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[指定文化財][建造物][勧興校区]は4件登録されています。
指定文化財 建造物 勧興校区
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旧嬉野家の武家屋敷の門(薬医門1棟)
重要文化財
杵島・藤津地方を中心に勢力を持っていた一族で、古くは白石氏を名乗った。同氏が歴史の表舞台に現れたのは13世紀の蒙古襲来の時であり、肥後の御家人竹崎季長を助けて奮戦、その様子を描いた『蒙古襲来絵詞』にも白石六郎通泰の名で描かれている。 佐賀藩政期になると家臣団に組み込まれ、正保や慶安の御城下絵図では、片田江竪小路1番(現在の松原神社門前)に嬉野与右衛門の名が見受けられる。明和8年(1771)の「屋敷御帳控」によると、初出は文化6年(1809)正月で、嬉野与右衛門が南御堀端小路13番に屋敷地を得て文政2年(1819)5月まで居住した後、天保3年(1832)6月に現在地である松原小路4番に移っている。 屋敷地は、約30間四方と広大であり、西側は北堀端に移転拡張する前の最初の藩校弘道館敷地に隣接する。小路沿いの南面に門を構え、主屋は屋敷地の中央よりやや北側に配置されていた。この門はかつて「中門」と呼ばれ、さらに東方に配置された長屋門が屋敷の正門であったと伝えられている。 この武家門の形式は薬医門で、三間一戸、切妻造、本瓦葺である。本柱に冠木を載せ、女梁を載せ、男梁を支えて、控え柱と繋ぐ。小屋組みは束を建てて貫で固め、棟木、桁を載せて垂木を配る。中央に一間の両開きの板戸をいれ、両脇は板壁としている。中央一間の柱の見込みは薄く、背面に一筋の鴨居が残され、元は引き分けの引戸であったことが判る。妻飾りは拝み懸魚が付き、屋根本瓦葺きの鬼瓦には「水」の字が入る鬼瓦を載せている。女梁先は簡単な渦目の絵様とする。 この武家屋敷の門の正確な建築年代は判明していないものの、門の内法高が低く古い形式を呈しており、城下町佐賀における貴重な建築遺産といえる。
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武家屋敷の門 一棟
重要文化財
小路に面し、南を正面として設けられている武家屋敷の門で、創建の年代は明らかでない。門は、3間1戸の平門で、切石礎石上に4本の方柱で直接棟木を受け、貫の上方は連子となっている。貫の上に肘木(ひじき)をとおして軒桁(のきけた)を支え、軒は疎棰(そたるき)で本瓦葺となっている。中央は両開きの板戸で、左右の脇間は片開きのくぐり戸である。両側の破風(はふ)に懸魚(げぎょ)が用いられている以外は、飾金具もなく、装飾的な構造は全くみられず極めて簡素な造りではあるが、木組みは比較的に大きくて安定している。 門の両側には、棧(さん)瓦葺の塀も残存していて、保存状態は良く藩政時代における武家屋敷の遺構が極めて少なくなった今日、その価値は高いものがある。
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佐賀(龍造寺)八幡宮石造肥前鳥居 一基
重要文化財
文治3年(1187)龍造寺季家が鶴岡八幡宮の分霊を勧請し、龍造寺村 (旧城内)に創建した。その後慶長9年(1604)に鍋島勝茂が佐賀城拡張に際し、当地に移したと伝える。 鳥居は慶長9年佐賀藩祖鍋島直茂の北方藤女(陽泰院)の奉献になるもので、笠木の長さ4.80メートル、高さ3.40メートルである。石柱の下部は生け込みとなっていて、笠木は太い柱に対に反る特有の様式である。貫は三本継ぎで中央部分は後補により原形がいくらか改変されている点が惜しまれる。 この烏居は、造立年代の古いものの一つで、また、笠木の曲線などに独特な華やかさをもっており、最も典型的なものの一例として価値が高い。
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武家屋敷の門 一棟
重要文化財
八幡小路に面して建つ二階建ての長屋門がある。この屋敷跡は佐賀藩の家老という要職をつとめていた鍋島監物の屋敷であった。 門は、潜戸(くぐりと)付長屋門で、正面向かって左側に2階建の番所があり、右側には駕籠を納める倉庫があって、屋根は本瓦葺入母屋造り、外壁は漆喰塗り、腰は簓子下見板(ささらこしたみいた)張り、番所の2階正面には出格子(でこうし)窓が設けられ、門扉には両開き板唐戸(からど)で、扉の釣元(つりもと)に入八双(いりはっそう)金具、閂(かんぬき)の金具隠しに饅頭金物が装飾されている。 規模は間口12.7メートル、奥行3.9メートルで、建築年代は明らかではないが、江戸時代の様式をとどめた武家屋敷の長屋門として、当時を物語る貴重な遺構である。