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[民俗・芸能][民俗芸能][久保泉校区]は2件登録されています。
民俗・芸能 民俗芸能 久保泉校区
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獅子舞(大神楽)
今から約700年前、檪木村の北の松林、現在は地区立納骨堂前左の楠あたりに鬼の岩屋があり穴の中に、獅子がいて、『これを見たら家内安全・無病息災・安産の御利益がある』といわれ、みなが拝観したがった。ところがなかなか、お姿を現わしては下さらない。 たまたま、丹波の国の小間物売り「与作」がこのことを聞き、村の衆のお役に立つことならばと、村人に笛や太鼓で囃させ、自らは造花の『めずい棒』を両手に、面白おかしく踊りめずった。獅子は何事かとチラット姿を見せたゲナ。それからは、与作はもとより囃手の村の衆は、御利益てき面、みなが幸せになり、村は繁盛したとサ。 この獅子を神獅子とあがめ、全国の社寺のお札で獅子の面を造り、小鼓打ちを「もらーし」と呼び、詞章(よみ歌)を作り、舞として後世に継承するようになった。これを『檪木のジャーカグラ獅子舞』という。 隣地区の尾崎獅子舞によく似ているが、伝承が異なり当方のはササラが無く、よみ歌の節回しが違い、神埼の櫛田神社には出場せず専ら金立神社の50年に一度の大祭りや、雨乞いのみに先導露払い役を勤める。 出場総勢は、60名だが小地区なので少なくなった。 ○音頭取 数名 むらの長老がなり、紋付羽織で、赤白の三角紙を吊した杖を持つ。 この中から頭領1、歌い手2が出る。 ○獅子めずい又は「与作」 2名 少年が交替でなり、造花のめずい棒を両手に、あご吊り彫り黒面を、かむり、 赤白の女の長襦袢を尻からげして、腰にひょうたんを下げ、面白おかしく踊る。 ○獅子っきゃー 10名の2組 青年がなり、獅子の胴内に入る。服装は獅子めずいと同じ、先頭が獅子の面を操る。 ○笛の役 8名 熟練した若者で、頭領の旗による指揮により、横笛の調子を変える。紋付羽織 ○小もらゃーし 6名の2組 小太鼓打ち、筒袖の白衣に紫のたすき、緑の帯。花笠をかむる。 ○うう太鼓打ち 2名 太鼓は2人が担いでいたが、今は車に乗せる。 獅子の頭部獅子頭は全国の神社の神符を竹編みに幾重にも貼り、赤に塗り、たてがみには白紙の御幣が結ばれ、胴体の前は無地の麻布を垂らす。胴体は紅白の幕布で、尻尾はない。 「ジャーカゲラ」は「大神楽」でなく、「代神楽」とも考えられる。伊勢詣りの代りに、伊勢の御師が神楽の一座を連れて各地を訪れ、舞をしたのを「代神楽」という。中国にもこれに似た舞がある。 左右の狛犬の左の口を開いた方を「しし」という。 野獣を総称してもいうし、特に鹿を指す場合がある。鹿ヶ谷・鹿垣。
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白鬚神社の丸祭り
川久保白鬚神社には、10月9日早朝、今もなお続けられている「丸祭り」がある。この祭は、上代の姿を供え物・直会(なおらい)の肴・供え膳に残していることで注目されている。 前夜のお籠りに続いて早朝、丸持ちの家の人達が紋付羽織袴で集まり、祭典中は氏子と雖も境内に立入りさせず行なわれる私祭で、一切言葉を発してはならなかった。昔は神官を招かず、蔵人さんが司宰(しさい)したという。 供え物の品は、人家幣と書く御幣19本・花米と書く御饌米1升・甘酒1徳利・新米で搗いた月形日形の餅各19個・オキョーサンという大きな御供さん19個・みょうたん柿・くり・キノス柑又はユズ柑各19個の6種を、70の御膳に乗せて供える。 御膳は30×25センチメートル角で小竹を折り曲げた角物に5本のわらを格子状に組み、その上に和紙を敷いただけ。直会の肴は、結び昆布又はわかめ・コンニャク・煎り大豆・茹で里芋・針生姜の5品目だけの古い食べ物。 天保11年(1840)、たまたま花納丸の古墳より、鏡・三環鈴・管玉が出土。この模様と十九丸の由来を、古川徳基・南里有隣・草場佩川が書いた『花納丸文書』が、県立博物館に在る。この文書には次のことが記されている。 「推古天皇34年(626)邑長祠を立て、江州(滋賀県)白鬚の神を奉ず、このとき江より来る者19人、明丸・石丸・泰郎丸・千徳・彌頭.関行・犬王・倉童等皆丸を以て、祠の傍に宅す、後丸を以て其の宅を呼ぶ、総べて19丸。花納丸はその一也、祠に最も近し、云云」 残りの丸は地名として、吉丸・米丸・有吉・太郎・三郎・六郎・彌以・光富・有富・乗貞の合計19丸で、その所在地は付図の通りである。丸の所在地には、もと古墳らしきものがあり、石の小祠には薬師・不動・天神等の仏の名が刻まれていた。 白鬚神社の項で述べた祭神・勧請年代・十九丸の性格を、この花納丸文書と照合すれば、古墳後期の百済新羅系農耕祭祀集団に比定される。一説にはシラギがシラヒゲに転じたともいう。(金達寿氏説) 上代の日付の変り刻は、日のくれた日没で、9日は8日の日没からであった。9月9日は重陽(ちょうよう)の日で、お供日の祭り日であった。 明治5年(1872)暮の太陽暦採用により、10月19日が祭り日となった。18日の夜のお籠りは、潔斎の最後の日のなごりである。18日に田楽を舞って、神の降臨を仰ぎ、夕みけの饌を供え、厳粛なお籠りを行ない、日の出前に朝饌を供え、神にお礼の祝詞を上げ、また来年も豊作をと祈願し、終れば田楽を舞って神の昇天を見送った。この一連の祭典を『丸祭り』というが、長い年月の間には、いろいろと変わり省略された。