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[大和町][ 神社]は25件登録されています。
大和町 神社
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惣座
国司が肥前国内の主な神社へ巡拝の繁を避けて、諸神を集め祀った所といわれる。肥前国において古来朝廷尊崇の社とされたものに、河上神社を始めとして加部島の田島神社、松浦郡の志志伎神社、三養基郡の荒穂神社、天山神社、金立神社、島原の温泉神社、平安時代後期に名を知られた武雄神社、鏡神社、千栗八幡神社等が考えられる。 全国70か国に国府が置かれ、そこに置かれた総(惣)社の名前がはっきりしているのは46社で、淡路国の11所神社、出雲・出羽・下総・相模の6神社は6−11神を集め祀った神社であろう。 いちばん多い神社名は「総社」又は「惣社」で「総社神社」というのもある。さて、大和町の惣社の神社名であるが、応永7年(1400)の河上神社祭礼御幸目録に「惣社」の名があり、又河上社遷宮等儀式案に印鑰社と並んで「僧座社」の神社名がある。地区名「惣座」は惣社から来たのか、僧座社の僧が惣に変わったのか、いずれにしても惣社があったことは間違いない。現有する惣座地区の氏神は「地主神社」の石額が掲げられ、現在は大国主命が祭神であるという。 ※写真は地主神社
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印鑰社
尼寺にある印鑰社はもともと奈良~平安時代(8世紀前半-10世紀前半頃)には肥前国府の印と鑰を保管した所である。語音はインヤクと読むが多くは他国でもインニャクと呼ばれ、この印鑰は国印と国府倉庫のかぎを意味しており、駅鈴などと共に国司が国務を執行するに当たって最も重要なものとされていたのである。平安時代の後半頃、各地で、この印と鑰が神格化し、御神体となっていった。後世になってからこの御神体として他の神を祭るようになり、現在印鑰杜の御神体は大己貴神=大国主命である。 「和名抄」によれば鑰はカトノカギ(門のかぎ)であるから、府庫のかぎというより府門のかぎと解すべきであろう。府門のかぎを掌握することは政治的又は軍事的な国府の権威を意味し、皇位の継承における三種の神器のように古代的権威を継承したものと考えられる。 国司の任期は普通4か年であるが、就任に当たって新旧国司の引継ぎが行われている。「国務条々」によると印鑰引継ぎの儀式は吉日を選び行われていた。先ず前任国司が新任国司の官符(辞令)を確認してから介又は目の位にある官人が印とかぎを渡す事になり、新任国司が国司館に入って官人等が着席した後、かぎ取り書生がかぎを新国司に進上する事になっている。 「時範記」では惣社で官符を官人に示して印を受取り、次にかぎを受取って、印は印櫃に納めて封をしその後に国庁に入っている。時期的に直接前任者から受領する事が出来なかった場合であろう。その他引継ぎには引継書類、備品、官舎など挙げられているが、その中には国印、倉印、文印、駅鈴、鉤匙(かぎの形のかぎ)が記されている例もある。他国の例では、国司の赴任を在地の官人達が国境まで出迎に行く「境迎」の行事もある。 官印の使用も11世紀末から12世紀初めまでで、以後は捺印を省く書式に変わり、国府の権威衰退のころは印鑰社は単なる祭祀の対象となっている。印鑰社は国府関係以外にも存在している。それは郡家、郡倉、軍団、駅家等の古代施設に結び付けて考える学者もいるようであるが、わが大和町五領の印鑰社は同地が宇佐八幡宮の神領で、御領が五領に転じ、宮米の倉庫と結び付けられているが、あるいは駄市川原付近には佐嘉駅が想定されるし、又、佐嘉郡家(郡司の家)も同地付近と考えられるので、これらとの関係も考えられる。(木下良氏の印鑰社について参照) 駄市川原岩崎木工場の川東一帯の地名が「井釜」である。「井釜」は「居構」で玄関を意味するといわれ、井釜の南を「じょうの内」といい、もと石垣の跡もあったらしく、「じょう」は城に通じるとみて、ここに郡家があったのではないかとも想定される。 官の文書に押す印と貢租の物を入れる倉庫のかぎとは官庁と別な場所に保管するのが通例で、その所在地を印鑰の敷地とし、租税免除地として扱われていた。尼寺の印鑰社は南北朝末期の永徳2年〈弘和2年〉(1382)8月、鑰山城主鑰尼信濃守藤原季高が建立したものであるが、文明2年(1469)千葉氏の内乱で国府や国分寺と共に兵火にあい焼失した。 寛政元年(1789)3月、破損した社殿を成富左兵大蔵種模が村内氏子と共に再建した。 明治元年(1869)氏子寄進によって拝殿を修築した。ここの鳥居に左の文字が刻まれている。 肥之前州佐嘉国府印鑰大明神御宝前□□河上社印鑰崇之於国府年久□□
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甘南比神社
春日高城寺の東より柑橘園の中を舗装された農道が急カーブを描いて頂上近くまで登っている。頂上は僅かな平地が雑樹に覆われ、はるかに佐賀平野が展開している。ここが標高235mの甘南備山で普通、城山と呼ばれている。今では東南面は頂上付近までほとんど開墾されて柑橘園となって昔の面影は見られない。甘南備山の名は久米邦武博士によれば、この峯に国司甘南備真人浄野や子の高直のいた所であるが、それよりも古代神事にちなんだことから名付けられたものという。 甘南備は神南備(南備は森の意)とも書かれ「神の在す森」の意で、神籬をたてその内部を神座として祀ったもので、峯は西南より北東にのび、昔は三段階をなし、上段は約10坪(33㎡)、中段は約30坪(100㎡)、下段は150坪(500㎡)くらいの平地で、共に樹木が繁茂し、同峯の中腹には自然石をめぐらしていた。上段樹林の中央に小さな石祠、富士社がまつられ、毎年秋には祭礼をとり行い、各豪族がことごとく集まり、お初穂を供え、新穀の食い初めをしていた。そして国造はその麓に住居を構えていたらしく、春日西方に長者屋敷の地名があるのはその住居跡ではないだろうか(久米邦武氏考証)。秋の例祭が今は1月15日の春祭に変わっている。 高木氏の始祖中納言文時が一條天皇の御代(987-1011)甘南備城に居住し、その末裔高木宗家が文治2年(1186)再びここの城主として城砦を築き肥前国を風靡していた。その後裔家直のとき、菊池武安に攻められ、甘南備城は陥落した。別名城山というのは城がここに築かれていたことによるので、その城址は判然としないが伝承によると山頂に池の跡があって、昔城兵の用水場だったという。この山の南麓に甘南比社がある。祭神は天児屋根命である。創建の年月ははっきりしない。貞観12年(870)のころ、博多沖に新羅の賊船が出没した時、特に勅使を遣わして幣白告文を捧げ「授肥前国正六位甘南比神社従五位下」の記録があり、当時いかに国家崇敬の念が厚かったかがわかる。その告文は(原文万葉仮名の文) 「天皇が詔旨と甘南備神の広前に申し給へと申さく、去歳の六月より太宰府度々申すらく、新羅の賊船二艘筑前の国の那珂の郡の荒津に来りて豊前の国の貢船の絹錦を掠め奮ひて退けたり。又庁の楼の兵庫等の上に大島の恠有るに依りてトひ求むるに隣国の兵革の事あるべしとトへ言上たり。件の事も思ほしあつかひ憂へ歎きおはします間に又言上すらく、新羅の賊冠兵を調へ船を装りて我朝の地を掠め侵しにこむとすと皇神の託宣せり。又位に叙られむと願ふと言上たり。此に依りて従五位下の御位記に礼代幣帛を副捧げしめて奉出給ふ。今も国家をねもごろに助守りまして此の如きの災難とあるべきことをばしからざるに警しめ悟しおし鎮めまして弥高弥広に栄飾崇奉らむと申給ふと宣り給ふ。天皇が詞旨を申す。」となっており、甘南備峯を春日山というのは、当山は春日大明神垂跡の霊地で、「依って山号を春日山と称す」と春日山高城寺記にある。 甘南比神社は王朝時代まで佐嘉第一の宮であったが、時勢の推移と共に河上神社が盛んになり甘南比社は衰えていった。中世以降、度重なる戦乱の災厄にあって消滅し、その跡すら認められなくなったが、維新後村内有志再興を計り、今泉蟹守翁の助力を得て現地に再興された。明治6年(1873)春日村社に列せられ、大正9年(1920)出羽八幡神社に合祀し、土地の人は「八幡さん」と呼んでいる。
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河上神社(与止日女神社)
飛鳥時代に創建された神社である。平安後期以来肥前国一ノ宮とされていることは周知のところである。祭神は与止日女神で、「肥前風土記」には石神世田姫としている。「延喜神名式」には佐嘉郡内唯一の小社と記されている。 当時の肥前国内での大社は、東松浦郡加部島の田島神社であったが、平安後期になると河上神社が肥前国の一ノ宮とあがめられるようになった。米倉二郎氏は、これは、唐津・呼子地方が大陸との交通の要点であったのが、それが消極化による不利及び国衙(国府の官庁)近傍である河上神社の有利性が両者を交代させてしまう結果になったのであろうと説明されている。 河上神社文書の建久4年(1193)10月3日付在庁官人署名在判の書状に「当宮は一国無雙の霊神、三韓征伐の尊社なり」と記されてあり、又実相院の座主38世尊純僧正が、佐嘉藩主鍋島勝茂に差出した「河上由緒差出書」に、次のような5つの事が書いてある。 一、当社の祭神は与止日女大明神である。神功皇后の御妹で、三韓征伐の昔、旱珠・満珠の両顆を以て異賊を征伐された後、今この地におとどまりになった。 二、当社の創建は、欽明天皇二十五年(564)甲申歳である。 三、当社の祭礼を五月と八月の二回にして、流鏑馬の行事祭礼を行う。郡別割当は次の通りである。 五月=佐嘉郡、三養基郡、高来郡(長崎県南北高来郡) 八月=神埼郡、小城郡、松浦郡(東西松浦、長崎県南北松浦)藤津郡、彼杵郡(長崎県東西彼杵) 四、更に当社の境域は、東は春日城の辻、西は水上山の蛭谷、南は平野宮、北は小坂の辻 五、社 領 往古(平安朝時代まで)勅免の地、肥前国並びに他国を含めて一万三千四百七十町二反 中古(鎌倉時代より織豊時代まで)田畑三百五十町、但し社納五百二十五石 天正年中まで 近世(織豊時代より江戸初期まで)鍋島勝茂公寄付 慶長十八年(1613) 田畑 二十五町四反三畝二十五歩 百七十二石四斗九升七勺 敷地 四町六反二十八歩 内、講堂座主ならびに寺中社家敷地四町六反二十八歩 外、山三十町 ここにある境域も社領も実相院を含めたものである。このころは神仏混交の時代で、宮司と共に社僧も又神を祀る風習が当たり前であった。そのため、大きな神社は付属の寺を設けて僧侶を住まわせていた。河上神社は平安後期以来肥前国の一ノ宮とされ、亀山朝の弘長元年(1261)正一位を授けられている。河上社と、川上川を隔てた東方至近の所に肥前国府があり、国府の政庁である国衙から河上社は特別の尊崇と保護を受けていた。又、一帯の住民も敬神の念が強かったのである。 工藤敬一氏は「それは川上川が佐賀平野の大事な用水源であったので、その源を押さえる位置にあったからであろう。」と説明されている。川上川の水が「御神水」と呼ばれる所以もここにあったのである。住民の敬神厚い河上社と連携し保護していた国衙はとりもなおさず民心を握る上にも、肥前国の統治上大きな力であったかも知れない。 国府の政治力も平安朝までで、鎌倉期以降は公家と武家の二元政治になり、国府政治力の弱まりは河上社の運営に響き、河上社を管領する座主の支配力が減退していった。支配力の減退は座主をめぐる争いや免田米の滞納がふえ、数々の訴訟事件が続発した。 南北朝期の河上社は、鎮西探題であった今川了俊や、肥前国経営にあった弟の今川右衛門佐仲秋によって、在地領主と共に保護が加えられている。 一方、河上社の内部機構は安徳・鑰尼・尼寺等の在地勢力者達の一族によって支配され、南北朝の動乱、不安定の中にも、比較的安定した経営が続けられてきた。近世になっても佐賀藩からの保護が加えられている。
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河上神社の祭神と石神(与止日女神社)
実相院の座主尊純が勝茂公に差出した河上社由緒差出書に、祭神は神功皇后の御妹与止日女大明神であるが、和銅6年(713)の肥前風土記の中に左の事が記してある。 『此川上有石神。名曰世田姫。海神年常逆流潜上到此神所。海底小魚多相従之。或人畏其魚者無殃 或人捕食者有死。凡此魚経二三日還而入海』この世田姫は河上社の祭神与止日女神であるともいわれる。「世田」は「淀」に通じ、川の淀みが神霊化されたのではあるまいか。あるいは豫等比咩神とも書かれ、川上の石神世田姫神の事で、貞観2年(860)従五位下から従五位に敍され、更に貞観15年(873)正五位下に上っている。佐嘉郡唯一の小社で、後の河上神社の祭神であるとされ、昔の土地の人はここを「上宮」として河上社の神官が時々幣を奉っている。自然界の事物を神として信仰することはこのころ当たり前の事で、甘南備山そのものが神であったことも、石を神として崇拝することも珍らしい事ではなかった。さて、この石神を下田の石神群とする説と糸山貞幹翁著肥前風土記纂註による「石神は淀姫社の西方山上にあり」とする説がある。あるいは西方説ではないかと思われる事は、その地点は大岩石が多く、川上地区の淀姫社氏子はここを「上宮さん」と呼び、年1回のお祭の時、上宮さん周囲にはりめぐらす〆繩を新しく取り替えている。川上の石神に通う海神伝承は年毎に族を引きつれて2、3日留まって帰るとあるから、あるいは海人と山の民との交易を物語るものであるまいかと興味深い推定をする人もいる。
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河上神社の掟
昔は河上神社の境内にはみだりに立入ることが許されなかった。嘉応2年(1170)3月10日付、 時の国府より左記の通達がきている。 一、社辺の男女並びに裸の小児が自由に社内に乱入している。敬神崇祖上けしからぬ。速に停止せよ 二、神士瀬の上より鮎返の下に至る間の殺生は昔から禁じられているにもかかわらず夜中殺生している由、犯した者は罪科に処せ 三、付近の者で宮林、神木を伐る者あり、神慮を恐れざること不当なり 星霜ここに800年、今日では観光川上として同社を訪れる人も多い。
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於保天満宮
保元元年(1156)保元の乱が起こり、京都の町は不穏の状態に陥った。於保氏の祖である藤原実遠はそのころ京都内裏北門堅衆の任(御所警備役)に就いていた。彼はこの不穏な政情を心配して、1日も早く平和が来るよう北野天満宮に祈願を続けた。後白河天皇はこれを聞かれ痛く感激されて、実遠の本国へ天満宮をまつるよう御内命になった。そこで実遠は北野の神を勧請して於保村北野の地にまつった。又天満宮を勧請すると共に菩提寺として長禅寺をこの地に開基した。元亀元年(1570)今山の陣の時於保家は亡び、龍造寺隆信がこの地を支配したが、後にこの城(館)跡に天満宮を遷して現在に至っている。 館の周囲は堀がめぐらされていたようで、今では道路になりあるいは田畑に変わっている。後年火事のため焼けた長禅寺も再建されることなく廃寺となったが、場所は於保氏墓の南方一帯のようである。長禅寺に保管されていた天満宮由緒も焼失してしまったが、寛政年間(1789~1801)佐賀藩士於保作左衛門方に存在していた文書によって明らかになった。建長7年(1255)のころ、於保三郎宗益は法名を進仏と号し、大和町於保並びに佐賀市鍋島町増田を領し肥前執行職となった豪族で河上社遷宮奉行をも勤めている。 宗益の孫於保四郎種宗は法名を心教と号し、弘安の役(1281蒙古軍との戦)に軍功をたて弘安6年(1283)肥前国執行職として肥前国を治めた。 於保種宗の所領注進状の中に 一、於保村仮名安松代々令勤仕御家人役地也とあり、種宗は鎌倉幕府の御家人でこの地の領主地頭であった。於保の地を安松名ともいっていたことがわかる。種宗の孫於保五郎宗喜は法名を良教と号し、元弘3年(1333)5月官軍に加わり、九州探題北條英時を博多に攻め負傷した。頼朝以来140年で鎌倉幕府が滅亡した前年である。翌年建武の新政といわれた天皇政治が始まるのである。 宗喜8世の孫於保馬太夫資宗は永正2年(1505)5月、横辺田(江北町小田地方)の戦で戦死し、その子因幡守弼親は天文3年(1534)8月3日、大内氏と龍造寺家兼(剛忠)との戦で戦死し、法名を盛用良誉と号した。於保の館も亡び一家没落の悲運時代である。しかし弼親の大叔父(祖父鎮宗の弟)である備前守胤宗は妻が龍造寺家兼の娘であるという姻戚関係から天文14年(1545)正月16日家兼が多久城を攻めた時これに参戦し、志久峠の戦で討死したが、その軍功によって於保家もまた再興した。 胤宗の子八戸右衛門太夫宗益の時、於保の館も再興され天文20年(1551)天満宮も再興した。 宗益の二男宗暘は八戸を領し八戸下野守と称した。少弐氏・神代氏と結んでしばしば龍造寺氏を苦しめていたが、元亀元年(1570)今山の陣で大友八郎親貞の先手に加わり今山にいたが、深傷を負い山内にのがれ内野で死んだ。 宗暘の妻は隆信の妹でその幼児に飛車松と称する者がいた。隆信はこれを殺そうとしたが、飛車松の祖母であり隆信の母である慶誾尼はふびんに思って命乞いをしたため一命が助かり、後に叔父に当たる八戸九郎次郎光宗の養子になった。後の龍造寺彦兵衛入道宗春である。 因幡守弼親に3人の男子がいた。長子は藤太郎乗忠といって晴気山伏の養子になり蔵徳坊といった。天正12年(1584)島原の合戦で戦死した。二男式部太夫賢守は須古の戦で負傷し、そのため元和7年(1621)死去、法名を賢守宗聖居士と号した。子孫は長く鍋島家に仕えた。 大和町於保一帯を領した於保氏は平安時代から中世に至る400年間にわたり、あるいは地方に君臨し、時には悲運を迎えるなど戦国の世の常とはいえ栄枯盛衰の時代であった。現在、天満宮(館跡)の西南の地に因幡守胤景以下の墓石が列んでいるが、数百年の歳月を経た墓地は荒れ放題でまつる人もないまま放置されていたが、これを憂えた現円通院於保禅機氏により時折り供養されているに過ぎない。
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兵動氏と兵動八幡宮
室町時代から近世にかけ旧川上村佐保に豪族がいた。 遠い先祖は藤原鎌足の流れを汲む藤原氏で、始め藤原姓を名乗っていたが正光の時から兵動姓になっている。正光の先祖に兵藤正経という者がいた。寛治元年(1087)11月14日、八幡太郎義家、新羅三郎義光兄弟が清原家衡、武衡を金沢柵(秋田県仙北部金沢町)に包囲し攻め落した。義家が飛ぶ雁の列が乱れるのを見て敵の伏兵を知り、危いところを免かれた話もこの時の事である。世にこの戦を後三年の役という。 兵藤正経はこの時源義家軍の先手の将として戦功をたてたので、三河国渥美郡(愛知県)一円を賜わり、子孫代々この地を領して住んでいた。それから約100年後の治承4年(1180)、正経から5代目に当たる刑部太夫正職は平氏打倒の兵を挙げた源頼政の軍に従い、平清盛軍と戦って宇治山田の合戦で戦死した。正職の孫に当たる治部太夫正之は文治元年(1185)、頼朝の命を受け平氏を攻めた弟範頼の軍に従い生田(神戸市)で戦死した。 兵動左衛門太夫正光は正之の10代目の子孫である。幼名を勘七郎といった。肥前国兵動家一統の祖といわれる人で、藤原姓を兵動姓に改めたのもこの人からである。 永享2年(1430)、時の将軍足利義教の命を受け九州探題になった渋川満直に従ったのを機会に、肥前国佐保村(旧川上村佐保)に居を構えた。彼は武運を祈るため鎌倉八幡の神霊を勧請して当地にまつり兵動八幡と名付けた。所領石高は判明しないがここに住むこと14年間、文安元年(1444)この地で死んだ。 正光の孫左馬助正直は明応6年(1497)多久梶峰城で戦死し、正直の曽孫正貞は天文4年(1535 )筑後の原田秋月の軍が来襲した時、千葉氏に属して山内で戦い市の瀬で戦死した。 正貞の曽孫正明は幼名を城太郎と称し、元亀元年(1570)芦刈の衆と戦い牛津で戦死した。その子右京太夫光明は佐保村、楢田村、池上村等90町余を領し龍造寺隆信に仕えていたが、天正12年(1584)3月24日島原攻めの時光明、光延、信光の親子3人とも戦死した。 光明の末子政徳は小城1代藩主鍋島元茂に仕え、子孫もまた代々小城藩に仕えた。兵動八幡宮の例祭(旧暦11月3日)や社殿の修造等昔から兵動一族によって行われていて、後年正光追善のため一院を建立し正光院と名付けた。代々その菩提寺であったが維新以後になって廃寺となった。現存する八幡宮は天満宮と併祀され、鳥居には天明五年(1785)乙己天二月の刻銘がある。正光院の寺地がどこにあったか判明しないが、恐らく八幡宮南方墓地がそれではなかったろうか。墓地の1か所に寄せ墓があるが、正徳、享保、享和の年代銘が残る五輪塔や正光院住職の墓と思われる無縫塔が建っている。
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河上社造営
応仁の乱(1467年以来11年間、京都を中心に続いた戦乱で京都は焼野が原となった)以来河上社の御神体は仮殿に奉納したまま荒れるに任せ雨もりさえなおす人はいなかった。 肥前国賀世庄(今の嘉瀬町か)に蓮乗院増純という僧がいた。この僧は後に元亀3年(1572)実相院35世として、元亀戦火後実相院再興に活躍した座主である。河上社の荒廃を嘆き一念発起してその復興に寝食を忘れ活躍した。永禄の年(1558〜1570)増純は仮殿にこもり、塩絶ち・米絶ちして当宮造営の祈願をした。17日夜疲れて夢うつつの時、容顔麗しき天女忽然として夢枕に立ち「殊特妙好なる大願を思い立ちたるものかな、我感喜に堪えず……」と称して粟の一穂を与えられ夢がさめた。増純は不思議に思い、神の加護を信じ、この善願を達成する事こそ神に報ゆる道だと誓った。早速大工に命じ建築を始めた。信者の奉仕も多く資金も集まった。大宮殿、末社の宝倉、端門、西門、拝殿、鐘楼、本地堂、御穀屋、衝門、瑞籬、講堂に至るまで黄・黒・朱のうるし塗りで飾り「絶妙の壮厳、奇麗の壮観測り難く」とあるから余程立派な河上社が完成したに違いない。5、6年間に建て終わり遷宮供養まで勤めている。造営の当初材木を物色して山々を探し求め、ついに小城郡今山(大和町今山)の地に樟の大樹を発見した。幹の周りが10人でまわしてもなお余ったという大樹であった。この1本で造営を成しとげ得たことは、神助の加護と増純苦行の賜だと結んである。この結構な建物も数年後の元亀元年(1570)には大友軍によって焼かれた。現在残っている西門は樟材の柱とその一部が原材で、他は数度の修理によって杉材等が使われている。(実相院文書より)
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延喜社
祭神は延喜大王である。延喜大王は宇多天皇の第2皇子で斉世親王と称し、妻は菅原道真の娘である。昌泰4年(901)九州の太宰府に左遷され、延喜2年(903)配所で没した道真の不遇を悲しみ、自らも剃髪して仏門に入り九州に下向してこの地に来たり行鎮寺を建立した。ここで病死した延喜大王を後世の人が神として祀ったのが延喜社である。ここに参ると皮膚病が直るといわれ参詣者が多い。 行鎮寺は戦火のため焼失したといわれ、寺地にあった無数の一石作りの小五輪は延喜社の神殿前に移されている。延喜社北方の地、行鎮寺跡を土地の人は「ぎょうてえ寺」と呼んでいる。
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敷山神社跡
礫石の柑橘園の中に「敷山神社御社殿遺跡」の標木が建てられている。 敷山神社は天保5年(1834)の創建で、龍造寺隆信、政家、高房を祀っている。明治6年(1873)佐賀市松原神社に合祀され、社殿は当初福島の妙見社に移されている。鳥居は鍋島町の蛎久天満宮及び久保泉町の白鬚神社に移し建てられている。
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乙文殊宮
国道263号線沿いの都渡城文殊院前から約500m山を登った所にあり、通称「もいっさん」で知られている。乙文殊宮は文殊菩薩を本尊とする神社である。 文珠菩薩は知恵を象徴する仏であるところから、学生や試験合格祈願の参拝者が多い。 肥前古跡縁起に 「御神殿(河上神社)の東に乙大明神あり。本地文殊菩薩○の山にして、御神体は四方二丈許りなり。大石淀姫の乙の御妹にしておわしますとぞ申伝へ侍る。」 と記されており、淀姫の末の妹で、御神体は後方の大岩壁であるとされている。
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男女神社
今山地区の入口に建っている大鳥居は男女神社の一の鳥居である。ここより北へ進み今山地区の中程を左折し、蜜柑園にはさまれただらだら坂を約600mほど登ると社前に着く。ここにたてば佐賀平野を眼下に見下し、遠く有明の海を隔てて雲仙の山々が望見される。社殿の直前には横穴式石室を有する小円墳が覆土のとれたまま横たわっている。 男女神社の祭神はいざなぎ・いざなみの男女二神であるところから男女神社といわれている。 元亀元年(1570)今山陣の兵火のため宝物、古文書も焼失しその創建年月は不明であるが、少くとも今より650年以前に創建されたとみてよい。 700年の昔、建治年間(1275~1278)正空上人が光明寺(今は廃寺)を男女神社の南東に建て、子院末寺も建ち並んでこの一帯は仏教繁栄の霊地であった。このころは神仏習合(混淆)の時代で、光明寺の和尚が代々にわたって男女神社の座主として管理し、神座を勤めていた。元亀元年今山の陣の兵火で焼かれた後に再建され、棟銘に 「奉再建肥前国佐賀郡今山村鎮守男女明神宝殿一宇大檀那従四位侍従鍋島信州大守藤原勝茂朝臣紀州大守藤原元茂朝臣座主光明寺宮司北野坊並堯仁坊金剛寺常善坊金蔵坊金蓮院氏子当村中並江隈野今古賀下村同心大工王孫谷口市郎兵ヱ義重小工若干人 干時承応三年午天仲冬上旬吉祥日」 とあり、承応3年(1654)、佐賀初代藩主鍋島勝茂と小城藩祖鍋島元茂の出資で再建したことが記されている。現在も大字久留間の氏子により春秋の例祭を行っている。
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梅野神社
名尾川の清流をはさんで、松梅小学校と相対する所に古めかしいお宮があり、これが梅野神社である。このお宮の創立年代は不明であるが非常に古いことは周囲の神域とその風格が自から示している。 伝えられるところによれば、この辺一帯の地頭であった人が京都出身で、その氏神である梅宮神社(京都市右京区に現存)の分霊を祀ったのがその創立であるといわれる。松梅地区内では井手の天満宮と共に鎌倉時代の創立ではないかと思われる。江戸中期に火災にあい古記録共に焼失している。ただ社前の鳥居に刻まれている 「聖武天皇、皇后云々……其後嵯峨天皇橘嘉智無御子云々………仁明天皇云々……」の文字が読めるだけで、あとは風雨にさらされ磨滅して不明である。 橘嘉智子は橘清友の娘で仁明天皇の皇后である。皇后は子宝に恵まれず京都の梅宮神社に祈願したところ子供を授かったという伝説があるので、そのことを鳥居に記銘しているようである。ちなみに嵯峨天皇、仁明天皇は平安初期の天皇である。祭神は五十猛神の外三女神で、昔からお産の神様、酒造りの神様として氏子(上梅野1区、2区、井手原)はもとより、土地の人の信仰は厚く、特に安産を祈る婦人の参詣が多いという。 なお、松梅という名称は、松瀬村と梅野村の合併によりできたのであるが、その梅野の名はこのお宮が歴史的に考えても、梅野の地名を生んだのではないかとも言われている。
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松田茂久の墓と神変社
江熊野の氏神である神変社の祭神は「役の行者」といわれ、社名も変わっているが、土地の人はここを「行者さん」と呼んでいる。慶長5年(1600)松田茂久が鍋島直茂に従い柳川に従軍して功績を挙げ凱旋してから、当時九州一の修験道場であった英彦山の分霊を祀ったといわれている。始めはここに行者堂が建てられ、山伏の修験を重ねていた所といわれ、今山の仏乗寺や於保の山法師原などはここと密接な関係があるらしい。大正時代までは正月の初めごろ、各戸ごとに表の道端にバケツや手桶に水を汲んでおくと、修験者が白衣を着たりはだかになって回って来て、読経しながら頭から水をかぶっていった。この修験者達はここを拠点として各地区を回っていたという。行者堂が神変社になったのは不明だが、神変社の神殿は文化14年(1817)拝殿が天保5年(1834)に再建されている。神殿の「唐獅子に牡丹」の彫刻は美事な作である。 松田氏はこの地方の豪族で、龍造寺氏に仕え江熊野に住んでいた。神変社の東方にある「松田籠」という池付近がその跡といわれている。 茂久の父は久行といって元亀元年(1570)隆信に従い多久の役で戦死し、弟の久国は天正12年(1584)島原の役で戦死した。茂久は初め権助といい、龍造寺隆信並びに鍋島直茂の二公に仕えていたが、特に直茂の信任が厚く、直茂の「茂」の1字をもらって茂久と改名した。 茂久は直茂の軍に従って十数度の功績を挙げ、中でも柳川の戦では敵の勇将荒巻和泉守を打ちとるなど数々の軍功を挙げ、凱旋後50石を加禄され、その時の分捕品であった刀、鎧は永く松田家に伝えられていたと言われている。茂久は慶長13年(1608)11月25日死亡しているが、その子孫は代々小城藩に仕えていた。茂久の墓である五輪塔の傍に「追遠之碑」が建っている。これは茂久の没後360年目に当たる大正3年(1914)4月、盛大な祭典が行われた時に建てられたもので、題字は旧小城藩主第11代正三位子爵鍋島直虎の書になり、碑の裏面の刻文は茂久の子孫第11世松田茂致の竹馬の友であった江頭幾三郎の文選で、建塔の趣旨や茂久の事蹟が綴られている。
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乙護社
乙護社の祭神は乙護法善神で、天竺(印度)の主、徳善大王15番目の王子である。法力のために使役され、又仏法を守護するために示現する童形の鬼神を「護法」という。「乙」又は「若」というのは幼童的な名を表わす接頭語である。乙護法は神通自在の人で、龍馬に乗り、虚空を駈けて東方に去られ、天竺の鬼門に当たる脊振山にとびつかれた。(この山はこの時、龍馬が背を振って3度空に向かっていなないたので、これは瑞相だということで脊振山と名付けられたとか) 徳善大王の御后は弁財天の化身(生まれ代り)である。この大王夫婦は王子との別れを悲しまれ、龍樹菩薩に王子の行衛を尋ねられた。龍樹は「これより東、日本扶桑の国の西に当たる肥前の国背振山に垂跡されて(仏が衆生を済度するため本地から身を現わす)、衆生利益の大願を成就された」と答えた。 その後、徳善大王・弁財天・乙護法らは仲よく脊振山の神に祭られるようになった。伝教大師が渡唐の時、この乙護法善神は「色赤くして鬼神のごとし、左の御手に鉄の杖をつき」現われになったという。 (以上肥前州古跡縁起より抜粋要約) この乙護法善神を祀ったのが大願寺の乙護社であり、大久保のは弁財天乙護社となっている。
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八龍神社
池上の氏神で八大龍王も祭神となっている。妙法蓮華経の開巻第一に、仏の説教を聞きに諸天龍が参列するが、その中に八大龍王すなわちナンダ・バナンダ・サガラ・ワスキ・トクサカ・アナバダタ・マナシ・ウパラが挙げられている。そしてこの第5番目のトクサカというのが、乙護社の祭神の1である徳善ではなかろうかと考えられている。トクサカは龍の一種で、乙護法が乗ってきたという龍馬そのものが、徳善という龍であったと考えられている。朋輩のワスキ龍王は阿蘇山の主と見られたこともあり、サガラ龍王は雷山で祀られている。(以上筒井満志氏の「中折歴史散歩」より抜粋)
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山王さん
山王に山王社があるが、これは天台宗総本山延暦寺の鎮守神である山王権現に対する信仰としてのお宮である。山王権現は俗に山王又は日吉権現などともいわれている。延暦年間(782−806)に僧最澄が延暦寺を開いた時、唐の天台山国清寺の山王祠の例にならい、比叡山守護の神としてここに山王の祠を建てたのが初まりだといわれる。山王はもともと霊山を守護する地主神をいい、山神の意味である。山王権現は中世以降天台宗にゆかりのある全国各地に勧請され、その数3800余社になった。又、山王は安産、子育て、縁結びの神としても信仰される。更に「山王の猿」として、猿をこの神の使いとしている。
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貴船神社
西山田の鎮守である。京都市左京区鞍馬貴船町にある貴船神社が本社でそれを勧請したものであろうか。祭神はクチオカミノ神で、この神は水の神である。雨乞いと止雨に霊験があるという。
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諏訪神社
今山にある。建御名方富命・八坂力売命が祭神で、全国諏訪社の総本社は長野県諏訪市にある。建御名方富命はこの諏訪地方を開発した神といわれ、我が国最古の神社の1つである。諏訪大明神とも称され、信濃国の一の宮として、又狩猟、農耕などの神として崇敬されている。
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三十番神社
三反田にある。三十番神は天台宗、日蓮宗では法華経の守護神という。慈覚大師(天台宗)が淳和天皇の天長6年(829)から3年の間、比叡山の横川、首楞(稜)厳院に草庵を作り、同8年の秋に草を筆とし石を墨として、心を静かに、一字三礼して法華経を書写した。この時に日本国内の有徳の神々は30日の間、毎日順番に日を定めて、如法経書写の道場に列なって法要を守護した。これらの神々を三十番神という。つまり、1日から30日まで毎日守護してくれるということであろうか。そば屋で三十番神と書いた提灯を店先に掲げる所があるが、これは毎日善神守護を祈る表示であるという。
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八坂神社
普通この辺では「オギオンさん」と呼んでいる。昔から祇園社・祇園天神・牛頭天王とも呼ばれ、本社は京都市祇園町の八坂神社である。本社はスサノオノミコト・その妃クシナダヒメ及びその御子神八柱を祀ってあり、全国の八坂神社はすべて本社を勧請したものである。7月の祇園会は有名であるが、これは869年悪病が流行した時、御霊会を営んだことに始まり、後各種芸能も加わり、山鉾等も加わって祇園囃子がつき、日本における夏祭形式の1つとなり、各地の祭礼に大きな影響を与えた。
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八幡社
八幡神を祭る神社を八幡宮という。普通応神天皇(誉田別尊)を主神に、左右に比売大神・神功皇后(大帯姫命)を配祀した三神一体の八幡神を祀るが、配祀の神が仲哀天皇・玉依姫命・住吉大神などであることもあり、応神天皇一神の場合もある。 我が国最古の八幡宮は宇佐神宮で、ここから全国に八幡信仰が伝わり、今日、全国の八幡宮は四万余社となっている。平安時代には石清水八幡宮が勧請され、国家・王城の守護神として神宮につぐ重要な社とされ、更に鎌倉時代には幕府が鶴岡八幡宮を勧請し、以来源氏だけでなく広く武家の守護神としてこの3つの八幡宮を中心に全国に広まった。八幡大菩薩というのは八幡神のことで、これは八幡神が菩薩地において仏果を修めつつあるということから菩薩号を奉進したものである。
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富士神社
現在の富士神社は、「富士権現」と「富士明神」の合祀である。 現在地に「富士権現」が祀られ、県道下の名尾川の川辺に「富士明神」が祀られていたものが、昭和10年(1935)の社殿建設の折に合祀されたという。その時建築に関った人たちの名が板木に墨で記されており、当時の人々の姿が思い起こされる。 天井には絵馬が描かれており、奉納者の名前が記されている。名前には当時幼少であった人、嫁いで行った人、老齢だった人の名があり、家長が「自家の繁栄」「吾が子の健やかな成長」「家内安全」を祈願しての奉納であったと思われる。 今では正月の宮詣り、7月12日の祇園祭に家族総出で参拝するという。
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杉大明神
社殿は五穀豊穣を願って建立されたものと言われている。 以前は現在地より東約150m先の名尾川の近くに建っていたという。(現在地に建て替えられた時代は明らかでない) 井手ノ口、原、折敷野の3地区の氏子は、年3回の祭り、1月1日の「正月祭」、4月29日の「春祭り」、7月29日の「祇園祭」に必ずお参りをするという。 宮司の職は、井手ノ口の住民が2名組で、2年交代で務めている。 本殿の他に小宮7社が、集落の裏山、道路端、山沿いにあり、正月前には周辺の草木伐採や清掃作業を行っている。 また、〆縄も飾る。 正月参拝時には、それぞれの小宮に神酒を上げて、お謡い3番を奉納する。