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[指定文化財][考古資料][大和町]は13件登録されています。
指定文化財 考古資料 大和町
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佐賀県築山経塚出土瓦経 二二九枚
重要文化財
築山経塚は佐賀市大和町大字尼寺に所在する築山公園内の築山古墳上にある。周辺には肥前国庁跡、国分寺跡、国分尼寺跡が位置し、奈良時代から平安時代にかけての肥前国の中心地に造営されたことがわかる。 瓦経は長方形の粘土板に仏教経典を錐やヘラなどで書写し、素焼きしたものであり、末法の時代を迎えた平安時代後期の人々が五十六億七千万年後の弥勒菩薩出現まで経典を残すため、地中に理納したものである。 経塚は横穴式石室をもつ前方後円墳、築山古墳の後円部頂部に造営されている。瓦経及び刀子は経塚内部に築かれた直径約1メートルの石囲い内より出土した。 瓦経の大きさは、平均縦20.7センチメートル、横16.0センチメートル、厚1.0センチメートルの素焼きの粘土板に.界線・罫線をひき、表裏二面に経典を書写する。 書写された経典は、妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)174枚、無量義経(むりょうぎきょう)20枚、観普賢経(かんふげんきょう)18枚、阿弥陀経(あみだきょう)6枚、般若心経(はんにゃしんぎょう)2枚、法華懺法(ほつけせんぼう)3枚、さらに、仏画を刻んだ絵瓦が4枚、無地の瓦が2枚である。 妙法蓮華経巻第一の奥書に相当する瓦経および法華懺法奥書に、天養元年(1144)の銘、ならびに造営に関係した勧進僧・願主・筆僧らの人名も刻まれているものが確認されている。 本経塚出土遺物は、平安末期の人々の信仰の深さや思想のあり方を物語る全国でも極めて貴重な遺物である。これまで全国的には断片的な発見が多く、築山経塚のように瓦経の埋納状況が理解できるのば極めて少な.い。
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十三塚遺跡出土鏡 方格規矩鳥文鏡 1面 夔鳳鏡 1面 附 鉄製刀子 1点
重要文化財
昭和46年(1971)、旧佐賀郡大和町大宇川上で行われた工事で、2体の人骨を埋葬した箱式石棺墓一基が発見された。この箱式石棺墓には、方格規矩鳥文鏡(ほうかくきくちょうもんきょう)一面と夔鳳鏡(きほうきょう)片一面、鉄製刀子(てつせいとうす)一点が副葬されていた。 方格規矩鳥文鏡は、径15.4㎝の中型鏡である。内区の中心にやや大きめの半球鈕.があり、その周囲を18個の珠文が巡る。その外側には、櫛歯文帯があり、二重の突線で区画された方格の内側には4つの小乳が対角線上に配置されている。方格の各辺中央には、「T」字状文様が見られる。方格の一辺上には、「T」を挟んで乳が2ケ所ずつ計8つの乳が配置される。この乳と方格の間に胴上半部を表現した鳥文が各辺2対、計8つ鋳出される。さらにその外側には、珠文を施した鋸歯文帯、櫛歯文帯と続く。外区は平縁で、波長の長い複波文帯と外向鋸歯文帯が巡る。 夔鳳鏡は、縁と内区の一部が残る鏡片である。復元径は約11.0㎝。平縁で、内区との境には凹線が巡り、その内側には連弧文帯が施される。内区の雲状夔鳳文は、やや不鮮明である。鏡の破面は研磨されてないが、鏡背の角は丸く破鏡として用いられた可能性がある。製作時期は、中国における紀年銘鏡及び共伴する紀年銘出土品から後漢時代中期~後期とみられる。 佐賀平野における古墳時代の同棺複数埋葬例から古墳時代前期から中期前半頃と推定される。古墳時代前半期の埋葬施設に2面の鏡を副葬する例は、佐賀平野では唯一であり、方格規矩鳥文鏡と夔鳳鏡の組合せは国内においても希少である。本遺跡から出土した青銅鏡は、希少価値の高い鏡の組み合わせだけでなく、古墳時代前半期における佐賀平野の首長層の動向を知る上で重要である。
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一本木遺跡出土湖州鏡 一面 (附)鑷子一点,土師器杯一点,土師器皿一点
重要文化財
一本木遺跡は、佐賀市大和町東南部の大字尼寺に位置し、弥生時代から鎌倉時代にかけての集落及び墓地が確認された。鎌倉時代の土壙墓から湖州鏡と鑷子、土師器杯、土師器皿などが出土した。 湖州鏡の形態は猪目形の素文鏡で、長径10.5センチメートル、短径9.1センチメートル、厚さ0.4センチメートルである。下部に「湖州石家煉」の銘が陽鋳されているが、この文字は類例と比べて方向が異なっているのが特徴である。青銅製であるが、鏡面は白銀色を呈し、水銀を塗布している可能性が指摘されている。鏡の年代は中国の南宋代、共伴土器の年代は13世紀前半代である。 鑷子は、鉄製で先端を欠損する。残存長7.0センチメートル。 土師器杯は、口径14.5センチメートル、器高3.2センチメートル、底径9.0センチメートル。 土師器皿は、口径8.7センチメートル、器高1.4センチメートル、底径6.8センチメートル、底部は共に回転糸きりで板状圧痕が残る。 これらの遺物は同時に出土した土師器から13世紀前半代のものと考えられ、鎌倉時代の墓制を知る上で貴重な遺物である。
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本村籠遺跡出土遺物 一括 (附)甕棺二基(五個)
重要文化財
本村籠(ほんそんごもり)遺跡は嘉瀬川西岸にあたる佐賀市大和町大字池ノ上の低段丘上に位置する。 遺物として、多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)、青銅鉇(やりがんな)および碧玉管玉18個、青銅斧などが出土した。時期はそれぞれ弥生時代中期初、および前期末である。 多鈕細文鏡は面径10.5センチメートル。鏡背の上方に偏って2個の板状鈕をもち、縁は蒲鉾(かまぼこ)状縁である。鏡背の文様は大きくは内、外区に分かれ、共に精緻な細線で埋めつくされている。 青銅製鉇は幅2.1センチメートル、長さ3.4センチメートル。使用による研ぎ減りで長さを減じ、鋒は一方に偏った山形を呈す。 碧玉製管玉は18個あり、長さは4ミリメートルから7ミリメートル、径約3ミリメートルと小形である。 青銅製斧は刃部残欠、残存状態は長方形板状を呈し、幅4.2センチメートル、長さ2.6センチメートルまで残存する。この種の青銅斧としては我国唯一の出土例である。 これらの青銅器はいずれも、我国における出土例がきわめて少ない、特色ある朝鮮系青銅器であり、弥生時代前期末に始まる我国の初期青銅器文化が朝鮮半島文化のつよい影響によるものであることを如実に示す資料として貴重である。
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惣座遺跡出土遺物 一括 (附)弥生土器 一点
重要文化財
惣座遺跡は脊振山系から流下する嘉瀬川が形成する扇状地の扇頂近くに所在し、佐賀市大和町久池井字惣座に位置する。遺跡は縄文時代から平安時代にまたがる複合遺跡である。 出土遺物は、仿製鏡、銅剣・矛の石製鋳型、石錘などがあり、特に土壙墓の1基から銀製指輪および大量のガラス製小玉が一括出土した。 石製鋳型は上下端が割れた破片で、残存長5.2センチメートル・残存幅4.2センチメートル。表裏両面に銅剣型、また側面に銅矛型、計3本分の型が彫り込まれており、石材の再利用が窺える。これから鋳造された製品は剣、矛とも細形形式である。とくに矛は袋部に3条の節帯をもっており、従来、朝鮮半島からの舶載品と考えられていたタイプであるが、我国における青銅器生産の開始が弥生前期前半まで遡ることを明らかにした点で、意義は大きい。 銀製指輪は土壙墓の中央よりやや北側(頭位側)の床面上で、3個重なって発見された。いずれも径2センチメートル前後で、針金状の薄板を曲げて作り、素材はきわめて純度の高い銀を用いている。 ガラス製小玉は総数6,810個ときわめて多量であり、一連にすると9メートルをこえる見事なブルーの連珠となる。
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西山田二本松遺跡二号住居跡出土銅釦 一点
重要文化財
西山田二本松遺跡は佐賀市大和町大字川上字西山田二本松に所在する。弥生から鎌倉時代にかけての集落跡で、中心となるのは弥生時代後期の住居跡群である。発掘調査で弥生時代中期末~後期後半の2号住居跡から出土したものである。 銅釦(どうこう)は何らかの器物に装着してボタン状の飾りに使用された朝鮮系青銅器である。本品の場合、直径5.1センチメートル、高さ0.85センチメートル、全体の形状は直径3.6センチメートルの半球座に幅0.7~0.8センチメートルの周縁が付き、断面状鉢状を呈している。半球座の項部は径1.0センチメートルの少し凹みのある平坦面となり、緩やかに周縁へ降りる。半球座の裏は空洞で、その中心に孔径0.2センチメートルの小さな鈕が付く。半球座、周縁の表裏面ともに素文である。 遺存状況は周縁が薄いために数ヶ所で小さな欠損がみられ、部分的に表面も別離しているが、全体に比較的良好である。色調は表裏面ともに漆黒色で、半球座裏側の鈕の周囲には赤色顔料が残存している。 銅釦の発見例は他に、佐賀県小城市布施ヶ里遺跡の3点と、熊本県および京都府で各1点と、全国で4遺跡6点しか知られていない。 本例はそのうちの1点であり、朝鮮半島からの青銅器文化の影響を如実に示すとともに、住居跡出土の供伴土器によって銅釦の流入の時期が明らかにできる点で、学術的に価値が高い。
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銅戈 一口
重要文化財
嘉瀬川が佐賀平野部へ下る一帯は広大な扇状地が形成されており、そこには弥生時代の大規模な遺跡が多数分布している。 この銅戈(どうか)も、その遺跡のひとつ「尼寺(にいじ)一本松遺跡」において、大正8年(1919)に個人が自宅の庭園を拡張中に偶然発見されたものである。当時の状況をみると、地表下約60センチメートルのところに、切先を北に向け水平な状態で置かれていたという。 大きな欠損はなく、ほぼ完形であるが、全体的に刃こぼれが著しい。 全長39.3センチメートル、最大幅は約7.5センチメートルで切先の先端部がかなりの広がりをもつとともに、偏平化が著しい。 また、樋(ひ)と脊(むね)は身全体の約2分の1強の長さにもなる。樋には両面とも綾杉文様が比較的明瞭に陽鋳されており、その基部には台形の孔をもつ。胡(こ)はあまり延びず短い。茎(なかご)は小さくて薄く、その両面に五重の弧文を鋳出している。全体の仕上げの研磨は、あまり入念ではない。緑色に銹化しており、銅質はあまり良くない。重量405グラム。 銅戈の形式としては中広形に属し、弥生時代後期の製作と推定される。祭器として埋納されたものであり、当時の祭祀のあり方とその意味を知るうえで重要な資料である。
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大願寺二本松遺跡出土 一括(八花鏡一面、青銅製鉈尾)
重要文化財
大願寺二本松遺跡は県史跡大願寺廃寺の約1キロメートル西に位置する縄文・古墳・奈良・平安時代の集落跡である。特に奈良・平安時代の建物群は計画的な配置がみられ、官衙関連の遺跡と考えられる。これを裏付ける遺物として帯金具、鏡、越州窯系青磁、東海系須恵器、木製鞍と多くの墨書土器が出土している。このうち帯金具は青銅製の鉈尾で、残存長6センチメートル、幅3.8センチメートルを測る。鏡は八花鏡の約1/8の破片で、銅質は大変良い優品で復元すると約18センチメートルとなる。
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本村籠遺跡310号土壙墓出土遺物 一括(青磁椀二個、土師器小皿四個、刀子一口)
重要文化財
本村籠遺跡は嘉瀬川から西へ200メートルほど離れた佐賀市大和町池上に位置する。多鈕細文鏡を出土した地点の約400メートル南西に位置し、この地点からも弥生~中世の墓地、集落が調査されている。屋敷地を示すと考えられる鎌倉時代の区画溝内には、屋敷墓と考えられる310号土壙墓が発見されている。内部からは龍泉窯系青磁椀2個、土師器小皿4枚、小刀1振が埋納されていた。青磁椀はグリーンの釉色の発色がすばらしい優品である。小刀を有することから地域の豪族に関連する人の墓と考えられる。 鎌倉時代この一帯は於保氏が地頭職を相伝しており、関連が考えられる。
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佐熊遺跡出土 一括(鐸形土製品一個)
重要文化財
佐熊遺跡は弥生時代集落や墓地が調査された惣座遺跡の南に位置する遺跡で、弥生~中世の集落跡などが発見されている。この鐸形土製品は溝から出土したもので、下半部を欠いており、残存長6センチメートル、幅6センチメートルを測る。上部をつまみ出し鈕とし、中央に穴をあけている。
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上和泉遺跡出土瓦塔
重要文化財
上和泉遺跡は佐賀市の北東部に位置し、脊振山系南麓から派生する洪積台地上に立地する弥生時代から中世にかけての複合遺跡である。 瓦塔が出土した上和泉遺跡9区は、現在の久保泉工業団地の一角にあたる。遺跡の主体をなすのは8世紀後半~9世紀前半を中心とした時期の土坑群で、浅い谷地形の上がり際に群集するという特徴的な占地形態を示していた。また、遺構埋土も特徴的でいずれも人為的に埋め戻されたような状況を示していた。このような土坑群は周辺遺跡の調査においても検出されており、その性格としては「集団墓地」あるいは「土取り痕跡」ではいかという指摘がなされているが、確定はできていない。 瓦塔はこのような土坑群の中の1基から出土した。土坑からの出土遺物は8世紀後半~9世紀前半にかけての須恵器・土師器であり、このことから瓦塔の年代も同様と考えられる。 瓦塔は、組合わせ式仏塔の初重軸部(下から一段目)にあたり、ほぼ完存する。土師質土製品で、器壁の一部に赤塗りの痕跡が認められる。器高37.6センチメートル、基壇幅34.2~35.4センチメートルを測る。平面柱間は3×3間で、四面に開口部を設ける。基壇は二重基壇、柱は四角柱を表現しているものと考えられる。 組物は、尾垂木と持ち送りは一体化した立体的表現がされているが、その他のものについては平面的な表現に省略されている。 瓦塔は、奈良・平安時代を中心に造られた実用型仏塔の一種である。軸部・屋根等の各構成部位毎に窯で焼き上げた後、それを組み合わせ木造高層塔婆模造の中型塔婆とし、屋外あるいは屋内に建立された。 瓦塔の九州内における出土例としては、福岡・熊本両県で数例を確認しているが、佐賀県内では初の出土例である。しかも、初重軸部のみとはいえほぼ完存しているものは九州内において他にはない。 瓦塔は、仏教信仰と密接な関係をもつ遺物であり、仏教文化の地方伝播や当時の思想・杜会情勢を研究する上で重要な資料である。
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尼寺一本松遺跡出土遺物(一括)
重要文化財
【形状又は特色】 「雲雷文帯連弧文鏡(うんらいもんたいれんこもんきょう)(1面)、SJ7007甕棺墓棺体(1対)」 「方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)(1面)、ガラス小玉(1800点以上)、碧玉製管玉(1点)、SJ7026甕棺墓棺体(1対)」 【概要】 尼寺一本松遺跡は佐賀市大和町尼寺に所在し、嘉瀬川東岸の複合扇状地(ふくごうせんじょうち)に立地する。平成23年度に実施した発掘調査で、主に弥生時代中期末から後期の墓地が発見された。この中で特筆されるのが、中国で製作され伝来した青銅鏡を伴った甕棺墓の存在である。鏡は並列した2基の甕棺墓(SJ7007、SJ7026)から出土し、いずれも意図的に割って置いたと考えられる状況で出土した。SJ7007甕棺墓からは、割れた「雲雷文帯連弧文鏡」4片を一箇所にまとめて、棺体に添えるように並べて置かれていた。SJ7026甕棺墓からは、割れた4片の「方格規矩鏡」の1片のみを下甕の下に置き、残りの3片は上甕胴部中位の傍らに置かれていた。SJ7026の甕棺内からは被葬者の装身具と考えられるガラス小玉(1800個以上)、碧玉製管玉(1点)も出土している。いずれの甕棺には、内面に赤色顔料が塗布されていた。 鏡やガラス玉が出土した甕棺墓の被葬者は、特定身分の人物と推察され、近隣の惣座遺跡(そうざいせき)を含めて嘉瀬川流域に形成される地域社会の中核的集団の墓域と考えられる。 また、鏡が出土した甕棺は、時期的に弥生時代後期に位置づけられ、形式年代を判断する指標の一資料である。さらに鏡の破砕埋納(はさいまいのう)行為の起源は佐賀平野中西部と考えられており、今回の発見は、その細かい地域性が明らかになってきたとともに、甕棺を埋葬するどの段階で鏡の副葬(配置)が行われたなど、埋葬儀礼(まいそうぎれい)の一礼式がよくわかる資料である。
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築山古墳出土盾持人埴輪
重要文化財
円筒型の人物像の前面に盾を貼り付けているのが特徴で、腕は欠損しているため不明。人物の顔には入れ墨と思われる線刻が施されている。これは「魏志倭人伝」に記されている倭人の習俗「黥面文身(げいめんぶんしん)」を表現していると考えられる。また、顔と盾の一部に赤色顔料が残っており、祭事用化粧の可能性もある。頭部は、右頭部が良好な形で残存しており、頭頂部に巾9.0cmの鉢巻状のものを巻いている。正面中央部に切り込みが見られ、冠状の帽子を表現していると思われる。体の正面に持った盾には三角形や縦横に線をひいて装飾が加えられている。正面に頂上部と、左手側面が完全な形で残っているため、幅約28cmの盾と推定される。 佐賀県内で人物埴輪の出土例として、小隈山古墳(6世紀中頃 佐賀市)、岡寺古墳(6世紀前半頃 鳥栖市)、上のびゅう塚古墳(都紀女加王墓)(5世紀頃 上峰町)などがある。岡寺古墳では盾の一部が出土しているが、盾持人埴輪は出土しておらず、築山古墳が初例である。 九州では、仙道古墳(6世紀後半 福岡県筑前町)、百足塚古墳(6世紀前半 宮崎県新富町)などがあるが、いずれも円筒埴輪の両脇に帯状のものを付けた簡略化されたもので、築山古墳のように体前面に盾をつけたよりリアルな表現をとっている形態は全国的にも少ない。さらに、赤色顔料が塗られていることや入れ墨の表現など、形象埴輪の形態のほか、当時の習俗や葬送儀礼を考えるうえで大変貴重な資料である。