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[久保田町][ 神社]は16件登録されています。
久保田町 神社
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香椎神社
神功皇后 仁徳天皇 菅原道眞 大山祗神 香語山命 祭神 應神天皇 底筒男神 三女神 少彦名神 宇氣持神 住吉明神 海津見神 若郎子命 天照皇大神 宇迦魂命 天若彦神 伊弉諾命 大國主神 八重事知主神 旧郷社 安元3年(1177)窪田の地頭因幡守藤原利常が筑前国(福岡県)の香椎宮の祭神の分霊を矢櫃の森(現神社の西)に勧請。のちに現在地に社地替えになった(『矢櫃森記』)。有明海の干拓で拡大していった久保郷の産土神で、近郷の信仰を集め、旧邑主の崇敬も厚く、免田の寄進、社殿の造営など実施した。例祭は春4月16日、秋の神幸祭は10月16日。神社には2基の鳥居と門1棟がある。1基は明神鳥居で正徳5年(1715)在銘、他の1基は町内唯一の肥前鳥居である。 四脚門は神社境内に立つ1間1戸の神門で、自然石を用いた礎石に角柱を建て、柱に頭貫を通し、三斗、実肘木を組み、その上に桁を置いた簡単な構架である。屋根は切妻造りの本瓦葺である。しかし、その意匠が雄大で、蟇股やその他の彫物に桃山時代の特徴である華麗かつ豪壮な余韻が認められる。この門の建立年代の記録はないが、江戸時代初期のものと推定され、県の重要文化財に指定されている。この門は昭和37年に解体修理されている。
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祇園社
国道207号線沿いの久保田宿の中ほどにある。 社の創建の時期は定かではないが、弘化3年(1846)の西持院文書に、「祇園社敷地二畝十六歩、地米一斗七升五合、若狭殿分御免地宮司双林坊」という記録が残されていることから、それ以前の建立と推定される。 祭神は素盞鳴尊(須佐之男命)、荒神様として氏子の人々に恐れ敬われてきた。 境内の入口にある明神鳥居には「文久四年歳次甲子孟春吉旦」と刻されている。 鳥居の両側には瓦屋根の格子塀が続いていたが、今はブロック塀に変わっている。 拝殿の前には、左右に「文久元年」と刻された石燈篭と、「万延元年」と刻された狛犬がある。他に、石の手水鉢があり「安政七年」と記録されている。久保田宿は、昔の長崎街道の宿場町として栄えたところで、往時、旅館はもちろんのこと、かじ屋、大工職、酒屋、桶屋、畳屋、床屋、豆腐屋、歌舞伎役者など数多くの家が軒を並べていたことから祇園祭りも華やかなものがあったと想像される。 毎年、旧暦6月15日は夏祭りで、神事、余興などで賑わった。祇園社の夏祭りの日は、各家庭では、和紙を張った行灯を作り、絵を描き造花で飾って家の入口に立てた。祭り客をもてなす料理は「タラの煮しめ」に「ウリの酢もの」などで、祇園の日はキュウリは食べないというところが多い。切り口が祇園社の紋に似ているからとも言われている。また、祇園の日に泳ぐとカッパにヘソを抜かれると言い伝えのある所もある。
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若宮社
香椎神社文書の『由緒抜出』によると、「徳万町若宮社敷地六畝十五歩、抱宮、宮桎窪田因幡守、江原下総守、龍造寺山城守隆信、政家、高房公、右御代様より田地十六町御赦免…」という記録が見られる。現在の若宮社は、度々改築が行われているが、石造の神体には、「維時寛政十年(1798)戊午祀十一月神吉日」と刻字されている。拝殿前の常夜燈と狛犬には「万延元年(1860)庚申霜月吉禎日仲冬吉良日」などという字が刻されている。 明治34年(1901)にも社殿が新築され、昭和33年(1958)には明神鳥居が再建されている。 従来は、旧暦の6月13日を例祭とされていた。豆祇園であった。現在は、子どもの樽みこしなどで盛りあげている。
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太郎次郎社
正徳5年(1715)11月15日藤原政盛によって勧請され、毎年11月15日には御祭料として米3斗お供えがあり、御名代の参拝が行われていたことが香椎神社文書で知ることができる。 明治25年(1892)8月、本野盛亨・総子が施主となり再建された。発起人は八田慎吾・香田多嘉司である。境内の狛犬には、「天保六年(1835)乙未八月、常善坊盛諄」と刻まれている。6月14日を例祭日としてきたが、豆祇園であった。現在は子どもの樽みこしなどで盛りあげている。
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王子権現社(王子宮)と王子森稲荷社
久保田宿下りバス停と徳万下りバス停との中間、国道207号線の南、水田に囲まれた朱塗りの社と鳥居が見える。 この一角に三学寺、王子権現社、王子森稲荷社がある。王子権現社は熊野権現を祠っている。神殿は校倉造で、三日月町山領にあった観音堂を現在地に移した。王子森稲荷社は、叡山東塔星峯稲荷 天尊を祠り、農業の神であるが、商売繁昌を祈願する人々の信仰が厚い。
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中副の龍宮社(ひやーらんさん)
久保田町徳万の交差点から南へ1.5km、中副下りバス停から東へ20m、中塚被服kkの西側に石造の龍宮社(ひゃーらんさん)がある石祠の右の扉には、小路、福島、中新江、下新江、村中三興と、左には「享保十六年辛亥(1731)三月如意再建」と刻まれている。このことから、それ以前に創建されたものと推察される。 境内の左にある水盤には、「施主当村中、安政三年(1856)丙辰六月吉日、石工平七」と刻まれている。左右の常夜燈には「安政五年(1858)戊午霜月吉祥」と刻まれている。 常夜燈の上には小さな狛犬が乗っている。龍宮さんのお水入れには「奉献古賀喜平次」と刻まれたのがあるが年代は不明である。往時、嘉瀬川は嘉瀬橋から草木田、中副の龍宮社前、土井の古賀の東側を八の坪、大立野へと流れていた。その土井(居)は道路でもあり、嘉瀬橋から大立野に通ずる重要な幹線道路であった。(圃場整備の際、この土井はなくなった。) この龍宮社は水神様で、旧暦の3月中は水難をのがれるために近隣各地からの参詣者で賑わった。特に奇数日はご利益あらたかと言い伝えられていた。 その時期になると、中副では、集落総出で藁ぶきの小屋を建て、お守札を頒布したり、駄菓子、ラムネ、トコロ天などの店を出した。掛小屋の舞台で、芝居やにわかなど上演されたこともある。 また境内一ぱいに筵を敷き、持ち寄ったご馳走をひろげ、酒を汲みかわしながら歌や踊りに興じた集落団欒の行事でもあった。 ひゃーらんさんは水難よけの神様として、また集落の氏神様として、250余年前から今日まで静かに鎮座されている。
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八の坪天神様
久保田町新田、町役場の東(現久保田支所)、嘉瀬川堤防近くに、こんもりと茂った林の中に天神様のお社がある。 農道から参道を20mほど歩けば、寛政10年(1798)に建立された明神鳥居がある。境内の左側に切り妻瓦葺神殿と二間四方の拝殿がある。 神殿の造営年代は不明であるが、香椎神社文書の『由緒抜出』によると、「新田村八ノ坪天神精記殿御代御勧請、敷地五畝二歩、抱宮、免田一段余右は毎年霜月二十五日祭式」とある。土地の人の言い伝えによると、1本の釘も使用せずに組み立てられているとのことである。 祭神は菅原道真であり、水害が起きないようにと祈りが込められている。(道真が九州に左遷されたあと、京で雷雨が続いたので、それを鎮めるために道真が祀られたのが始まりである。) 境内には嘉永5年(1852)2月吉日に、夏秋氏、原氏によって寄進された水盤がある。拝殿前の両側にある狛犬には、慶応3年丁卯(1867)12月、神殿前の石燈籠には「安政6年(1859)己未2月吉日、新田村中」と刻されている。 「八ノ坪」という名称は、奈良時代の条里制による地番の呼称と思われる。 新田集落では、以前毎月25日におこもりが行われていた。今では毎年1回総こもりと言って、4月の終わりから5月の初めにかけて1日、集落全戸から料理を持ち込み、天台宗の真光院さんの神前行事が終われば、全員でお神酒を戴き、水難逃れや家族の安全、無病息災などを祈願する。
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大立野の沖祗大明神
大立野公民館の北側、嘉瀬川堤防沿いに、石造の沖祗大明神の社がある。この鳥居には、「維時文政三年(1820)庚辰八月吉祥日施主邑中、五穀豊饒海上無難村中安全、石工新兵ヱ」と刻まれている。 香椎神社の『由緒抜出』によれば、「土井古賀津、沖祗大明神は、享保16年(1731)辛亥卯月吉祥御勧請」という記録がある。 現在の沖祗大明神の境内には、大正13年(1924)8月朔(旧暦の8月1日)に、社再建の際に建立された改築記念碑があり、社の由緒が次のように刻まれている。 「当社ノ口碑ヲ按ズルニ今ヲ去ル三百有餘年慶長ノ頃、一老漁夫日々今ノ神社ノ辺ニ舟ヲ繋ギ上陸ヲ常トセシガ海汐芦ノ中ニ不思議光ナルヲ看ル之正シク我信仰スル沖嶋ノ神霊此地ニ降臨マシマスモノト信ジ時ノ領主龍造寺政家公巡視ノ際言上セリ公モ深ク喜ビ給イ此ノ地ヲトシ神社ヲ建立シ沖祗大明神卜崇メ奉ル当社ノ祭神ハ大海津見命ニシテ慶長十一年(1606)八月朔日蒲主政家公ノ勧請ニシテ代々領主大祭ニハ代奏ヲ立テラレシ亦郷里ノ尊慕特ニ厚ク漁業者ハ御神ノ霊験新ナルニ感銘シ毎年旧四月二十五日ニ恒例祭ヲ行ヒ大漁ヲ祈願シ今ニ至ル」 戦前、毎年八朔(旧暦の8月1日)のお祭りには、若者が御神体を水で洗い、掛舞台では忠臣蔵の芝居が上演されていた。 春祭りは、集落総出でおこもりをし、その後中副の龍宮社(ひゃーらんさん)までお参りする慣習があった。
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久富の御髪社
久保田橋の西側、嘉瀬川堤防横に、久富の人々が信仰している「御髪社」がある。 祭神は御彦大明神。石祠には「享保十年(1725)乙巳三月吉日、寄進久富村衆中」と、台石には「天保四年(1833)三月吉日」と刻されている。 社前の明神鳥居の石柱には、「御彦髪沖大明神、弘化二年(1845)乙巳六月吉良辰」と刻まれている。 その後、嘉瀬川改修のため昭和35年(1960)5月3日、現在地に移転改築された。 旧暦の4月8日には、漁業関係者によって、神前に酒と魚2匹を供え、海上安全、大漁を祈願する漁師祭が行われる。 御髪信仰は、有明海沿岸特有の信仰で、いつごろから始まったか明確ではないが、「御髪」は有明海唯一の島である沖の島の祭神で、各地にある石祠は沖の島の御髪神の分霊である。 御髪信仰は沖の島が祭神であるため、古くは航海神、水神として漁家の信仰が中心であったが、時代が新しくなると、水を必要とする農業神としての性格を合わせもつようになり、それに風浪神としての性格も加わり、複雑な信仰の形をもつようになった。
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八大龍王祠
国道444号線の久富交差点から南へ直進する。江戸集落の入口に、二線堤塘(通称松土井)がある。この土井の西へいったところに「八大龍王石祠」がある。 この勧請導師は、本町草木田の龍光寺の中興日賢上人である。松土井の築造が寛文年間(1661〜1672)と伝えられているので、その頃奉祀されたものと推定される。 以前は、搦東、西の新地の人々によって祭られていたが、現在は江戸の氏神様として崇敬されている。 毎年7月16日には夏祭り(風祭りとも言う)が催されるが、当日は氏子が集まり境内を清め、龍光寺の住職を招いて祭事を行っている。 境内に1基ある石灯籠は、その昔は航海する舟の灯台の役目を果たしたとも言われている。その灯籠の正面には「奉寄進」、左側には「靍丸兵石ヱ門、池田理ヱ門」、右側には「慶応元年(1865)乙丑八月吉祥日」と刻まれている。また、その台石には51名の寄進者の名前が刻まれている。
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森正一位稲荷さま
市道、上恒安〜永里線から西へ永里集落に入ると、曲がり角の一角に朱塗りの鳥居と2つのお堂がある。朱塗りのお堂(東側)は、森正一位稲荷大明神で、京都の伏見稲荷の分霊を祀ってあると言われている。 西側のお堂は新しいが、集落の人は薬師様と呼んでいる。 この2つのお堂の前に、石仏が6体お祀りしてある。
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上新ケ江の若宮社
国道207号線久保田宿の西交差点から南に行けば上新ヶ江の交差点がある。この交差点から西に行けば、道路北側に若宮社がある。 八幡社の祭神は応神天皇で、その御子の仁徳天皇を祀ったのが八幡若宮と言われている。外に春日若宮もある。しかし、町内の若宮社がどちらであるか分からない。若宮さんの祭りは12月15日。朝、氏子の男たちが社に集まり、お神酒を頂く。夕方は家族揃ってお参りをし、酒食を共にしながら歓談した。 また、2月1日は、百手祭りが行われる。当番は前日竹で作った弓・矢と、竹を組んで障子紙を張った直径2尺の的を作る。祭りの当日は、各自1年間の家族の安全・健康と作物の豊作を祈りながら矢を放ち、運勢を占う。 旧暦の6月15日は、子どもたちによる豆祇園が行われていた。
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下恒安の天満宮さん
国道207号線、久保宿交差点から南へ2・5km(国道444号線から北へ1km)の永里交差点から東へ500mのところ、金丸集落を通る町道の北側に「下恒安の天満宮さん」がある。 境内に、木造瓦屋根のお堂があり、奥の神殿には、高さ65cmの石祠があって「天満宮」と刻まれ、右側に「文久二年(1862)壬戌」、左側に「八月吉辰」と刻まれている。 お堂の前には、東側に梅の木があり、その下に石造の水鉢がある。この水鉢の正面に「寄進奉」、背面に「文久二年十一月吉日」と刻まれている。 また、梅の木の北側には2段の台石の上に高さ60cmの石碑がある。この石碑の正面には「天満宮五十年祭執行記念碑」「島本家」と刻まれている。また、台石の右側には、西組、島本猪孤馬、外8名の名が、左側には、東組、原田惣三郎、外8名の名が刻まれている。台石の後ろには「下恒安当時十八戸、明治四十四年辛亥八月二十五日建立」と刻まれている。 天満宮の祭神は菅原道真である。 古老の話によると、下恒安では、春・夏2回のお祭りが催され、神事のあと子どもは、コーセン(煎り麦を石臼でひいた粉に砂糖を混ぜた食べ物)や豆を参拝者に配り、大人は酒席を設け、無病息災・家内安全、五穀豊穣などを祈念した。現在は12月25日がお祭りである。 更に、境内西北のところには寛政5年(1793)に建立された大日様の外、弘法大師、稲荷大明神が祀られている。
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大立野北の北之森お稲荷さん
国道207号線、徳万交差点から南のところに祐徳バス横江停留所がある。ここから三差路を東へ行ったところ大立野北集落の北の端に「北之森お稲荷さん」がある。境内北側の中央に、「北之森正一位稲荷大神璽」と刻まれた石祠がある。 その石祠の右側面には「明治三十九年午六月七日」とある。台石を見る。前面には、大立野寄附人、石川又八外48名の名前が刻まれ、後面に「上砥川村谷、石工永石佐吉」と、石面に「発起人鍵山俊八・塚原佐喜造、白濱多藏、原田源七、霧島令辰」と刻まれている。 それから左側にある2つの石祠には、「菊王森正一位稲荷大神璽」「正一位菊之森稲荷大璽」とそれぞれ刻まれている。いずれも、明治39年から43年代である。 境内には4基の常夜燈が寄進されているが、最も古いのは天保9年(1838)戊戌9月吉日、施主は北村中である。 また、多くの石像、石塔の中には宝暦12年(1762)に建立された村地蔵さんもある。 もともと北の森お稲荷さんは嘉瀬川改修以前は、堤防下にお祀りしてあった。その昔、大立野北にも漁業をする人が多く、船出の往き帰りに北之森さんを拝み、航海の安全、大漁を祈念した。 旧暦1月8日がお祭りで、「千里眼」さんの神事の後、おこもりをした。広場では、小屋掛けをして芝居なども催されたこともある。
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天満宮
始めは崇り神として祀られていたが、道真の学徳を慕い、学問の神へと変身をし天満大自在天神とあがめられ、多くの人の信仰をあつめている。
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稲荷社
稲荷は、地域・家を問わず最も信奉者が多い。嘉瀬川の改修以前は堤防下にあり、漁の行き帰りに航海安全・大漁を祈願して参拝をしていた。