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[自然][河川・水路][久保泉校区]は4件登録されています。
自然 河川・水路 久保泉校区
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横落水道
旧神埼町西部を流れる城原川の水が、仁比山の八子から西へ分かれて下和泉まで約6kmの直線水路がある。この水路を横落水道又は横路川と言う。 この水路は、城原川右岸から下和泉へかけての灌漑用水路で、成富兵庫が指揮したともいうが、川久保の邑主神代の采配があった。この取入口を三千石井樋または単に三千石と言うのは、この付近の大字竹以西が神代家の配分地でありながら、水が無くて荒れていたので、年貢4000石の負担が苦しく、3000石と称していたためである。当時神代氏は鍋島氏の親類藩として1万石の石高を与えられていたが、この付近では3千石が水路や神代氏の代名詞となっていた。 もともと城原川は、小渕(大字的)で、東西に分かれていたが、一の井手(通称あらこう)で東の流れをせき止め本流1本になし、下流の八子に石堰を築き西へ落した。 この水道の川浚えは、毎年5月上旬の八十八夜前後に行なわれ、城原八子・川寄・野寄・柏原・利田・伏部・尾崎東分・尾崎西分・大字下和泉の関係田持が『横落公役』として出夫し、各村の庄屋が引率し延べ700人が参加。代官所が監督していたと伝える。 受益面積は、もと412町であったが今は狭くなりつつある。 横落水利組合の水利慣行は、動かすことのできない鉄則として守られていた。 負担金の率も地区によって異なっていた。
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神籠池
佐賀平野の条里は、城原川の西にも設定され、西郷野寄を基点とし西は横落から金泉中へ、南は城田上黒井までの3.9㎞、1里の方形であった。当時この間は、水に恵まれず墾田開発は進まなかった、と広島大学の米倉二郎氏は説く。藩政初期、神代氏の配分地となり、横落水路・八ッ溝の開さく・大小の溜池築造・河川の改修が為され、新田が開発された。だが水不足は思うにまかせず、水源かん養林では間に合わない。 神籠池の竣工碑には、『昭和12年村長本村久雄、村民に訴え同県補助による計画を樹て、同15年認可、16年起工云云』とある。 昭和4年、同9年には旱天続きで田が植えられず、水争いが各地で起こり、溜池の拡充・増設の議があがった。始めは、勝宿社の所で城山・鈴隈が迫り狭谷50mなので、社を城山に移し、ここを塞き止め県営ダムを、との案であったが、地元が反対したので、長い導水路を付け、東の小城内に移し縮小することになった。受益面積500haという。 この改良案を住民に訴えたのが、昭和12年である。ところが同14年、西日本一帯の未曽有の干ばつは、御神輿のお下りまであって9月9日にやっと雨が降った。村長本村氏は、再参内務省と直談判をし、ようやく16年着工と補助の約束を得た。 だが村内の政党争いで彼の土産が届かぬ内に、村長の座は変わっていた。 戦後、復員・引揚者の労働力により、8ヶ年の歳月をかけ昭和24年やっと竣工した。 工事中発見された神籠石に因んで『神籠池』と命名された。
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不動滝
慈音院の右手の山道を、瀬の音伝いに登ると二条の瀑布の前に出る。不動尊を祀ってあるので『不動の滝』という。 もうここまで来ると、俗世の雑音も雑念も去り、木霊する爆音に何かを祈りたくなる。飛沫は岩に砕け、かかる虹の橋はいつ来ても心が和む。 ああわが古里よ 古里よ。 なくもがな、瀑布の前の閉ざされた籠り堂。 不動明王は、大日如来の命を受け、衆生の心に潜む悪魔を払い善人にして下さるという御仏で、右手に剣・左手に策(なわ)を、怒った形相で髪は炎のように逆立たせ、するどい眼光、むき出した牙。何と恐ろしい姿だろう。いや我々の心の悪魔の姿ではないだろうか。 滝の左手の道を西へ登ると、大方広佛華厳経と書かれた巨石がある。 華厳経は大乗仏教経典の代表格とされる。大方広仏とは広大なる仏ということである。「仏道の根幹は仏を信じ、修業と求道により心の内にひそむ諸悪業をざんげすれば、自分も清浄になり社会も光り輝やく極楽となる」と説く。
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観音滝
不動の滝から流れに沿って左手の道を200m、軣然たる木霊と共に、十数mにわたって岩肌を伝い流れる直白い帯がみえ、不気味ささえ漂う谷間がある。これを『観音滝』という。水子地蔵が沢山目に止まる。