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[神社仏閣][墓][巨勢校区]は2件登録されています。
神社仏閣 墓 巨勢校区
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小田資光の墓
小田資光の墓は東巨勢、龍津寺にある。小田駿河守資光は蓮池城主で覚派と号した。資光の祖小田常陸介直光が肥前にきて蓮池城を築いたのは応永34年(1427)であるが資光は戦国乱世のときに出て文武の道に長じ幾多の戦功によって所領も1万6千町に及び肥前の豪族として威勢をふるっていた。後に龍造寺隆信に亡ぼされた。はじめ墓は蓮池の徳恩寺にあったが、無気味なたたりが続くというので、あとで龍津寺に移したという。
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高尾美少年の墓
昔、高尾に龍造寺政家公のお小姓で中島山三という者が住んでいた。年は13・4の女にしても見まほしい美少年であった。ふとしたことから佐賀市辻の堂、百武武次郎という武士と契りを結び一夜を明かした。その後、武次郎は山三の登下城には、道筋の橋側に待ち受けて見送りなどし、その仲はいよいよ深まった。 『肥前夜話』には山三の風情を「顔は面長で透きとおるほど色が白く殊にふっくりとした淡いバラ色の頬の辺りなど触れなば溶けんかと疑われるばかり、目は黒瞳がちで睫毛が長く物を見るそのまなざしは言うべからざる一種の温かい情がこもっている。それに鼻筋通って花英(はなぶさ)のような美しい唇、背たけもまたすらりとして、服装はといえば紫曙染の大振袖に朱色の下着、茶宇の袴を穿ちて黄金造りの大小を帯びたる、その姿の凛々しくもまた気高さ…」とある。 ところが、2年経て山三は政家公のお伴をして上京のさい、船中で不幸病魔におかされ死亡した。遺骸は竈王院境内に葬られた。『肥前夜話』に「古今無双の美少年山三逝いて春風秋雨三百年、雑草茫々の中に碑石苔蒸して淋しく跡弔う人もなく…」とある。