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[人物][人物][北川副校区]は4件登録されています。
人物 人物 北川副校区
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福満寺102代の住持
室町幕府が衰え、群雄割拠の戦国の世を迎えた。九州でも、九州探題の今川氏に対して、大友、少弐の両氏が手を握って対抗し、佐嘉地方でも、龍造寺氏を中心にして、攻防が繰り返されていた。 享禄4年(1531)大内義隆が、将軍の命を受けて、少弐氏討伐のために攻撃をしかけて来た。少弐資元、冬尚父子は、高祖城から多久梶峰城に退いて来たが、敵が綾部城(中原町)に攻め入ったので、ついに勢福寺城(神埼郡)に逃れて来た。 龍造寺家兼は、これを迎え、江上元種に守らせた。10月になって、大内勢が勢福寺城を包囲したので、家兼は和睦の申出を受けて、勢福寺城を明け渡した。しかし、大内氏が次々に少弐氏の所領を没収したため、12月29日に多久に走り、松法師丸(冬尚)は蓮池の小田資光を頼って、小曲城に入った。 大内軍は、なお手をゆるめず、武雄、上松浦などの豪族を合わせて、多久梶峰城を包囲したので、防ぐすべもなく、城を抜け出て、譜代の家臣今泉播磨守、窪、平原の3人を呼び、7歳になったばかりの元盛の後事を托して、自殺して果てた。そこで元盛主従は、北川副村江上の福満寺に身を寄せた。 その後、今泉播磨守は、雲水に身をやつして、諸国行脚に出て、少弐家の再興を計ったが、幕府が、再興を許さなかったので、ついにあきらめ、剃髪して仏門に入り、101代の住持となり、また元盛も仏門に入って102代の住持となって、余世を送った。今も、その墓が残っている。
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古賀傳太郎
明治13年(1880)に生まれ昭和7年(1932)に亡くなった、北川副町出身の陸軍大佐。 明治34年(1901)士官候補生として騎兵第3連隊に入隊、日露戦争に従軍。39年功5級金鵄勲章授賞、昭和6年(1931)満州事変に出動、7年1月9日錦西城付近で勇敢に戦闘、羅南第27連隊長として戦死する。 その戦いぶりが当時軍国美談として、著作(「鳴呼壮烈古賀連隊長」外)や演劇などで喧伝され、佐賀城内に銅像が建った。
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古賀喜三郎
弘化元年(1844)に生まれ、大正3年(1914)に亡くなった、佐賀郡北川副村古賀に生まれた教育者。 父は、平尾吉左衛門、幼くして同村中野古賀家の養子となる。安政年間(1854〜1859)15歳で佐賀藩陸軍所に入り砲術を修め、技能優秀3年の後免許相傳を受け、長崎伊王島台場司令を命じられる。在任6ヶ月にして帰国し、維新に際し九條道孝に従い砲隊司令として奥羽征伐に参加した。平定の後大総督宮殿下から感状を賜り、後藩の兵術訓練部長に挙げられる。明治5年更に海軍兵学校幹事として奉職し、海軍中尉から少佐に進み、14年予備役仰せ付けられる。その後、海域学校の前身一貫舎を創立して専ら海軍軍人志望者の養成に努め、以来宅地家財及び恩給等全部を学校のために尽くし、32年4月には校舎を拡張して日比谷中学を創立する。39年同校を私立海城中学と改称。この間卒業生を出すと三千余名内海軍将校一千余名の多きに達した。墓は東京麻布の賢崇寺にある。
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野田常貞
嘉永4年(1851)に生まれ、明治40年(1907)に亡くなった、佐賀市北川副町古賀出身の政治家。 明治5年(1872)東京でドイツ語を勉学、7年(1874)帰郷「尚風社」を興し、法律を研究、弁護士となる。武富時敏と共に「肥筑日報社」を設立、政界に入って進歩党に属す。16年(1883)県会議員となり、21年(1888)議長となる。27年(1894)衆議院議員となるも1期で辞め、再び県会議員となり議長職を長く務める。30年、農工銀行設立のとき頭取となり、佐賀県経済界にも貢献した。