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[建造物][碑][大和町]は3件登録されています。
建造物 碑 大和町
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鎌田景弼顕彰の碑
鎌田景弼は天保13年(1842)熊本城下古京町に生まれ、明治16年(1883)5月初代佐賀県令として赴任し、明治21年(1888)6月病を得て死去した。 景弼は在職5年有余にわたり、県令(知事)として県内の道路、河川の改修、中学校の建設、県庁舎の新築等の大事業を完遂し、県民の信望極めて厚かったという。 景弼は県令在職中、風光明媚の川上峡を愛し、しばしばこの地に足を運んだという。県民はその功績の偉大なるを称え、県内の有志が相図って、川上峡を眼下に見る宝塔山親正寺の境内に頌徳碑を建てた。 荒木精之著「熊本県人物誌」に鎌田景弼を次のようにのせている。 『佐賀は県人の性格が剽悍で、議論がさかんでもっとも難治といわれているところであったが、彼はよく県人の意見に耳を傾け、是を是とし、非を非としてかたよらぬやりかたでのぞんだので、半歳もすると県人の信望を得た。時に千歳川の治水の命が下った。費用若干万円で佐賀県一県だけでも16万円を出さねばならぬ。この重大の際にあたって彼は県人にはかり、国道をひらいて治水を一緒にすることにした。この同時政策は一方の出血をおぎなって多くの政済が出来、佐賀はこれで蘇生の思いをしたという。また九州鉄道の如きも福岡の安場保和、熊本の富岡敬明、佐賀の鎌田の三県知事の協力によって出来たものであり、そのため佐賀県にも1つ位駅がなければと、鳥栖駅が出来たという話もある。』 鎌田景弼の頌徳碑はあまり知る人もなかったが、たまたま昭和12年5月1日早朝宝塔山親正寺住職宝蔵寺学進(昭和48年卒)が霊感によって碑文を書写中50年祭に相当すること感知し、有志と相図って50年祭を行い、今日まで例祭が行われている。
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今泉蟹守先生歌碑
昭和55年(1980)9月に、健福寺境内に今泉蟹守先生歌碑建設委員会で歌碑が建立された。 歌碑には、「渋柿のうまくなる世とまつほとに 身は老にけり木のもとにして」と刻まれている。 碑文は次のとおりである。 先生(本名隼太、屋号鞆屋、雅号御蒼生地)は、文政元年佐賀城下に生まれ、永年、大和町大願寺に在住、藩主直正公(閑叟)に任える一方、県下北部各地に学塾を開き、和歌、国文学の深き造詣を以て、郷土の青年子女を薫陶した。その顕著な業績は佐賀藩中、右に出るものがない。 先生は性情温厚にして廉直、交際を好まず、国学の真髄を伝え、二条家の和歌を振興した。筆蹟もまた逸品と称せられる。就中、業績の最大なものは「類題白縫集」とされ、時代を貫く藩歌人作品の集大成として、全国的に評価される。 碑面の歌は金立在の貧困時代に遺したもので、質実素朴の中に国民の指向すべき歩みを翹望している。 以上、教育、文学両面にわたる偉業を顕彰せんとして、その菩提寺健福寺に歌碑一基を建設した。幸いに県内外各位のご協賛を得て竣工を見たことを多謝する次第である。 昭和55年9月吉日 今泉蟹守先生歌碑建設委員会 中原勇夫識
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今山古戦場の碑
今山の戦から丁度100年後の寛文9年(1669)8月20日(新暦9月15日)の百年忌に際して、高城寺の住職は親貞主従の墓を赤坂山麓に建立した。後年親貞の墓は成松信勝の子孫の希望で更に高い赤坂山の頂上に移された。今は山全体が密柑山で頂上まで舗装された道が続いている。山頂の大友公園には親貞の墓と大和町が建立した「今山古戦場」の碑が並び建てられている。親貞の墓は自然石で、碑面に「無庵玄鑑居士」の法名が刻まれているが、300年の星霜に碑面の文字も定かでない。麓には従者の墓と言われる3基が残されている。 成松信勝が龍造寺隆信からもらった感状である。 去廿日於今山豊州陣切崩刻抽粉骨人躰大友八郎方被討捕之段高名無 比類侯弓矢静謐之砌可加扶助候別而辛労之趣向後不可忘却之状如件 元亀元年 八月廿六日 隆信(花押) 成松刑部少輔殿 又敵将大友親貞を討ち取った時に使用したと伝えられている槍は径3cmの木柄、全長431cm(2間半)で、穂先は16.3cmの直槍、平肉に独鈷剣の彫物があり、中心には「相州住周廣」の銘がある。この槍は県立博物館に寄託されている