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[指定文化財][建造物][富士町]は2件登録されています。
指定文化財 建造物 富士町
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吉村家住宅
重要文化財
上無津呂は筑紫山地の中心部であり、佐賀県の代表的山村である。この山間部には棟(むね)が一直線をなす直家(すぐや)形式の民家が多数みられる。吉村家住宅はその代表的な家屋の一つで、西北隅の部屋の側(そば)桁(けた)継ぎ手部分に書かれた墨書銘には 大工 落合村 羽右衛門 とあり、この家屋が天明9年(1789)に建築されたものであることがわかる。これは本県下における年代の明らかな民家としては最古のものである。 建物は南面し、桁行(けたゆき)8間(約14.4メートル)、梁間(はりま)5間(約9メートル)、寄棟(よせむね)造り、内部は東に土間をとり、床上は5室に分かれる。 間取りは当初東側を土間ニワとし、これに沿って12畳の「ナカエ」をおき、この上手表側に4畳の「ナカザ」と8畳の「ザシキ」、裏側に細長い「ナンド」、ナカエの裏側に台所を配していた。この間取りは三間取広間型系の発展した形とみることができる。 なお、昭和57・58年度には、老朽化が激しいこともあって、半解体修理が実施された。 吉村家住宅は、佐賀県北部山地に多い直家形式の農家として、年代の明らかな民家として学術的価値が高い。
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神代勝利公の墓 一基(石造宝篋印塔)
重要文化財
神代勝利は天文元年(1532)龍造寺氏に対抗しようとする山内の武将に請われて三瀬城主となり、神代大和守勝利と称した。弘治3年(1557)金鋪峠(かなしきとうげ)の戦で隆信勢を破ったが、永禄4年(1561)川上合戦で決定的な敗北を受け、永禄8年(1565)山内の畑瀬城で病死した。 墓碑は、石垣の三段積で、玉垣で囲み、台の上に石門があり、墓石は宝篋印塔で、基礎・塔身・笠・相輪で構成されている。基礎から相輪までの総高は、108.0センチメートル、塔身の東西南北四面に、「星」「心」「日」「月」の四文字が深く刻まれており、基礎石正面には、摩耗した浅沈線の為に不明瞭であるが「覺譽賢利」「大禅定門」と勝利の戒名が2列に彫られている。 墓碑は東畑瀬の宗源院にあったが、嘉瀬川ダムの建設により、ダム堰堤の左岸、畑瀬トンネル近くのダムの水面を眺められる高台に移設されている。