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[遺跡・跡地][跡地][巨勢校区]は7件登録されています。
遺跡・跡地 跡地 巨勢校区
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高尾お倉跡
巨勢川岸の公民館付近は藩政時代に佐賀藩の上納米収納倉庫のあった所で明治16年頃までは4棟あったと言われています。廃藩後不要となり明治29年土地と新倉庫は巨勢村に払い下げられ役場として使用されていましたが、昭和になって農協倉庫になりました。 この付近はお倉浜と呼ばれ船着場でコの字形に倉庫が並び中庭は米検査所で、高尾橋のたもとに倉番所があったそうです。
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元忠寺跡
修理田にあり、安養山と号し天台宗の寺院であった。 『肥陽古跡記』に曰く。佐賀郡安養山元忠寺、本尊は大聖不動明王、智澄大師の御作也。如影上人元忠の開基、元和4年卯月中旬高源院殿正真大姉の御願にて、愛染明王の尊形弁聖天の像を作り、一宇の堂を建立し給えり。また万治2年12月18日太守光茂公の御願として、江府山王七社を御勧請有って、同年12月13日この元忠寺の勝地に移し奉り給う…とある。 当時、巨勢第1の寺で、藩主の信仰も厚く、度々ご参詣あり、知行つきであったけれども、廃藩により寺運衰え、明治初年には、十大区の御用取扱所を元忠寺におかれて地方行政の中心となったこともあるが後、廃寺となる。 山王社も神埼町仁比山の山王社に合祀され今は小さな社が残り、元忠寺は住職の墓が林の中にぽつんと残っているのみである。
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一里塚
国道264号線沿い、東分上に一里塚の地名がある。香田氏宅前に松があって人々は一本松と呼んでいたと言う。昔は塚になっていて、藩政時代長崎街道上の里程標塚で、白山町高寺の里程標から1里の地点であることを旅人に表示したものであるが、今は地名として残っているだけである。
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牛島の内吉原
下新村大井手の南に四方堀で囲まれた地を内吉原という。旧藩時代罪人の処刑場があった所で、後佐賀監獄墓地となったが大正12年廃された。
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牛島の内芦原
牛島540番地、藩政時代は鍋島山城守の所領で、佐賀江と巨勢川の合流点に位置する要地であったので、佐賀以東の形勢監視の任をもって、ここに侍屋敷を構え、射場、上納米倉庫も置かれていた。
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番所跡とみちしるべ
藩政時代、佐賀の城下にはいる東の入り口で、ここの橋を渡って城下に入る要所で、それにちなんで構口という地名になったと言われています。橋を渡った西側に番所があって武士が詰めていて、城下に入る通行人を監視していました。ここには、「番所跡」の標柱と、「ながさきへ」「こくらへ」と刻まれた石の道標があります。
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肥筑軌道高尾駅跡
巨勢地区には大正末から昭和初期にかけて軌道(軽便鉄道)が牛島宿のアクロスの裏から蓮池、千代田に走っていた。大正6年真崎照郷などが発起人となり肥筑軌道株式会社を設立し大正6年に工事に着手し、第一次大戦で物価が上がり一度中止したが、大正11年高尾より崎村まで工事再開して12年5月竣工、24日営業開始した。始発駅はアクロス南にあって、2両編成の車両に機関車がついてヒョーッという汽笛を鳴らし牛島、西分、東西、東巨勢、千代田へと走っていた。この軌道は久留米まで延長される予定であったが、第一次大戦後の不景気で資金も続かず経営困難となり倒産して昭和9年頃廃止された。