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[人物][人物][川副町]は16件登録されています。
人物 人物 川副町
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龍造寺隆信
(1529−1584) 鹿江の威徳寺には龍造寺隆信が使った槍、陣太鼓や肖像画があり、早津江の志賀神社には隆信が使った軍旗が古くからある。また新しく犬井道戸ヶ里先のアカシドウには隆信の石像も建った。戦国時代の英雄であった龍造寺隆信と川副町の因縁は深い。 龍造寺の先祖は藤原鎌足という。その子孫の藤原季喜が源為朝に従って九州に西下し、小津郷(現在の佐賀市)の龍造寺村に住んで龍造寺の姓を名乗った。この季喜から15代目が龍造寺隆信であり、享禄2年(1529)2月25日水ヶ江館に生まれた。現在佐賀城南、中ノ館に隆信の誕生地記念碑と袍衣塚が建っている。父は龍造寺周家、母は本宗胤員の長女。隆信は幼名を長法師(千代法師)といい、天文4年(1535)宝琳院に出家。同14年正月3日、馬場頼周らの謀略から父の周家はじめ、村中、水ヶ江にいた龍造寺一門の六将が川上と祗園原で戦死し、翌天文15年3月10日には曽祖父の家兼が93歳で老衰死をしたため、家兼の遺言で宝琳院にいた長法師円月も還俗して龍造寺山城守隆信と名乗った。実際は最初、隆胤と名乗ったが、天文19年、大内義隆の執奏で従五位下に叙された恩顧から義隆の1字を貰って山城守隆信と名乗った。龍造寺家は村中と水ヶ江の2系統があったが、水ヶ江に生まれ属した隆信はこれで村中の主ともなった。 天文20年、豊前の大友宗麟と内通した隆信の家臣土橋栄益が神代勝利、高木鑑房、高木胤秀、小田政光、江上武種、馬場鑑周、筑紫惟門ら十九豪族のほか有馬、犬塚、多久らの武将とかたらって隆信の弟家信(長信)が守っていた水ヶ江城を攻囲した。このため隆信以下は水ヶ江城を脱出して寺井津から柳川城主の蒲池鑑盛を頼って落ち延び、蒲池の厚意から、前に隆信の曽祖父家兼を匿まった一木村の原野十郎恵俊の家に、300石の扶持をもらいながら匿まってもらったのである。 隆信をうまく追っ払った土橋栄益は、高木鑑房を水ヶ江城主にまつりあげると共に東の巨勢、北の大財、愛敬島、三溝、多布施、長瀬の五領地に腹心のものを城番として配置したが、八戸と高木を除く所領以外はすべて山内にたてこもった神代勝利の支配下に置かれた。筑後に落ち延びた隆信はその後、家来の福地信重を秘かに遣わして水ヶ城奪還の計画を進めると共に与賀郷や芦刈で同志の獲得につとめた。一度天文21年に芦刈の鴨打胤忠が調達した船でここに上陸作戦を試みたこともあったが、暴風のため、船が有馬領であった杵島郡の柳津あたりまで押し流され失敗に終わった。隆信の再起が成功したのは、翌天文22年7月25日、犬井道のアカシドウに上陸作戦後であった。 アカシドウに上陸した隆信一行が鹿江の威徳寺に着くと鹿江遠江守兼明のほか、すぐ駆けつけた鹿江伯耆守久明、石井石見守、石井三河守の一族と村岡帯刀や副島・久米・徳久・御厨・飯盛・古賀・南里・犬塚・末次など川副、与賀の郷士が参集し、与賀郷の飯盛館を守っていた高木、八戸を攻めるため、鹿ノ子の竜昌庵に陣取った。この鹿江から与賀に行く途中、現在西川副小学校の南側にあるコノイサンにたくさんの軍荷を置いた。この「此荷大明神」がコノイサンの語源であり、祭神は龍造寺隆信ともいわれる。(後藤道雄博士著『新佐賀夜話』) その後、隆信は破竹の勢いで高木鑑兼、小田政光を降し、翌天文23年(1554)には三根、養父両郡の諸城、翌弘治元年(1555)には勢福寺城の江上武種を降ろすと共に神代勝利を山内(神埼、小城などの山内)に攻めて筑前に脱走させ、弘治3年(1557)には八戸城の八戸宗暘を攻略、翌永禄元年(1558)には蓮池の小田城を攻めて小田鎮光を降し、永禄2年は千葉胤頼を攻めて陣没させ、また少弐時尚を自仞させると共に馬場鑑周と横岳鑑貞を降すなど連勝を重ねたのである。 犬井道上陸後、隆信はこうして30年間に毎年のごとく戦争を続けて遂に五国二島の大守となり、薩摩の島津、豊後の大友と九州を三分鼎立する形を作ったが、最後の天正12年3月、島原半島で島津、有馬の両軍総勢1万未満に対し、2万5千から6万といわれた龍造寺勢の戦争で、龍造寺勢が不覚にも大敗し、3月24日未刻(午後2時過ぎ頃)薩摩の物頭川上左京亮に首をあげられた。時に隆信56歳。遺骸は赤松町の龍泰寺に葬ったが、明治4年本庄町の高伝寺に移された。
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園田二郎兵衛
犬井道の海童神社の境内西南隅に、辻演年と並んで園田二郎兵衛(むかしは薗田と書いた)の記念碑が建っている。園田二郎兵衛の記念碑は明治30年代、最初は古くから園田一族の漁師たちが住んでいた田中の西北端に建てたものを、昭和時代になって海童神社に移したものである。 園田二郎兵衛は、戦国時代の天文22年(1553)7月25日、筑後の柳川近く、一木村に蟄居中の龍造寺隆信が、再挙を企てて佐賀城を奪還しょうと、鹿江遠江守兼明などが用意した兵船に乗って、現在犬井道戸ヶ里先のアカシドウに上陸したとき、犬井堂新兵衛と2人、この水先案内をして鹿江の威徳寺まで導いた漁師であった。昭和53年現在から425年前のことになる。 この園田二郎兵衛と犬井堂新兵衛2人の尽くした功績を龍造寺家から鍋島家にと時代が変わっても忘れなかったわけだろう。 龍造寺隆信がアカシドウに上陸して52年後の慶長10年(1605) に、後で園田一族が「隆信さんのお墨付」といった御判物が園田二郎兵衛と犬井堂新兵衛2人にさずけられたのである。この御判物は縦27cm、横18.2cmの板に書かれたもので、園田一族が交代で保管してきたが、現在は佐賀県立博物館に預けてある。文字は次の通り。 「鹿江崎大宅間江はじ指の儀堅存申にまかせ魚百掛上江さし上申可然候、己上 慶長十年 八月十日 与兵衛尉 薗田二郎兵衛 犬井堂新兵衛 当時現在の犬井道はまだ鹿江崎といっていた。大宅間は大詫間だが、当時はまだキチンとした島ではなかった。はじ指は後に立切網とか八尺網、タテギーといった。このはじ指網の特許も文面からみて漁師たちがお上に願い出たものだろう。漁師たちの願いは許すがその代わり魚を百掛(一掛は一荷か、一籠)お上に差し上げろとのこと。与兵衛尉は龍造寺系累の龍造寺与兵衛尉家久のこと。この御判物のほか、鍋島家では下の由来書寫を保管した。 「慶長十年乙巳 秋八月安順免以下佐嘉犬井堂之津人薗田二郎兵衛犬井堂新兵衛於鹿江崎大宅間江漁焉但以彼之父祖隆信公自筑後還行之時渡江之船忠也為証判而授之 安順 始 龍造寺六郎二郎賢康 中 同 与兵衛尉家久 後 多久長門守 安順 この御判物によって園田二郎兵衛、犬井堂新兵衛の2人は、はじ指網と公役御免のほか、苗字も許されたのだろう。その後66年後の寛文11年(1671)の御判物では、犬井堂新兵衛の子孫が断絶したので園田二郎兵衛の子孫である園田内紀にはじ指網の儀は申付るとある。この御判物では犬井堂が犬井道と変わったのが目につく。降ってこれから66年後の正徳4年(1714)、子孫の園田次郎助が、これまで園田一族のはじ指漁に従事したものは18人いた。これは公役御免の特権があったが、こんど村役人から公役かたを申し付けられ迷惑した。このためお上に陳上したところ、願いの通り公役御免になって有難いとの礼状も残っている。更にまたこれから89年後の享保3年(1803)の記録では園田一族の嘆願書として、一族も子孫も100人余りに増加したが、田畑を耕さず、漁業一筋に生きている。しかるに近年搦方などのお役所ができ、干拓地が広がって漁場が狭くなり、それに葦が繁茂してはじ指網もやり難くなったから何とかしてくれと訴え願い出た文書などの記録も残っている。
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武富太郎兵衛
大詫間の島を初めて50町歩干拓した人が佐賀城下白山町の武屋こと、武富太郎兵衛であった。正保、慶安時代と想像されるからいまから三百二、三十年前の人だろう。むかしから有明海中には筑後川下流に潮がひくと、いろいろの「津」といった浅瀬ができたが、慶長時代に新しくできた松枝沖の「津」の所属領有について、佐賀藩と柳川の立花藩が永く争った結果、やっと正保元年(1644)、佐賀領と決定したのである。 その後、白山武屋の武富太郎兵衛が藩庁にこの「津」の埋立を願い出た。藩庁の許可で埋め立てた50町歩のうち、正税として25町歩を藩庁に献上、13町歩を国老深掘氏の采地として献上した残り12町歩を私有地とし、妻の父下村利由の采地にいた農民をここに移住開墾させたという。 武富家の先祖は、永禄時代、筑後国瀬高の小柳瀬兵衛が明(中国)から国王一族の十三官と名づけた人である。この長子が佐賀の三溝に住んでいた武富茂助の妹を娶って武富庄左衛門と名乗ったが、この武富茂助は坂上田村麿の子孫ということであった。武富庄左衛門の二男久右衛門が白山町で呉服屋をして巨万の富を作り、その子四郎右衛門の時代は清国(中国)とも取引して儲けたが、四郎右衛門の長子市郎右衛門は家業よりも漢学の勉強に力を入れた。名を咸亮、字を伯通、廉斉と号し、3代藩主鍋島綱茂に知られて士班に列された。この武富廉斉(咸亮)から9代目の子孫が、明治大正の政治家として大蔵大臣などをした武富時敏であった。 武富家は三溝に住んだ本家を一般に「三溝武富」といい、白山町に住んだのを「白山武富」といった。また白山武富の道智の弟に当たる遺禎が現在の白山町東通りにあった勢屯町に住んだからこれを勢屯武富といったが、道禎の子に如有、常吉の2人があり、如有の子英春が太郎兵衛といって寛文2年(1662)私費を投じて大詫間の干拓に乗り出したという。 なお大詫間の文字も、370余年前の慶長時代は「大宅間」、280余年前の元禄時代は「大多久間」約180年前の享保時代は「大詫間」、約70年前の文化時代は「大宅摩」または「大詫摩」と書いたことがあった。また岩松要輔氏の調査によると、大詫間の干拓に最初手をつけた武富太郎兵衛が、文化6年(1809)武富忠右衛門が執筆した『武富家伝記』によると武富太郎兵衛となっているが、その後天保5年(1834)出版、南部長恒執筆の『疏導要書』では武富太郎右衛門としてあり、結局武富太郎兵衛の名を取ってある。本編もまたこれによった。
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古賀精里
(1750-1817) 「寛政の三博士」、また「寛政の三助」といわれた学者がいた。柴野栗山(彦輔)、尾藤二洲(良助)と佐賀出身の古賀精里(弥助)の3人がこれであった。古賀精里は一般に佐賀城下の精町(現在の与賀町精小路)生まれとされているが、古賀精里が寛政12年(1800)、幕府に提出した家系図によると、「寛延三年(1750)庚午十月廿日、肥前国西古賀村に而出生」と書いてある。(西村謙三編著『古賀穀堂先生小伝』) この西古賀の生家は、昭和初年まで坂本敬三さんが住んでいたところという。精里が分家の際、西古賀村の4字をとって上下2字の西村を本家、なか両字の古賀を分家の姓とした。本家の西村氏は後に現在龍谷学園の東側にある十間端に移り、古賀精里は精町で育ったと伝えられる。古賀精里が亡くなったのは文化14年(1817)で、享年68歳であった。 古賀家の先祖は漢の霊帝といわれた。その子孫が日本の甲斐国(山梨県)に住んで帰化し、その数代後の左兵衛時連(※1)が筑後国三瀦郡の古賀村に住んだから古賀の姓を名乗ったという説もある。左兵衛時連(※2)の二男の右兵衛尉家時(※3)が隆造寺隆信(※4)に仕え、隆信といっしょに島原の戦争で戦死した。家時の子の時貞から代々鍋島家に仕え、鍋島舎人隊長の下で下級武士の手明鑓となった。時貞から何代か後の古賀安清から忠清(※5)、和作を経て忠清が生んだ(※6)五男二女の長男が、すなわち古賀精里である。 (中略) 古賀家は代々左衛門尉を名乗り、城原党の門閥として遇された。 古賀精里は最初号を訥斉(※7)、後に精里と改めた。名は弥助、姓は劉、氏が古賀、幼名が文太郎、諱が樸または朴、字を淳風といった。父は忠能、母は牟田口氏。父の忠能は佐賀藩の戸籍吏や蔵方録事や歩卒隊長などをした。 明和3年(1766)、17歳のとき、精里は8代藩主鍋島治茂の実兄鍋島主膳の執事となったが、病気のため辞職し、城内三の丸で保養を続けた。ついで治茂が藩主となったとき、藩中に学識の高いものが少なかったことから、精里を起用して京都や大阪に遊学させることにした。これは安永3年(1774)、精里が25歳のときである。 鍋島8代藩主の治茂は天明元年(1781)、佐賀に弘道館を建てた名君であった。遊学した精里は、京都で福井小車、西依成斉、大阪で尾藤二洲、頼春水と交わった。 5年後の安永8年(1779)、京阪から帰国した精里は佐賀で程子、朱子の経学を講義したが、藩主治茂もこれを聴講してその名講義に感服したという。当時は佐賀の藩中でも王陽明や国学、古学など、いろいろの系統の学問があったが、精里がこれらを排撃して程朱の学を藩学に統一したのである。 安永9年(1780)、精里は手明鑓頭役から諸役(※8)相談役格。天明元年(1781)、弘道館の創設でこの主任教授となったが、藩政の改革刷新にも蛮勇を振った。寛政3年(1791)、藩主の江戸行に随行したが、翌4年、幕府が昌平黌で経学を講義させた。その後、寛政7年、幕府の召命があり、これを3回も断ったが、再三の召命で寛政8年(1796)、江戸に上って幕府の儒者衆から12年学問所教授となり、前記のごとく、後に「寛政の三博士」といわれる学者になったのである。 精里の妻、光増氏伊予も良妻賢母の誉れが高かったが、文化元年(1804)、精里よりも12年早く(※9)亡くなった。周囲のものが精里に再婚をいくらすすめても、精里がこれに応ぜず余生を独身で送った美談も残っている。 夫婦の間に三男六女が生まれたが、長男燾(おほふ、号は穀堂)、二男煒(あきら、洪家を継いで洪晋城といった)、三男熀(※10)(号は侗庵)の3人はそれぞれ有名な学者や政治家となり、後に3人は「劉家の三鳳」といわれ、また精里の孫に当たる侗庵の長男謹一郎も茶渓と号して、東京大学の前身に当たる蕃学取調所長をしたり、また越後長岡藩の名家老といわれた河井継之助がこれに師事したりしたこともあった。 明治以後になっても精里の子孫は日本銀行の幹部となった洪純一、洪泰夫海軍中将、教育家の西村謙三のほか、縁故者に枝吉順如、福田慶四郎などが輩出したのである。 出典:川副町誌P.979〜P.981 上記引用文中に誤りがありましたので、下記の通り修正内容を記載します。 (誤) → (正) ※1 左兵衛時連→左兵衛時宣 ※2 左兵衛時連→左衛門尉時員 ※3 右兵衛→右衛門 ※4 隆造寺→龍造寺 ※5 忠清→忠豊 ※6 忠清が生んだ→忠能の ※7 訥斉→訥斎 ※8 諸役→請役 ※9 12年早く→13年早く ※10 熀→煜
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弥富元右衛門
早津江の「金善」といわれた屋号の弥富家は、古く鍋島藩政時代から200年も続いた佐賀屈指の富豪であった。『鍋島直正公伝』の第五編の「海軍費利殖と長崎貿易商の競起」の項目に次のことが書いてある。 「野中(元右衛門、烏犀圓本舗)と共に仏国に渡航したる深川長右衛門は、外貌遲鈍なるがごときも、内に詳審機敏なる商才を具し、因て用達商弥富元右衛門に後援せられて長崎に雑貨貿易を始めたり。弥富は諸富津に拠りて久留米と米の糶糴(米の賣買)を競ひ、他の貨物を吐納(出し入れ)して、大河口の利権を占めたる一方の雄鎮たり」と書いてある。早津江の弥富家はこうして佐賀藩だけに限らず、福岡、久留米、柳川など諸藩の御用達も勤めたらしく、また佐賀、神埼の両郡のほか、杵島郡の福富村一帯にも多くの小作地を持っていた。 明治維新後、弥富家は引続き金融業、大地主や清酒「栄城」の酒造業と、島原半島に及ぶ干拓など、手広く活躍した。大正4年には弥富寛一氏が資本金50万円の肥前銀行も創立したが、これは大正13年、佐賀百六銀行に吸収合併された。藩政時代には鍋島閑叟公がお忍びで休息に参られた場合の茶室もこしらえたほどの豪勢な弥富家であったが、百数十年の間に2度の困難な場合にぶつかったのである。最初は天保13年(1842)、佐賀藩が「一統平断」といった、俗に「借銀ばったり、加地子ばったり」である。 これは佐賀藩内の農家、特に小作農が度重なる風水害や連年の不作、凶作と重税に四苦八苦しているのをみた閑叟公が、田代領や唐津領などに起こった百姓一揆なども顧慮して、向こう10ヵ年間、藩府からの貸付金一切を無期限の出しっ切り、また民間の借銀と小作米も支払いと供出を猶予する布令を出したのである。この当時多くの地主たちは鍋島閑叟公を暴君と陰口をたたいたという。加地子というのは小作米のことだが、これで小作農たちが大助かりをした反面、弥富家のような大地主は大打撃を受け、藩府当局に大地主たちが連名でこの緩和方を嘆願した。この記録は小野武夫博士の「旧佐賀藩の均田制度」に詳しく書いてあるが、この「借銀ばったり、加地子ばったり」が完全に解決したのは明治20年であった。 大地主としては、戦後の農地改革よりも厳しかったが、明治以後も大地主であった弥富家が致命傷を受けたのは終戦の昭和20年12月進駐軍が指令した農地改革であった。「売家と唐様に書く三代目」と川柳にあるが弥富家は三代よりもずっと永く続いた。弥富家に残った藩政時代からの記録3千数百点が、いまは貴重な歴史的資料として佐賀県立図書館に保管されている。
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佐野常民
(1822-1902) 佐野常民は、川副町が生んだ最も偉大な人物といってもよかろう。日本海軍の勃興期に力をつくし、また博覧会によって殖産興業の発展に寄与したり、貧窮の画家を助けては美術の振興を奨励したり、更に最大の功績としては明治10年の西南の役に博愛社をつくって敵味方の負傷者を救済して日本赤十字社の基礎を築いた。これらの功績によって佐野常民は正二位伯爵、旭日菊花大綬章の栄冠を得たのである。佐野が生まれた早津江には、大正15年、日本赤十字社が創立50周年に際して佐野の記念碑を建て、昭和3年4月19日には胸像の除幕式をした。(現在日本赤十字社佐賀県支部前の胸像は戦後のものである) 佐野常民は、文政5年(1822)12月28日、佐賀藩士下村三郎左衛門光贇の五男に生まれた。佐野家の先祖は下野国(栃木県)押領使として佐野に住んだ藤原秀郷(田原藤太)という。その子孫が戦国時代、豊臣氏についたため、徳川幕府から大名の地位を蹴落とされたともいう。実父の下村光贇は藩主直正の内命で佐賀藩の赤字財政を建て直すため、大阪に行って金を借りた富豪たちに借金の返済延期を交渉したり、また公儀のほかは一切の諸礼諸式の廃止を断行した政治的手腕家であった。常民は幼名を鱗三郎といったが、11歳のとき、藩主の侍医佐野孺仙こと常徴の養子となり、9代藩主の鍋島斉直から栄壽という名をいただいた。後で栄壽左衛門と改めたわけである。 養父の佐野常徴は藩主に隨行してよく江戸に行ったが、常民はその留守中は早津江の生家に預けられ、ここから藩校の弘道館の外生となって通学し、内生となった後は寄宿寮で起居した。一般に内生の生徒は15、6歳以上であったが、常民は14歳で入寮したのである。学科は論語、孟子、経史などの漢文が主であったが、常民はいつも張玄一と首席を争う勉強をしたという。天保8年(1837)、16歳のとき、江戸にいた養父のところに行って佐賀出身の名儒といわれた古賀侗庵の塾に入門したが、天保10年(1839)、9代藩主斉直が江戸で亡くなったため、常民も養父といっしょに帰郷し、弘道館で学ぶほか、松尾塾で外科医術なども修業した。天保13年(1842)の冬、佐賀藩士山領丹左衛門の娘で、常民よりも早く佐野家の養女となっていた駒子と結婚したが、どちらも同年の21歳であった。 弘化3年(1846)、侍医の牧春堂に隨行して京都に遊学、広瀬元恭について蘭学と化学を勉強し、嘉永元年(1848)には大阪で緒方洪庵の適塾(適々斉塾)に入門した。塾生32人のうちには長州の村田蔵六(後の大村益次郎)と広沢真臣、薩摩の松木方庵などがいたが、あとで明治維新後、佐野常民が兵部少丞となったのも兵部省の実権を握っていた大村益次郎の推挙があったからだろう。続いて嘉永2年、藩主の命で江戸に転学し、戸塚静海や神埼出身の伊東玄朴の象先堂塾に入り、伊東の高弟としてその代講までするようになったのである。 この象先堂塾で常民が学んだのは物理、舎密(化学)、築城術、冶金など、医学よりも科学、軍事学に力を入れたが嘉永4年、藩主の命で帰郷の際、京都に立ち寄って広瀬元恭の塾で知り合った化学技術者の中村奇輔、理化学に詳しい石黒寛次、西洋器械学に長じた久留米出身の田中近江と儀右ヱ門親子の4人を同伴してきた。この4人は佐賀藩の反射炉や大砲の製作に画期的の功績をあげたが、嘉永6年、常民は藩主から医者をやめて精煉方主任になることを命じられた。名前を栄壽左衛門と改め、また医者の坊主頭もやめて髪をのばしたのもこのときからであった。 こうして安政2年(1855)には佐賀藩の本島藤太夫と長崎に行って造艦、航海、砲術の学科と実習に励み、安政4年には飛雲丸を買い入れてその船将となった。薩摩に行って、自製の電信機を島津斉彬に献上したのもこのときである。安政5年には三重津で晨風丸が進水したが、ここでも常民は航海術を練習したり、またオランダから電流丸を買い入れたりした。万延元年(1860)には幕府から觀光丸を佐賀藩が預かって、常民がこの船将となったが、文久元年(1861)には三重津に汽罐製造所を建てた。これが佐賀藩海軍所の端緒だが、ここで常民が代表となって長さ60尺、幅11尺、10馬力の木造外輪船の建造に着手し、慶応元年(1865)竣工した。これを凌風丸と名づけたが、これが日本人だけの手で造った最初の汽船といわれる。 また慶応3年、パリで万国大博覧会が開催されたが、佐賀からは藩命によって佐野常民を代表に、野中古水、小出千之助、深川長右工門、藤山文一の5人が使節として出席した。あとで佐野が日本の博覧会に力を入れたのもこれが因縁となったわけである。一行は有田の陶器や烏犀円などの薬材、海産物などを持参し、博覧会で売ったりした。佐野はこの機会にオランダに行って軍艦日清丸を注文し、更にイギリスにも渡って慶応4年春、日本に帰ってきたのである。 明治維新後、2年7月8日、4度目の官制改革があって軍務官が兵部省となった。兵部卿が有栖川宮熾仁親王、兵部大輔が大村益次郎(大村の暗殺後は前原一誠)、兵部少輔が山県有朋、兵部大丞が川村純義と山田顕義が就任したがこの下に権大丞、小丞、権少丞などがあり、佐野は兵部少丞となって日本海軍の新設に建白することが多かった。ところが当時、薩長藩閥の勢力争いが激しく、佐野が横浜の外商から買い入れた帆船の諸器械のことで無実の噂を伝えるものがあり、佐野の旅行中に兵部少丞を被免したのである。あとで外商との契約破談にこの外商が返金した金額が契約通りの金額であったから佐野も青天白日の身となったのである。翌明治4年、佐野は改めて工部省に入り、権少丞から少丞、更に大丞兼灯台頭となった。観音崎、犬吠崎、汐の岬、下田の神子元島の灯台などはみな佐野が灯台頭時代に立案したものであった。続いて明治6年に、明治10年に日本で初めて開催する第1回内国勧業博覧会の副総裁を仰せ付けられたが、総裁は同じ佐賀出身の大隈重信参議であった。この年、オーストリア・ハンガリーから万国博覧会の政府招待があり、佐野は墺国博覧会理事官に任命された。このため、佐野はオーストリア・ハンガリー及びイタリア派遣の弁理公使として明治6年から7年にかけ、出先の各国皇帝に信任状を奉呈したが、このときは日本の工芸美術家など、一行合計70余人という大掛りなものであった。明治7年に起こった佐賀戦争当時、佐野は遠く海外にいたわけである。帰国後、明治8年7月、佐野は元老院議官に叙されたが、これは閑職だろう。佐野がいちばん活躍したのは、明治10年西南の役が起こったとき、敵味方の傷病者を治療救済するため、大給恒と博愛社を創立して数千人の傷病兵の手当てをしたのである。これまで日本の戦争では敵の傷病兵を看護するなどは絶無であった。この博愛社が日本赤十字社の基礎となったのである。これとまた内乱中にも拘らず、佐野は予定の第一回内国博覧会も上野で10年8月21日、滞りなく開会して明治天皇の御臨席を仰いだのである。 このほか、佐野は美術工芸の振興をはかって、上野の不忍池畔の天竜山生池院を会場に龍池会をつくった。これは明治7年、佐野がオーストリア・ハンガリーの万国博覧会に行った際、イタリアでラファエルやミケランジェロや、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの名画や彫刻をみて深く心を打たれて以来の関心事であった。当時は狩野法印が上野博物館の老雇員をしたり、弟子の橋本雅邦が1本1銭で扇面に山水画を描いたり、また狩野芳涯が郷里に帰って養蚕と妻が荒物屋をやって飢えをしのぐなど、画家たちが貧窮のどん底に落ちた時代であった。龍池会はこうした美術工芸家たちの貧窮を知った佐野がこれを救済するためにつくったものだが、後に明治20年、日本美術協会に発展した。これも佐野が最後まで会長をつとめたが、会員数も創立当初の19人から、佐野が亡くなった明治35年には1440人に増加したという。 この間、佐野は明治11年に勲二等に叙せられ、12年には中央衛生会長となった。また13年2月、従来の参議と各省長官の卿の兼任が廃止となって、参議兼大蔵卿の大隈重信が大蔵卿の兼務と解任になると、佐野が大蔵卿に就任して14年10月まで続けた。この明治14年10月は参議の大隈重信を藩閥政府が追放した大政変の起こった年月である。佐野もこのとばっちりを食って大蔵卿を追放されて、元老院副議長にまわされ、翌15年には元老院議長、勲一等となった 明治18年7月は亜細亜大博覧会組織取調委員長を仰付けられ、12月には宮中顧問官、20年5月には子爵に列せられた(28年に伯爵)。またこの年、博愛社は日本赤十字社と改称してその社長に佐野は当選し、続いてこの日本赤十字社もはじめて万国赤十字社に加盟したのである。この年、佐野は枢密顧問官に任命され、25年は第一次松方正義内閣で河野敏鎌の後任として農商務大臣をつとめたが、選挙大干渉の責任を負って松方内閣が総辞職したため、佐野の農商務大臣は1ヵ月足らずで終わり、再び枢密院顧問官に戻った。 明治27、8年の日清戦争では、日本赤十字社が1400人の救護員と養成済みの看護婦100余人、速成看護婦617人を動員して東京や広島の陸軍予備病院で傷病兵の看護に当たらせ、また明治33年の北清事変には、30年から建造に着手した弘済丸と博愛丸の病院船2隻を清国の太沽沖に停船させて各国を驚かせたのである。明治34年には佐野も既に80歳の高齢に達したが、この年、東京の日本赤十字社の本社中庭に佐野の銅像が建った。佐野が生涯に働いた功績は海軍の建設、美術文芸の振興、博覧会の開催による殖産興業の奨勵など数限りないが、わけでも特筆すべき最大の功績は日本赤十字社の創立と発展に全力を投球したことである。明治35年1月には駒子夫人が静養先の沼津で亡くなり、12月7日には常民も亡くなった。ともに同年の81歳である。この明治35年10月には日本赤十字社が博愛社として創立した25周年記念祭も行われたが、このときは全国会員数も80万人に達していた。最後に佐野が作った漢詩を紹介したい。 余時管海軍創立事 雪津佐野常民 ○壮一成團廿五人 平郊盡處再迎春 長流達海千年水 巨艦列檣三重津 大小帆量風力展 縦横陣冐雪威振 錬磨熟亦辞酸苦 同是丹心報国身 ○汽艦艤来十一秋 海軍創隊日勤修 先鞭奚啻我皇国 期向五洲争最優 この漢詩は、晩年の佐野が三重津の海軍所跡を訪れて往事茫々、懐旧の情に堪えなかったのを詠んだものである。佐野は雪津と号したが、6つ年下であった副島種臣とともに佐野も気品の高い詩を作った。 【事務局情報:漢詩文字について、正しくは、1行目の「一」は「士」、7行目の「錬」は「練」、「熟」は「孰」。また、漢詩現物の表題は『三重津海軍場偶成』となっています。】 ※写真は佐賀県赤十字血液センター前の佐野常民像
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八並蓼川
(1819-1883) 八並蓼川(通称は次郎助、諱は行)は川副町出身者ではないが、藩政末期の4年間、川副上、東、下三郷と与賀二郷を支配した代官であった。佐賀藩が旧制の大庄屋を廃止して、上佐嘉、与賀、神埼、三根、養父、白石(現在の北茂安町にある)、横辺田(大町町)、皿山(有田)に代官所を新設したのは8代藩主鍋島治茂の寛政10年(1798)であったが、この2年後の寛政12年、川副三郷に与賀二郷を含めて三重に代官所を設置した。川副与賀南郷の最初の代官は福井甚兵衛であり、最後が明治維新後就任した副島義高(謙助)であった。副島義高は佐賀戦争で梟首となった島義勇の実弟であり、次兄の重松基吉と実兄弟3人が佐賀戦争後斬首となったのである。八並蓼川が川副与賀郷の代官をしたのは文久3年(1863)11月から、慶応4年(1868年、9月8日から明治元年)正月までの足掛け6年、まる4年余でいちばん長かった代官だろう。酒と漢詩を作ることが道楽で、その生涯に1710首の漢詩を作ったが、このうち三重の代官時代に作ったのが72首あり、当時川副町一帯の風光と農漁民などの生活もこれで偲ぶことができる。漢詩や文章などからみて温厚篤実、心のやさしい代官であったと思う。八並家は嵯峨天皇の皇子源融が元祖で、1000年程前むかしの正暦年間、肥前に下向して上松浦の八並領主となったのが祖先という。後に龍造寺-鍋島家に仕えたが、蓼川は文政2年(1819)、佐賀の鬼丸に生まれた。16歳で松永塾に入り、23歳のとき江副長風と肥後に遊学し、近藤英助(淡泉)に入門した。同窓には徳富蘇峰の父徳富子柔などがいた。3年後、帰落して長崎香焼島駐屯を命ぜられ、翌年弘道館内生寮指南役から閑叟公御側役兼奥御小姓となった。弘化4年、29歳、藩主直正に隨従して江戸藩邸詰となり、傍ら佐藤一斉に師事して陽明学を学んだ。安政5年(1858)40歳で佐賀城内二の丸で藩主の御附頭兼御補導役、文久2年(1862)長崎香焼島屯営監軍、文久3年、京都佐賀藩邸御留守居役、禁裏守衛隊長を勤めた後、同年11月帰藩後直ちに川副代官を拝命した。慶応4年(1868)正月8日、関東征討北陸軍先鋒参謀を拝命、北陸道から江戸に入り、続いて藩主鍋島直大が総野鎮撫の命を受けると宇都宮を駐屯して宣撫工作を続け、明治2年9月帰藩して弘道館教諭を拝命、更に藩庁の権大属として西部三郡の郡務を管掌したが、明治4年藩主直正が亡くなると、一切の職を拒絶し、直正の川上の別荘であった十可山房(※1)に立て籠って晴耕雨読を続け、明治16年11月6日、65歳で亡くなった。墓は神埼郡三田川町箱川の妙雲寺にある。 昭和12年10月、長野県居住の末子井口益吉が、蓼川の遺稿を整理し、「蓼川遺稿」正続2巻の和綴本を出版された。ここには続篇に納められている川副官舎雑咏72首のうちから数編を紹介した。 甲子三月 携家室川副官舎 微力以何報 君恩如海深 携家行郭外 奉命到江潯 雨歇雲帰岫 風暄鳥繞林 但因城市遠 官舎亦諧心 「大意」甲子は文化元年(1804)、自分は微力で深い君恩に何をもって報いるか。家族をつれて城外、早津江川の畔りに住むようになったが、雨がやんで雲も晴れ、風も暖かくて鳥が林を飛びまわっている。城外の遠い官舎もまた自分の心にかなう。 雑吟 二首 昨日東阡偏祷雨 今朝西陌復祈晴 祈晴祈雨君休恠 関意郷中四寓氓 作官叨莫自軽身 吏卒由来窺笑顰 況復令禁須珍重 恐傷七十二村民 「大意」昨日は東の田に雨の降るのを祈り、今朝は西の田のため晴れるのを祈った。こんなことをしても君怪しむなかれ、自分の気持は4万の村民を思う。代官となっても猥りに軽々してはいけない。役人はミャースをつく(※2)のが好きであり、こんど贈物が禁止となったから、このため自分は72村の村民が傷つくことを心配している。 秋日雑詠 〇時危諸公皆苦思 年豊県令独寛情 村々積稲高於屋 日暮風傅打餅聲 ○養病旬餘無厭食 思民夜半不安眠 紙牕曉發霜如雪 翁嫗相携耕麥田 ○紅樹青林落照斜 炊烟欝々幾農家 年豊官舎閒無事 独倚攔干数暮鴉 ○芥禾成稲々成粳 磨簸丁寧輸禀倉 倉吏休瞋俵粧悪 憐渠苦殺幾心膓 「大意」時代の危機で諸役人は苦しんでいるが、自分は豊年でゆったりした気持である。村々では稲を軒先より高く積み上げ、夕方には餅をつく音を風が伝えてくる。 10日余り病気をしても食べ物はうまかったが、郷民のことを思うと夜もよく眠れなかった。障子をあけると霜が真っ白で、爺さん婆さんたちが揃って麦田に行くのが見えた。木々に夕日がさし、夕餉を炊く煙か何軒かの農家から立っている。代官所は面倒なこともなく、自分はひとり手摺によりかかって夕暮れのカラスが何羽かを数えた。苗から稲、稲から米となってこれを倉庫に運ぶが、蔵役人は米俵の作りが悪いといってとがめずに彼等の心労をいたわってやるがよい。 ※1十可亭のこと。十可山房は詩文集「十可山房集」のことか。 ※2ミャースをつく…おべっかを使う、お世辞を言うなどの方言。
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辻演年
(1819-1896) 川副町犬井道の海童神社境内に、園田二郎兵衛の記命碑と並んで、辻演年の記念碑が建っている。辻演年は文政2年(1819)東与賀村で佐賀藩士の家に生まれ通称を忠六といったが、川副町地先の干拓工事にも不朽の功績を残した恩人であった。郷土の歴史的人物として忘るべからざる存在だろう。辻演年は佐賀藩の搦方役人として弘化3年(1846)、犬井道地先の別段搦の干拓工事に采配を振って以来、明治21年同じく犬井道地先の無税地搦の干拓造成まで、この43年間に与賀村地先の大搦、大詫間の元治搦の修築、犬井道呉服の石井樋の改築などをした。このほか長崎の沖ノ島と伊王島の警備と工事監督、稲佐と深堀の砲台建設もやり、また杵島郡白石の明治搦の築堤監督に全力を傾けてこれを見事に完成したことなどがあった。有明海北岸で数百町歩の干拓によって美田を作った功績は成富兵庫茂安に次ぐ佐賀県開拓の功労者といっても過言ではなかろう。明治29年、数えの78歳で没したが、嗣子辻武一郎さんの男の子は長男が陸軍中将となった故辻演武氏、三菱社員として戦前から海外で活躍した故辻忠敏氏、故辻義人氏や、広江の銘酒「窓の月」醸造元の福岡家の婿養子となった福岡日出麿参議院議員である。辻演年は亡くなる7年前の明治22年6月22日付で、上質の名尾紙に自分がたずさわってきた干拓と開墾の経歴を書き残したのがあるが、漢文の非常な達筆と名文といってもよかろう。この一部を平易に意訳すると、佐賀藩が干拓に力を入れたことは代々久しかったが、特に力を入れられたのが10代藩主の鍋島閑叟(直正)であった。閑叟は自ら開墾地と干拓工事の現場を巡視されたこともしばしばあった。このうち、犬井道と田中(明治22年の町村制実施でこの二集落は合併し、大字犬井道となった)の2村は戸数の多いわりに田地が少なく、過半数のものが漁師をしていた。そこで弘化2年(1845)、藩庁に別段搦局が設置され、局長格の田代某ほか7人がこの干拓工事の監督をすることになった。(これが犬井道の弘化搦の先にある別段搦である)この別段搦は、最初材木と土塊だけを使ったため、大潮にはすぐ崩壊して失敗に終わることが多かったから、こんどは周防国(山口県)から数隻の石船と石工を雇ってきた。100貫(1貫は3.75㎏の重さ)の石材を亀の浦から運んできて、弘化3年(1846)春から工事をはじめ、自分がこれを監督、同年10月いちおう完成したが、弘化4年秋の台風で再び決壊した。そこでまた修復をして4年後の嘉永4年(1851)やっと竣工したので、これを嘉永搦と名づけたのである。 次に自分はこれより先、嘉永2年の夏、船津川から白鳥井樋までの与賀村地先を干拓し、嘉永3年の冬に竣工したが、この当時、外国船が日本に渡航することが月々さかんになり、佐賀藩庁でも長崎防衛のため、新たに増築局を設置し、自分がこの任に当たることになった。増築局は長崎の沖ノ島に本局を置き、伊王島に分局を設けたが、嘉永4年に自分もこれに入った。砲術研究家の本島藤太夫が指揮をとったが、自分は田代某ほか3人の役人と石工長以下を監督し、沖ノ島から崎雲-四郎島間の道路を作ったり、また四郎島の山頂に砲台を築くなど、難行苦業を重ねたあげく、やっと嘉永6年の冬にこれを完成したのである。 この前、嘉永搦は自分が長崎に赴任中、代官の福岡某が資金を支出し、武藤某が工事の監督を続けたが、安政元年(1854)10月、自分が長崎から帰ってこれに代わり、安政2年正月から9月までの間に潮路を堰き止めてこれを新地局に引き渡した。その後、自分は大詫間と与賀村の大搦に手をつけたが、安政5年の春には犬井道の無税地搦が竣工し、同年12月には与賀搦が竣工したので地主を決めた後、自分はもっぱら犬井道地先の干拓に力を集中するようにしたのである。 万延元年(1860)の春は、大詫間の五番搦を干拓、文久2年(1862)の春は、大詫間の大搦を干拓したが、犬井道といっしょに文久3年の春は、2つともいちおう竣工した。このため同年4月12日、干拓現場を引き揚げて再び長崎に赴任し、稲佐と深堀に各2ヵ所、その他2ヵ所に砲台を築いて7月佐賀に帰った。また元治元年(1864)6月、自分はまた長崎に赴任して慶応元年(1865)2月まで、各地に据え付けた砲台を壊したり、また築いたり、慶応3年もこのようにして長崎と佐賀を行ったり来たりしたが、慶応3年秋の台風で犬井道地先の干拓地が3ヵ所も決壊したため、この修復に9月から翌明治元年(1868)の3月までを費やしたのである。またこの間、犬井道の呉服の石井樋の堅固なのを見て、その作図を他の場所にも利用したりした。 明治維新の戦争には、自分も出征することになっていたが、川副代官の池田某が、犬井道地先の3つの搦は辻を除く他のものには代え難いと藩庁に上申したため、自分もいちおう軍務を解かれたのである。その後、自分は代官所の出納長から明治2年4月録事、明治3年10月郡務史生となって干拓と堤防の事務をとったが、明治4年10月、廃藩置県後の伊万里県庁に出仕、5年4月にこれを辞職した。 5年9月、自分は鍋島直大元藩知事の命令で杵島郡白石の干拓を監督することになったが、そのときは堤防の上に掘立小屋を建てながら暮らした。ところが明治7年8月の台風で堤防が決壊し、小屋もまたつぶれて自分は命からがら這うようにして村里に避難したのである。自分といっしょにいた小使は可哀そうに溺死した。自分は帳簿などの重要書類も流失した責任上、直大に上書して罪のくだるのを待ったが、直大は何よりも命に別条がなかったことを喜ばれた上、15円の御見舞金までくだされたのである。 その後、明治7年佐賀戦争で除族となった人達のため、干拓地入植の論議があり、また授産搦の問題などもあったが、自分は犬井道地先の無税地搦の修復と、明治19年8月の台風による干拓地の決壊修復に一生懸命であった。思えば28歳のときから43年間、生涯を干拓一筋に自分は生きてきた。最初は太左搦の西側にわずかの干拓地しかなかったのが、今日では至るところに干拓地の美田がふえたのである。これもひとえに鍋島閑叟の賜物と思う。願わくば、自分の子々孫々が、堤防の補修などを毎日心掛けて怠らないよう、この文書を書き残したわけである。以上が辻演年の干拓経歴書である。まったく干拓一代男のサムライが辻演年であった。
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石井貞興
(1840-1874) 石井貞興は天保11年(1840)3月、佐賀郡広江村で、佐賀藩士櫛山弥左衛門の長男に生まれた。幼名が乙次、大作、長じて竹之助といった。本家石井忠克の家を継いだため石井姓を名乗り、櫛山家は次弟の叙臣が継ぐことになったのである。少年時代は枝吉神陽の塾に入ったが、後は駄賃小路にあった石井松堂の純粋社で経史を学んだ。武技の鍛練にも熱心であったが、特に槍術と馬術がうまかったという。明治維新の戊辰戦争にも出征して武威を奮った。明治2年3月末、藩政改革のため帰郷中の副島種臣といっしょに上京したが、8月には徳久恒敏と離京して鹿児島に行き、2人とも藩校の造士館に入って勉強した。2人は特にここで桐野利秋、村田新八と親しくしたが、これが佐賀戦争後2人とも桐野に匿まわれ、西南の役に参加した因縁となったわけである。鹿児島にいること約半年後、2人は前後して佐賀に帰ったり、また上京したりしたが、その後石井は佐賀藩庁の少参事となった。だがお役所仕事は石井に向かなかっただろう。「士族の土着」を主帳し、現在高木瀬町の長瀬に移って果樹を栽培しながらもっぱら晴耕雨読の野武士的生活を続けた。この果樹園は後に三男の石井力三郎退役海軍少佐も続けたが、現在は一族の櫛山孝氏が経営してある。「武士の商法」ならぬ「武士の農法」で収入の実入りがなかったためか、明治6年2月、再び廃藩置県後の県庁に入って権典事から大属となったが、9月の征韓論の決裂から佐賀も物情騒然となった。明治7年2月佐賀戦争が勃発した。石井は県庁に勤めた関係もあって、県庁に保管してあった民積金を借り入れたり、また旧藩知事家禄代金の残りから2万5千円を借り入れるなど軍資金の調達に当たったのである。佐賀戦争後、石井はいったん広江の生家に帰って母親に別れを告げ、2月24日、この広江から海路鹿児島に向かい、阿久根に上陸して前記のごとく、鹿児島の吉田村郡田の炭焼小屋に桐野利秋から徳久恒敏と2人匿まってもらった。明治10年2月、西南の役が起こると2人とも西郷軍に加わって北上、八代まできたとき、桐野に頼んで佐賀の家族との別れや、また佐賀の同志の決起を促すために海路佐賀に帰った。結局2人とも家族との別れだけでまたすぐ西郷軍に戻って各地を転戦したが、徳久は4月6日八代の萩原堤で戦死。石井は可愛岳突破中、深い谷底に落ちて重傷のところ9月6日捕縛され、10月26日長崎で斬罪となった。35歳。墓は高木瀬町長瀬の東光寺にある。 石井の妻サエは久米邦武博士の妹であったが、夫妻の間に雄太郎(夭死)、八万次郎、力三郎、タツ、ヨネケサ、キクの三男三女が生まれた。八万次郎は一高を経て東大理学部(地質学)を卒業したが、佐賀12代藩主に当たる鍋島直映と特に親しく、侯爵のお世話で元森有礼文相の屋敷跡、現在自民党本部のある永田町に永く住んだという。その一人娘は三日月町出身の水田東大工学部教授に嫁した。末娘のキクは大正13年の総選挙に当選した加藤十四郎代議士に嫁したが、その長男日吉は小城中学校から上海同文書院を卒業し、永く大陸で活躍した。昭和52年没。この妹野田テツさんは神埼町飯町郵便局長に嫁している。 なお石井の娘一人は広江の今村要吉に嫁し、長男の今村実が戦前、大阪商船の梅丸船長をしたり、二男が台湾製糖に勤めていたが戦後の消息は不明。
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香月経五郎
(1849-1874) 明治7年の佐賀戦争では、江藤新平や島義勇など優れた人材を佐賀は失ったが、特に惜しまれたのは明治初年に3年も4年も欧米に留学した新知識であり、また年も数えの27歳と26歳という、山中一郎と香月経五郎が斬罪となったことであった。このうち香月経五郎は嘉永2年(1849)当時の川副下郷早津江村1番地で、佐賀藩士香月三之允の長男に生まれた。 幼少の頃は愚鈍のため、周囲のものがフーケモンといって馬鹿者扱いをしたというが、藩校の弘道館に入った頃からメキメキと非凡の才能ぶりを発揮したとのこと。弘道館で文武両道を励むかたわら、副島種臣と江藤新平に私淑して勤皇討幕の精神をたたきこまれたが、数えの19歳で長崎の致遠館に留学し、ここで英語を学んだ頃は断然頭角を現わしたという。 明治2年、21歳のとき上京して、東大の前身となった大学南校に入ったが、翌3年、文部省(このときは大学といった)の命で第1回の海外留学生に選抜され、アメリカとイギリスに4年間近く留まって勉強した。この海外留学も江藤新平の推挙によったが、山中一郎と香月経五郎の2人が「藤門の双壁」ともいわれたのである。香月はアメリカではアルバニー大学(※1)で勉強した記録がある。またイギリスのオックスフォード大学では最後の佐賀藩主であった鍋島直大といっしょに勉強した。 香月は東京の大学南校では後に東大教授となった田尻稲次郎博士や、枢密顧問官となった目賀田種次郎男爵と同窓であった。またロンドンでは昭和初期まで政界の惑星といわれた枢密顧問官の伊東巳代治伯爵を指導した先輩でもあった(※2)。ロンドンから香月が帰国して横浜に上陸したのが明治6年12月29日であり、東京に入ったのが12月30日であった。この1ヵ月半後の7年2月16日未明に佐賀戦争が勃発したわけである。 7年1月13日、香月は江藤新平、山中一郎、土佐の林有造、思案橋事件を起こした会津の永岡久茂、薩摩の樺山資綱たちと三菱の汽船で横浜を出帆西下した。佐賀に帰った香月は1月下旬、いちおう佐賀県庁の中属として奉職したが、新任の岩村高俊権令が熊本鎮台兵をつれて佐賀に入城することには誰よりも強く反対、この応戦準備も進めたのである。 佐賀戦争では江藤新平の参謀格として戦ったが、江藤一行より1日遅れて7年2月24日、丸目の渡しから鹿児島に向けて脱出した。その後江藤一行に加わって四国に渡り、高知で片岡健吉や林有造とも会ったが、結局3月23日、高知県幡多郡種崎町で中島鼎蔵、横山万里、中島又吉、櫛山叙臣と捕縛となった。 佐賀に護送の上、裁判の結果、山中一郎と共に「除族の上斬罪」となったが、香月などの最後について残忍の大久保利通も4月13日の日記に次のように書いた。 「…今朝、江藤、島以下十二人断罪に付、罪文申聞かせを聞く。…朝倉、香月、山中等は賊中の男子と見えたり。刑場に引き出され候節も、分けて山中は男らしく刑に就きたる由、今日都合克相済み大安心。然れども数人の壮士斬る中に、香月の如き可憐ものも有之。皇国の為めとは申しながら、頗る慨するに堪えたり云々」 『西南記伝』では香月のことを「経五郎、人と為り、白皙巨頭、風采威あり」とか、「経五郎、天資俊敏、最も弁舌に長じ、頗る臨機の才に富む。其の人と交るや、毫も城壁を設けず。故に一旦、彼と接するものは、直に親善し、縦令、其言往々虚に亘るあるも、人、猶之を信ずる程なりしと云ふ」と書いてある。 香月には一弟一妹がおり、弟三郎は後に陸軍大佐となって名古屋の連隊長などしたというが詳しいその後の消息はわからない。香月が弟三郎に寄せた遺詩がある。 寄懐弟香月三郎在浪花 汝是男児異女児 聞吾就死又何悲 王師西八鶏林日 應識阿兄瞑同時 ※1『香月経五郎と三郎の美学』(田頭信博著、鳥影社、2023年)によれば、アメリカでの留学先は「ラトガーズ大学」である。 ※2『香月経五郎と三郎の美学』(田頭信博著、鳥影社、2023年、p.32~33)によれば、この記述は「香月経五郎伝」(『西南記伝』下巻一、黒竜会編・刊、明治42~44年)にあるが、「明らかな誤りである」という。「経五郎が英国に滞在していた明治五年八月から六年秋にかけての時期、伊東巳代治は満十六歳で神戸にいた。「兵庫アンド大坂ヘラルド」という英国人経営の英字新聞社で働いていた。伊東は英語の達人であったが、外国に留学はしていない」としている。香月と伊東の交流については同著を参照のこと。
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櫛山 叙臣
(1843-1910) 櫛山叙臣は、佐賀藩士櫛山弥左衛門の二男として、天保14年(1843)5月2日、現在川副町の広江で生まれた。長男の石井家を継いだ貞興より3歳若く、通称を弥助といって櫛山家を継ぐことになった。幼少年時代は藩校の弘道館で学んだが、修業後長崎の香焼島に駐屯して佐賀藩の海防警備に当たった。明治維新の戊辰戦争には26歳で出征し、東北の各地で転戦した。維新後は佐賀藩の軍務係や国学寮監などを歴任し、明治4年には上京してフランス式教練も修業した。だがこの年の廃藩置県で士族たちも定職を失い、おまけに明治6年秋の征韓論の決裂から、征韓の一番乗りをしようと気勢をあげていた佐賀の士族たちが特に失望と憤慨をしたわけであった。佐賀の征韓党が正式に名乗りをあげたのは、明治6年12月23日、中町にあった煙草屋に25人の同志が集まってからである。協議の結果、中島鼎蔵、山田平蔵、生田源八、櫛山叙臣の4人を上京させ、征韓論の決裂から参議をやめた江藤新平と副島種臣に面接し、佐賀の士族たちの士気を鼓舞、指導するためその速やかな帰郷を懇請させることにしたのである。4人は12月24日出発、副島、江藤に会って翌明治7年1月16日、元町の小松屋で上京の報告会を開いたが、そのときは70数人が集まった。この1ヵ月後の2月16日未明に佐賀戦争は勃発したわけである。佐賀戦争では小隊長格となって奮戦したが、敗戦後は鹿児島に走り、日向の飫肥から小倉処平のはからいで江藤新平の一行と共に四国の宇和島に渡った。宇和島で一行9人は3人3組にわかれ山の中を高知に向かったが、山中一郎、中島鼎蔵といっしょになった櫛山叙臣の一行は途中、捕吏につかまろうとしたところを中島が捕吏を斬って逃げたりした。それでも結局3月23日、櫛山は中島と土佐郡種崎、山中は24日幡多郡佐賀駅(中村)で捕縛となったのである。乱後、佐賀裁判所では4月13日付の判決があった。 逆徒に與みし、小隊を指揮し、官軍に抗敵する者、 従の情尤も軽さに擬し 除族の上懲役三年 櫛山叙臣 この懲役3年も母の病気が理由で2年後に特赦となったが、明治10年西南の役が起こると、広江の家に帰ってきた実兄の石井貞興にまたついて西郷軍に走ろうとし、母に止められたことは石井貞興の項で書いた。明治9年から櫛山は、後に西川副村にあった盈進小学校の教師となり、その後南川副の犬井道小学校(後に知進小学校と改名)に移った。その後、佐賀中学校で漢文を教えること2年。更に村の戸長や八ヵ村組合立高等小学校長など、教育に従事すること前後十数年明治43年5月2日没した。享年69歳(※)。櫛山叙臣には清太郎(夭死)と次郎の二男があったが、二男が家を継がずに上京したため、高木瀬町長瀬の家は弟の袈裟吉郎が継いだ。石井貞興以来、果樹園のある家はこの袈裟吉郎の孫の櫛山孝氏が経営している。 ※満年齢では享年67歳(本文中は数え年)
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真島次郎
(1885−1925) 昭和43年11月17日正午、川副町鰡江の東泉寺で、元上海同文書院教授故「真島次郎先生顕彰碑」の除幕式がおごそかに行われた。 当日は小春日和の天高く晴れ渡った日であったが、遠く東京などからも昔の教え子たちが集まって、真島次郎教授のありし日を偲んだのである。 真島次郎は明治18年3月3日、川副町大字小々森字久町で生まれた。父は真島覚右衛門、母はトラ。葉隠武士の血をひく士族であった。兄の真島茂輔も早くから教職にたずさわって小学校長や視学をした教育界の偉丈夫であった。次郎は明治31年佐賀中学校に入って35年に卒業したが、この同窓には海軍大臣となった吉田善吾大将、京大教授高田保馬博士、県知事や代議士となった中野邦一、歌人中島哀浪、医者で粋人だった後藤道雄博士、毎日新聞の副主筆となった樽崎觀一など多士済々。また陸士陸大を出たが、大正3年の日独戦争で戦死した犬井道出身の横尾平少佐も同窓であった。 真島次郎は佐中を出てからすぐ上海東亜同文書院の2期生として入学し、まだ日露戦争中の38年3月卒業と同時に、院長からの求めに応じて同校の助教授となった。だが頭脳はずばぬけても体が弱く、病気のためいったん退職して療養後、明治43年教授兼幹事として復職、書院経営の最も困難な時代、根津一院長を助けたが、病気を克服することができず、41歳の若さで大正14年12月28日、上海で客死した。 真島次郎は正統な北京語教育の天才的学者といわれ、院の卒業直前、犬養木堂が中国漫遊をした際も、根津院長の推薦で真島が北支、中南支を案内して通訳をしたという。真島が20年近く東亜同文書院教授としてのライフ・ワークは、正統正確な中国語を教えることにあった。真島が執筆編集して、書院の教科書に使った「華語萃編」は中国語教育の宝典として日本一の折紙をつけられた。その厳格な教授ぶりは、書院の学生たちの間に「英語にも四声ありと真島言い」との川柳があったことでも想像がつく。 人間みな40数年も経つと昔のことなど、一切合切忘却の彼方に去ってしまうものだが、学恩の高く深かったことを思い起こした東亜同文書院の卒業生たちが、真島次郎教授を追慕して顕彰碑を建設したわけである。町民の誇りと同時にその遺徳を偲ぶべきだろう。
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福岡日出麿
(明治42年11月21日生) 昭和3年県立佐賀中学校を卒業し、同5年2月上海同文書院を中退し、西川副広江で清酒「窓の月」の酒造業に従事。昭和9年には満州のハルビン、同13年には蘇州で酒造業を経営した。戦後も酒造業の傍ら、佐賀県産米改良協会や交通安全その他公私の役職に携わる一方、昭和30年4月から県会議員5期を務め、同49年7月、川副町出身者として最初の国会議員−参議院議員となった。
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池田直
(明治34年11月19日生) 大正8年県立佐賀中学校卒、旧制佐高を経て昭和4年東大英法科卒、同5年高等文官試験合格、会計検査院に入って課長、局長、事務総局次長、事務総長となったが、昭和34年4月、鍋島直紹知事の後を継いで佐賀県知事5期を務めた。この間大正9年に1学期間西川副小学校教師や、また戦時は南方司政官をしたこともあった。囲碁5段。
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福田よし
福田よしは、明治29年1月1日(1896)早津江村の素封家・弥富伴吉、イソの三女として生まれる。恵まれた少女期を過ごし、県立佐賀高女を卒業。19歳のとき神埼郡田手の大地主・藤山家の次男に嫁す。不幸な結婚生活は7年続き夫の病死でピリオドを打つ。4年後(よし 29歳)、八女市の病院長・福田正三と再婚。生涯でもっとも幸せな生活はしかし、正三の急死で12年間に過ぎなかった。 3人の子どもを抱えて佐賀に居を移した福田よしは、それから超人的な活躍をはじめる。敗戦後間もなく、女学生を教育する「わか葉寮」を設立。昭和25年には後の母子連盟である「みゆき会」を創立。お堀の楠伐採騒ぎでは、身を挺し私財も投げ出して楠を守る。翌年、佐高女同期の友人野田ミツと共に佐賀県議会初の婦人議員になると、時の政府を動かして母子福祉法の交付に力を尽くす。また、母子福祉資金の貸付け、母子寮の設立、母子相談所の設置など、戦争で父を失った母子家庭の福祉のために働く。 昭和33年3月15日、波乱の多い60歳の生涯を閉じる。今、西堀端の楠の大樹に抱かれるようにして「佐賀のお母さんと慕われた情熱の人」福田よしの顕彰碑が建っている。 ※写真は佐賀城公園西堀端の「楠の木おばさん」の碑
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真島豹吉
小学校の校歌その他、子どもの教育に必要な歌を作曲された方。 夏休み数え歌(大詫間小学校) 1、一つとやーああ 1月余りのお休みに お休みに 守るべきこと歌いましょう 歌いましょう 2、ふるい果物 水氷 飲み過ぎ食い過ぎ 身のかたき 3、水泳ぎには 連れだって 決まったところで 15分 4、読み書き算術 いろいろの 勤めは毎日 致しましょう 5、家の手伝い この時よ 言いつけ守って稼ぎましょう 6、胸、腹包んで 冷やすまい 寝冷えは 病のもとと聞く 7、何事するにも 決まりよく 早起き早寝は その初め 8、焼けた顔して 真っ黒な 達者な体に 鍛えましょう 9、このお休みの すむ頃は だるけた気持ちを 無くしましょう 10、共に元気で にこにこと 再び会う日を 待ちましょう 【真島豹吉先生の作品例】 昭和9年7月文部省認可「皇太子殿下御誕生奉祝歌・東京音楽学校」高田精一詩・真島豹吉曲 歌いだし「我らの日の皇子(みこ)我らの日の皇子(みこ)生まれ給えり げにも尊し 仰げ国民 祝え国民 仰げ国民 祝え国民」 佐野先生を讃える歌(作詞、作曲) 西川副小学校校歌(作曲) 三根西小学校校歌(作曲) 六角小学校校歌 (作曲) 伊万里商業高校校歌(作曲) 等 【真島豹吉関連石碑】(場所:久町、真島百代さん宅)