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[産業][工芸技術][大和町]は2件登録されています。
産業 工芸技術 大和町
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今山焼
大和町横馬場地区(当時は今山に含まれていた)の北方、小さい溪流を渡った柑橘園の地中から、無数の焼物台や築造窯の破片が発見された。この破片の一部が現在は石垣石の代用として積み上げられている。ここに窯が築かれたのは、横馬場裏山の山上に発見された今山石が焼物の主要原料に適したためであり、当時有田南川原の初代酒井田柿右衛門も使用したと伝えられている。 「肥前陶史」によると、慶長3年(1598)鍋島直茂が多久長門守政頼(安順)に命じて韓人李参平にここで青磁を焼かせた……と記してある。今山焼は移り変わりがひどく、維新前にはほとんど衰微してしまったが、明治になって川上実相院の住職の斡旋によって、佐賀市本庄町在住の森伊作氏の出資を得て、窯元14人の組合を作り製造することになった。明治14、5年ごろまで7間(12.6m)の登窯が盛んに陶煙をあげていたが、その後再び衰微し、中には田地屋敷まで森伊作氏の所有に移ったものもあり、ついに全く廃窯となってしまった。 ここで製作されたものは、丸型の三つ足付きの小さな香炉、染付山水絵六寸丼、水芦底絵ゆり縁の中皿、茶碗、鉢、花立等であり、香炉には腰裏に「肥前今山焼」の押印がある。古い製品には呉須を用いて柚色の見るべきものもあるが、後代の製品は皆コバルト色の日用品のみを焼いたと思われる。
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名尾紙と納富由助
名尾障子紙の名は古くから有名で、特にその耐久力の強さは稀であるが、優美さの点でやや欠けるので、今日では家庭用としては愛好する者が少なくなり、美しく風雅な趣向を取り入れた他県の紙におされ気味である。しかしその耐久性を利用する温床用等の農芸用として珍重されている。 もともと大和町名尾地区は山に囲まれ耕地面積が少なく、農家の生活は困難であったので、何かの副業を盛んにしなければという意向が有志を始めとして強かった。そこで元禄3年(1690)名尾村の納富由助は、筑後の溝口村(筑後市)で僧日源の教えを受けること5か年、すいて作る(漉造)製紙法の技術を苦心の末に習得して名尾村に帰り、村民に伝えたのがその始めといわれている。 これより名尾村では農業の副業として今日まで連綿として継続して来たのであるが、藩政時代には年々藩主は資金を給与して国札(藩札)の紙や役所の用紙等を製造させた。しかし維新後は年々衰微してきたので、初代佐賀県知事の鎌田景粥はこれを奨励し、後に名尾製紙組合を設けさせると共に、有志と計って元祖納富由助の頌徳記念碑を建設し、自ら題字を揮毫し、当時の佐賀郡長家永恭種が碑文を撰書して、農商務大臣西郷従道もこれを援助した。 その後、世の中が進歩するにつれて又旧式の製紙はあまり歓迎されず、機械による大量生産の他県の物に圧倒され、販路も縮少されてきた。そこで当時名尾紙の製造家であった川浪正隆はこのことを憂え、自費で先進地を視察すること数回、明治33年(1900)名尾製紙養成所を設け、器具機械の改良、使用方法の伝習をさせ、その発展を図ったので数倍の生産力となり、九州製紙業界にその名を高めた。 しかし、今日では近代的な進んだ大企業により豊富に出回ってきたため、再び衰えて、名尾紙の製造を続けている家は数軒となっている。