばれるほど勢力を培った。隆信の弟信周や、隆信曾孫にあたる伯庵(高房の子)の墓がある。
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龍泰寺
【山号】平安山 【宗派】曹洞宗 【本尊】釈迦如来 寺号は「龍造寺安泰」の意による。龍造寺隆信が少弐氏の館跡を選んで、永禄6年(1563)わが家の菩提寺とするために建立した。隆信はもと天台宗の僧籍から還俗して宗家をついだ人。かつて円蔵院の怪火を鎮めた大用和尚の法力を感じて、曹洞禅を信ずるようになったと伝わっている。天正12年(1584)隆信が島原(沖田畷)で戦死したので、この寺に墓所を築き、夫人や子の政家夫妻も葬った。その後龍造寺の血脈伝える村田家の歴代もここに葬られ、龍造寺ゆかりの寺である。その後隆信は宗龍寺に、政家夫妻の墓も高傳寺に移された。明治4年鍋島家において、多くの寺院に散在する龍造寺、鍋島両家の墓を高傳寺1か所に集めることになった時、隆信夫人も移葬され、龍造寺の系統としては村田家だけが残っている。またこの寺は佐賀藩士鍋島家の菩提寺であって、同家代々は勿論、明治、大正を通して偉大な政治家であった大隈重信の墓も境内にある。また重信の母堂三井子自ら寄進された自作の「蓮の曼陀羅」も寺宝となっている。 このように由緒ある寺だが、何度かの火災のため寺宝が亡失したことは惜しいことである。本堂は佐賀戦争で焼失を免れた佐賀城本丸の「玄関・式台等」解体されたものを大正初年頃この寺の本堂に改築されている。創建当時の壮大さと比べることはできないが、建物・境内とも巨刹(大寺)の偉容を保っている。
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慶雲院
佐賀城跡南東の位置にある。吉祥山慶雲院と号し、臨済宗南禅寺派。現在は無住。水ヶ江城は明応年間(1492〜1501)に設けられた。龍造寺家兼の父康家が永正7年(1510)に没したので、ここに寺を建立し、後に家兼夫妻を葬ったといわれている。慶雲院の名称の由来は康家の戒名が慶雲殿○○○だったので、慶雲院と称したといわれているとの事。現在この寺の管理、お世話は瑞龍庵住職がされている。
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宗龍禅寺
正式名は、金剛山宗龍禅寺(龍造寺隆信公の法号「法雲院殿泰巌宗龍大居士」に因んで定めた)。 天正16年(1588)5月、龍造寺山城守隆信公の冥福を祈る菩提寺として、佐賀藩祖鍋島直茂公が佐賀城、城内の鬼門に建立し、城の守護神として崇拝した由緒ある名刹である。現在まで400年以上の永きにわたり連綿と法灯が守られている。 本尊釈迦如来を祀り、大本山を吉祥山永平寺(福井県)とする曹洞宗の禅寺で、佐賀藩主より石高(地米)200石、寺領19町8段(19万6364㎡)、敷地(鋪地)8段6畝6歩(8588㎡)を拝領していた。当時、200石を佐賀藩より拝領されていたことは、如何に藩主が龍造寺家に対して配慮していたかをうかがわせるものである。 慶長12年(1607)江戸で自刃した隆信公の孫、駿河守高房の遺骨を泰長院からこの寺へ移葬したが、不祥事が続いたので別に天祐寺を建ててそこに祀った。(これが、「佐賀猫化け騒動」の発端とされている) 隆信公の墓も明治4年、高伝寺へ移葬された。 山門を入って北側に日支事変の際、江湾鎮の旧戦場で壮烈鬼神を泣かしめる最後を遂げた典型的な葉隠武士、空閑昇少佐の墓がある。 裏の墓地には、「佐賀の夜桜」で有名な日本五大騒動の一つである「猫化け騒動」で怪猫を退治したと伝えられる忠臣小森千左衛門(講談では小森半左衛門となっている)の墓がある。 また昔、神埼郡三田川村箱川を領していた佐々木四郎高綱が宇治川先陣の用いた鞍をこの寺に納めたと伝えられている。 明治7年の戦争の際には、中立党であった前山精一郎一派の集会所になっていた。
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養福寺
安住山養福寺は浄土真宗本願寺派の寺院で「一向宗由緒書 乾」によると、慶長年中(1596〜1614)に陽泰院(鍋島直茂継室)に奉公していた田崎氏の妻が、一子嘉右衛門の柳川陣へお供した際に戦死後、尼になり「妙忍」といった。主君の菩提と夫子の後生を弔うために一宇建立を願い出て認められた「御建寺 御城下八ヶ寺」のひとつ。所在場所は鷹匠小路ではなく「虎次小路」と記されている。尚住職は代々田崎氏が勤めている。 御城下八ヶ寺とは、願正寺(高木町)・真覚寺(駄賃町)・正蓮寺(高木町)・蓮生寺(岸川町)・正運寺(高木町裏)・専光寺(下今宿町)・妙念寺(愛敬島村)・養福寺(虎次小路)のこと。 「一向宗由緒書 乾」(鍋700−2) 御建寺 御城下八ヶ寺 一 虎次小路 養福寺 号安住山 法官無 慶長年中田崎氏之妻 陽泰院様へ御奉公申上 一子嘉右衛門柳川御陣御供仕戦死之後 蒙 御免尼ニ成妙忍と申候 主君之御菩提次ニハ夫子之後生をも弔わん為に一宇建立 を奉願候処 陽泰院様其志を御感被遊 如願被仰付旨従 陽泰院様久池井弥右衛門を以 被仰渡候 右為御礼 御城罷出候節手織の木綿壱反串柿一連差上候処殊之外御笑御悦 被遊候由 右之謂を以不相替毎歳年始ニ御礼申上来候 但御礼物白麻壱束弐本能扇子
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円蔵院
佐賀城跡の南に位置する。福厳山と号し曹洞宗。本尊は聖観世音菩薩。龍造寺家兼(剛忠)によって天文14年(1545)建立されたもので、同年正月馬場頼周らにより川上や祇園原(神埼市神埼町尾崎)で討たれた子の家純、孫の周家・澄家・頼純、そして天文7年に病死した家純の次男で宝琳院の住職であった豪覚などの供養のためであった。寛文6年(1666)住職の村了が寺格の問題で2代藩主光茂に直訴して死罪となった。これは、彼を助けようとした山本常朝の師、高伝寺の湛然が華蔵庵(佐賀市大和町松瀬)に移る原因ともなった事件である。
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光円寺
龍造寺隆信の家臣、木下伊勢守入道覚順の次男が18歳のとき京で僧の修行した3年後、仙叔蔵王と称し、天文23年(1554)に中館前の伊勢守の屋敷の一部に道場を建て、仙叔(栄寺)を開山して光円寺を開創した。ここに墓がある。