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[建造物][地蔵・銅像・石塔][巨勢校区]は6件登録されています。
建造物 地蔵・銅像・石塔 巨勢校区
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一本松戸次(へつぎ)塚
道崎一本松道崎橋横に1個の扁平な自然石が建っている。高さ3尺、人呼んで戸次塚という。元亀元年(1570)8月23日大友宗麟佐賀城攻のとき戦死した豊後の将、戸次式部大輔の戦死の碑という。 『直茂公三徳譜』に曰く 敵の大将大友八郎親秀討たれて北山の敵は残らず退散しけれど、東の口、阿弥(あね)、境原、茶臼山の敵はまだ退かず。然るに高尾まで攻寄せたる戸次式部大輔が5千余騎次第に落失せて陣所まばらになりし由城中に聞こえ、さらばその敵追い払わんと同23日納富但馬守先鋒にて隆信公自ら打出られ高尾に於て御一戦ある。直茂公と龍造寺上総介家晴は中島より敵の後に廻り鉄砲を打ちかけらる。かかりし程に戸次が陣騒ぎ立てことごとく東をさして敗北す。大将式部大輔は逃げる敵を下知してありけるが、納富が与力辻佐馬允に渡りあい、討たれて首をとられけりと。 或記に曰く 戸次式部大輔この時自殺す。その印、今の一本松也と、しかし、北肥戦記には、これが臼杵式部大輔となっており両者いずれか明らかでないが、土地の人は戸次(とじ)塚、または戸次(とつぎ)塚といっている。 龍造寺方では、これら戦死者の首級をあつめて葬ったといわれ、後、大分に照会、調査の上戸次(へつぎ)塚として「佐賀市の文化財」には掲載している。
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二木(ふたつぎ)大明神
巨勢神社の記録に、立川一族が鎌倉から今泉村(牛島下)に来て勧請したものに小二接神(しょうふたつぎのかみ)があって、牛島の三関(構口公民館付近)にあったが、いつのころか射撃場北浦(桜団地付近)に移されたと書かれており、今(天保のころ)三関の南に小二接神の跡という広さ1坪、高さ3尺の土地があると記されている。いつ、ここに移ったか定かでないが、祠には二木と刻されており、この地を二次(ふたつぎ)と言います。二接神とは神様の御旅所のことだそうです。
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馬頭観音
頭上に馬頭を乗せているので、庶民の間では馬の健康や死馬の冥福を祈る対象とされてきました。本来馬頭観音は大口を開いて衆生を救済し、疾走するように迅速に衆生を救うという功徳をもっているからと言われています。
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二十三夜尊
二十三夜塔には像と文字の刻像塔がある。文字塔が圧倒的に多いが、この塔は文字と像を刻まれた塔で珍しく、時期は不明です。地元の有志で小児天満宮とともに丁重にまつられています。
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五の坪観音
西分の西北に五の坪と呼ばれた竹林に囲まれた所がありました。 かつて、ここに子安観音として多くの信者があったという「五の坪観音」の場所です。 天明の郷村地図にも明記されていますが、この観音は池田氏庭に大切にまつられています。 この地区には昔、高平寺や長専寺があったが、大友勢の佐賀攻めの時、逃げる時焼けたと言われています。高平寺は安福寺の東にあって、大正初めまで石の釈迦牟尼仏像があったそうです。 長専寺は三浦氏宅東付近にあったそうです。
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経塚(きょうつか)
東分上の原田氏宅西隣の松の木の下に小石が積まれている所を経塚と言う。昔は千住の経島寺が管理していたと言われ、伝えるところによると、昔大友勢の佐賀攻めのとき戦死した無数の霊を弔うため、小石に法華経を書き、これを埋めて塔を建ててまつったと言われている。今は松を植えて目印にしている。