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[旧佐賀市][ 神社]は94件登録されています。
旧佐賀市 神社
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自得庵と若宮さん
この野田は江戸時代、久保田領主村田氏の領地であった。森家は、村田氏より百石拝領で、野田に移住し、武術の師範を勤めた。後では銃術の小銃部に取り組んでいる。百石は十町の耕地。野田村の野田氏が千葉家の戦乱に巻き込まれ、討ち死にす。野田に、ポツンとやってきた森家は、先祖の菩提寺として、自得庵をなす。水害にも火災にもあっているので、資料は十分残っていない。ただ門前に石造りの六地蔵さんがある。千葉家の戦乱で討ち死にした人の供養塔である。また、武術の神として、若宮さんも祀っていた。久保田の町東に、若宮さんはある。今の嘉瀬川が、昔は、松永の家の前にあった。堤防がない状態だったと思えば若宮さんが町東に流れていったことがわかる。お寺の自得庵は、大水害後再建したが、若宮さんは、金がなく、そのまま置きっ放し、地元の人に祀ってもらっている。若宮さんの天井の絵馬に、父や叔父たちの名前が見られる。せっかく流れてきんさった若宮さんとして、地元の方々から可愛がってもらっている。
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四面神社
諌早神・温泉神・支々岐神・千々岩神の四柱の神を主神とし、天照皇大神他三十社の分霊が合祀されている。創始の年代は不詳だが平胤貞(たねさだ)が建久3年(1192)に再建したとの記録がある。国道207号線の旧道沿いの一の鳥居は鍋島二代藩主、光茂と鍋島藩5名の家老の寄進で、二の鳥居は寛永11年鍋島初代藩主勝茂の寄進によるものである。また明治維新まで鍋島家より祭費として毎年米五石が寄進されており、海の守護神として尊崇されていた。神殿の建築様式や、大規模な参道からみて、嘉瀬津が佐嘉地方の海上交通の要港として栄えていたことがうかがえる。 祭典は、3月5日の祈年祭、10月10日の例祭(おくんち)、12月5日の秋祭、1月1日の元旦祭と、月2回の月次祭である。 神社の境内にある佐田神社は、熱病の神様として知られ、豆腐を供えて祈願すれば効験著しいというので古くから参詣者が多かった。その創始は詳らかでないが、口碑によれば俊寛僧都が嘉瀬に隠棲中に建立したとも言われている。昔からこの神様は疱瘡の神様として崇敬されていたが、その由来するところは判明しない。四面神社は明治6年10月村社に列せられた。
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乙護神社
創立は不詳だが、平胤貞が建久3(1192)年に再建したとの記録がある。また建武3年(1336)に再々建されたとの記録もある。祭神は、多紀津姫命、多紀理姫命、市杵島姫命他五柱で、文禄2年龍造寺周家によって再建され、明治8年(1875)8月に村社に列せられた。今なお、生産の神様としてあがめられている。
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八幡神社
神体は八幡大菩薩で応神天皇が主神で、仲哀天皇、神功皇后を祭神として祀ってある。弓矢の神として信仰あつく、安元元年(1175)地頭の徳善太郎平益信が鶴岡八幡の分霊を勧請、建久六年(1195)祭殿を建立し、のちに鍋島平右衛門清久(直茂の祖父)の保護をうける。鍋島氏に由緒ある社であったので直茂の代となり祭祀を興し、寛永2年(1625)社殿が造営された。明治六年、村社に列せられた。
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金比羅神社
金比羅神社は香川県琴平町に鎮座し、船に乗る職業の人たちに海上安全の海神として信仰されています。厘外津に鎮座する金比羅神社は明治年間に建立されました。高橋を起点として厘外津に船着場が設けられました。本庄江が当時の海上交通の要所として重要なところでありました。この金比羅神社は昭和9年12月23日讃岐の国、金比羅神社の分霊を勧請して落成しました。
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日子神社
相応津の北端にあって祭神は伊邪那岐、伊邪那美、の二柱に天忍穂尊命を合祀している。寛永2年(1625)7月29日鍋島綱茂公の創建に係るという。現在の社殿は台風で崩壊したため近年改築したものである。祭日は毎年旧6月15日である。
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若宮社
相応津にあって応神天皇を祀る。宝永年間(1704〜1710)相応津氏子連中の建立である。
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若宮社
今津下に鎮座し、祭神は応神天皇を祀る。 近年、老朽化により解体され改築された。
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天満神社
今津上の中道にあって祭神は菅原道真を祀る。
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海童神社
丸目中程で信号機四角の左側にある。祭神は龍神であり丸目氏子の建立といわれている。祭典は旧11月1日と旧15日に行う。 竜王神社と海童神社も漁村に多いが、漁業との関係は直接でなく、漁村が一般に海岸近くにあって、海の被害を受けやすいために祀られているので、海の被害を受けて、海波の静穏と堤防の安全を願う沿岸住民の職種をこえた信仰である。有明海沿岸は沖積平野が広く存在しているため海面との高低の差がほとんどなく大暴風雨に見舞われ堤防が決壊すると沿岸住民は大被害をこうむるのであって、古来いくたびとなくその辛酸をなめ、海波の静穏と堤防の安全を祈念したとされている。
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熊野神社
熊野詣でとは紀伊熊野三山に参詣することをいう。平安中期から白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の各上皇などを中心とする貴族の参詣が盛んになった。鎌倉以後は武士、次いで一般庶民の参詣が始まり、全国各地から、時には数百人の集団参詣があり、江戸初期まで盛行した。この熊野神社もその頃この地区の人々が詣出して分神を祀ったものと思われる。 拝殿の横に祀られている天照皇太神宮の碑に造立年代が刻まれている。これによると寛永2年(1625)2月11日からこの地に造営されていることが判明する。 現在の鳥居は昭和50年12月に再建された。
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三社宮
この宮は高太郎部落の東に位置している。祭神は、与止日女大神、大神宮、権現と三神である。建立の年代は明らかでないが、境内にある参山権現の石祠に寛永2年(1625)2月吉祥日と銘が記してある。 このようなことを勘案すればこの頃に建立されたことは間違いないものと思われる。その他境内には庚申塔や、猿田彦命等が祀られている。
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八坂神社
神埼町にあり祭神素盞鳴尊、天正末期から文禄初頃(1590年前後)江上家種が城原から現在地に建立した。祭礼は7月22、23両日で祇園祭として賑わう。 (注)「祇」の左部分は「ネ」で表記される。
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蓮池神社
明治10年の建立。歴代藩主の霊位を祀り、春秋に例祭を行う。特に春祭りは桜の花見と会わせ殷賑をきわめた。拝殿奥に直和書、「蓮池社」の額がある。 ※平成28年に社殿の老朽化に伴って解体された。跡地には東屋がある。
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鎮西出雲大社
蒲田津にあり祭神大巳貴大神、伊弉諾大神、伊弉冊大神ほか、文永10年の建立といわれ当時、その構造は精巧堅緻で大門、小門があり、また神楽堂、御館などもあって、神田32町歩を持ち、すこぶる広大な神社であったという。大友氏のために焼かれ、後元和4年(1618)鍋島直澄によって再建せられ今日に至る。
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八幡神社
北名にあり祭神応神天皇、元禄5年(1692)鍋島直之の建立になる。
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稲荷大明神
天明年間の祭祀と推定される。側に徳恩寺権大僧都法印豪順他2名による「中央」碑があり、これは享保年間のものと思われる。現在、社は修築され、供物の絶えたことがない。
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護国神社
戊辰戦争で戦死した佐賀藩兵78柱を祀るため、鍋島直正の意を受けた、その子直大が1870年(明治3年)に建立した神社です。その後、たびたびの戦役事変による戦病没者の霊を順次合祀して、今日では3万5千5百余柱の多きに達しています。毎年春秋の2回、全県の遺族を招き大祭が行われています。 この神社の太鼓橋のかかっているところは、昔は石井樋からの船下りの終着場としてにぎわったところで、現在は夏休み中、水遊び場として子ども達に開放され、市民に親しまれています。
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北面天満宮
穀物座、縫工座、煙硝座、木工座、金銀座、鉄砲座の六つの座で構成されたところから名のついた六座町。この町の守護神が北面天満宮です。 入口にある肥前鳥居には1658年(明暦4年)の銘がみえます。棟門には水神の河童の木像が掲げられていますが、川に子どもが落ちて、おぼれているのをこの河童が飛び込んで助けたということで、それ以来、河童は棟門の上から下の流れを見下ろして番をするようになり、川に落ち込む子どもがいなくなったという言い伝えがあります。境内には、吉田南鴎の「乾坤の息づき星の瞬ける」の句碑があります。
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道祖神社
祭神は、猿田彦神で交通神として知られています。与賀神社の末社で、与賀神社参道のこの地に古くから鎮座されていたと伝えられています。 この社は、1964年(昭和39年)道祖神1400年祭を施行した古い歴史をもっています。
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伊勢神社
慶長8年(1603)鍋島町蛎久にあった伊勢大神宮の分霊を勧請してこの地に創建された。 藩祖鍋島直茂夫妻がこの社に参詣して長子勝茂(幼名伊勢松)の誕生をみたからと伝えられている。伊勢町の名はこの神社からとられたもので、ここの門前には江戸時代多くの旅篭屋があり、いまでもその面影を町並に残している。 伊勢大神宮の御分霊を勧請することは許されないことであるが、杉野隼人という人が戦国時代に、53回もお伊勢参りを繰り返したことから、大神宮の祠宮を感激させて佐賀だけが破格の恩典に恵まれたという。 毎年2月11日午前零時から玉替えの行事があり、商売繁昌や家内安全を祈願する参拝客で、いつもはひっそりとした静かな街道筋も、この日だけは祭の人出でごったがえす。祭の費用は佐賀市在住の大神1名、小神10名が支出する仕組みになっている。 この神社の入口にある肥前鳥居は、室町時代の末期ごろ肥前に発生した独特の石造文化財の一つで、江戸時代前期に最盛期を迎え、肥前の武将たちが好んだといわれ、慶長12年(1607)の造立銘があり、石造文化財としての価値が高い。 この神社の境内には寛文7年銘のある石彫の狛犬が二体点在している。きわめてユーモアに富み民芸的な格調を温存している。
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牛島天満宮
牛島天満宮は、かつて蓮池町にあったらしく、鍋島勝茂公が佐賀城を築かれた折り、城の鬼門(北東)に当たる牛島町に移して、城の護神として祀つられた。 天満宮は全国に1万社以上あるといわれ、御祭神は菅原道真公である。学問の神様として有名である。天満宮のいわれは、『天満大自在天神』と呼ばれ、それは雷神の別名でもあるが、それを縮めて『天満宮』とか『天神さま』とか呼んだのである。 神橋前の肥前鳥居は、慶長の頃建造されたものである。この肥前鳥居の形式は、石柱の下部が力強く幅が大きくなっていて、笠木は太い柱に対して薄手で先端は流線型、一種特有の様式である。また肥前鳥居には、額束のあるのとないのものとあって、額束にしても細い角柱のものと、幅の広い方形板のもあるが一定していない。佐賀市には、牛島神社のほか与賀神社、伊勢神社、北面天満宮、掘江神社、八幡神社、本庄神社などにある。県内最古のものは、東松浦郡湊町の八坂神社にある。拝殿の前の上にある『天満宮』と彫刻の額があるが、これは大木英鉄の書である。英鉄は大木喬任の先祖で書画を善くした。また大木喬任の子で大木遠吉は、鉄道大臣のときに国鉄佐賀線を計画し推進した人である。牛島天満宮は、仁平元年(1151)道真公から第16代目に当たる、菅原教正が巨勢郷牛島村に社を創建したしたことに始まっている。牛島天満宮の境内には、樹齢千年といわれ佐賀市天然記念物に指定された楠の大樹がある。このほか石造りの肥前鳥居や、太宰府から分芽した飛び梅や古い石橋がある。また、金刀比羅神社や石造物の庚申塔、猿田彦大神、招福神の稲荷大明神等数多くの石造物があって、石造物文化財を研究する上からは、大変興味深い存在である。
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八坂神社
柳町(現千代町)の元古賀銀行の南前に石造の鳥居が目につく、ここが八坂神社である。八坂神社は、祇園社ともいってスサノオノミコトを祀ってある。 ここは、大旱魃になると、金立神社に雨乞いして、お籠もりのうえ御神体を御輿に移して、有明海の沖の島まで行くことになっているが、これは『お島さん参り』といって、有明海のど真中に暗礁があり、潮が引くと表を現す、要するに沖の島信仰は雨乞いを主体とした水の神の信仰で江戸時代からの古い伝説が今日まで伝わっている。 50年に1度か大旱魃のときにこの『お島さん参り』が行われるが、前回は大正14年に行われた。このとき八坂神社と材木町の日天社で休息されることになっているが、日天社で休息されることは、鳥犀円の薬と金立山の『不老長寿の薬草』との関係があるのではないかと言われている。昔はこの神社でも盛大にお祭りがなされていたが、大変残念ながら今日ではとだえてこの祭りを見ることができない。 祇園祭りの起源は、平安遷都後まもなく毎年のように、夏に流行する疫病を御霊のたたりと考え、その退散を祈った御霊会にある。それには、牛頭天王(ごずてんのう、インドの祇園精会の守護神で疫病の神)を祀る祇園社がよいというので、祇園御霊会が行われた。御輿に、祭鉾(飾りのある長い布)や田楽、猿楽、それに風流(作り屋台)がつきしたがいました。時とともに、祇園祭りは厄払いから余興本位に転化し、鉾や台を飾り、車を付け、御輿渡し変じて山鉾巡行となった。明冶になって、神仏分離から祇園社は、八坂神社と改称され、祭礼日も6月7日〜14日が、新暦の7月17日〜24日に改められ今日に至っている。 (京都府の歴史)より 八坂神社の境内の石柵には、当時柳町や蓮池町など商店主・会社・銀行などの代表者の名前が刻んであり多くの人々の寄進や崇敬を集めていた様子が偲ばれる。 この神社の南、裏十間川に架かる橋を『成就院橋』と呼んでいるが、この橋の西北に『成就院』があったという。明治維新前に成就院という盲僧屋敷があって一かどの修行場だったが、維新のとき衰滅し、祭神の祠だけが神仏混淆の形として残こったので町の人達が修復して祭りを続けている。
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愛宕神社
関ケ原合戦のとき、鍋島勢は西軍に加担したことで、徳川から疑惑の眼で見られ、鍋島家の浮沈にも及ぼうとしたおり、井伊兵部少輔・本多佐渡守、円光寺住職元佶らの斡旋で、かつ、直茂の忠心に対し許され、筑後柳川の城主立花左近将監宗茂征討の命を受けた。慶長5年(1600)10月14日鍋島直茂・勝茂父子は、3万余騎を率いて佐賀を出発した。 この折り、各地方は罹災多く特に災火の禍いを憂慮された勝茂は、鍋島生三を名代として、京都愛宕山に祈願をしたところ、無事災害もなく御利運があったので御信仰を深められ、新堀端(佐賀市呉服町)に京都愛宕山より勧請された。 東京愛宕神社の祭神は、火の神(火産霊命{ほむのびのみこと})・水の神(罔象女命{みずはめのみこと})・山の神(大山祇命{おおやまつみのみこと})などで、伏せの神として広く信仰されてきた。藩政時代の火災のなかで、明暦11年(1761)1月19日高木町より出火、新堀端・呉服町・元町・中町・魚町・八百屋町・夕日町・中の小路のすべてが(332軒)焼失したとの記録がある。戦後昭和24年からは、呉服町・蓮池町・新天地・元町・白山町の協力で、夏祭りには御輿が繰り出され、災禍転除の行事が盛大に行われている。
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お宮(6か所)
東渕地区にはお宮が6か所もある。 空閑天満宮、牟田口天満宮、庚申社、養父社、熊野稲荷神社、明護院とそれぞれに氏子がいて、現在もお祭りの時にはそれぞれのしきたりで神事が行われている。わずか70戸余りの地区に6か所もお宮が祀ってあるというのはどういう理由からだろうか。
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天満神社と牛島教正
近衛天皇の仁平元年(1151)菅原道真の末孫、牛島教正は養父郡山浦郷古野と巨勢庄牛島村を領有し、牛島の地に館を構えた。 佐賀市東田代町の天満宮を始め、この地方の祖神として所々に鎮護の神として祀らせた。今日兵庫町に天満神社が多いのもこの理由によるものだろう。 明治以後、巨勢川西地区の天満宮は西中野天満宮に、東地区は伊賀屋天満宮か若宮の老松神社にほとんど合祀されて減少したが、各地区に今なお神社や神社跡が残っている。
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伊賀屋天満宮
祭神 菅原道真 天照大神 伊弉諾命 大綿津見命 加藤清正 由緒 当社創立の年月は不明であるが、社殿棟木に「延宝八年(1680)鍋島大和守藤原直氏再興」とあり、ひさしの下棟には「宝暦七年(1757)鍋島山城守願主となって再興する」と註記され、その創始はそれ以前である。昔から文教の神、また五穀豊作、雨乞いの神として巨勢郷各地区よりの参詣者も多かった。干ばつには祭神を有明沖にお下し申し、浮立を奉納して降雨を祈ったという。願主、山城守の尊信も厚く、御供米祭典費や社殿の修繕費なども寄進された。 明治5年村社となり、明治35年本殿を改築、昭和2年拝殿を改築されて、巨勢川東部を代表する神社の格式を整えた。明治42年兵庫町東部の神社は、ほとんどここに合祀された。
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西中野天満宮
祭神 菅原道真 大綿津見命 天香具山神 多岐津姫命 天御中主命 由緒 中佐賀崇廟中野村鎮守天満宮の由緒書きの中から要点をあげると、昔は1町歩の境内で、四方に大堀があった。これは中野氏か、下村氏の館もしくは出城ではなかったかと伝えられている。松、杉、樫などの大木が生い茂り、中野、下村両家の崇廟であるという石の祠があった。 龍造寺隆信、鍋島直茂らの尊信ははなはだ厚く、永禄6年(1563)当社を再建した。その後も出陣の時には必らず当社に参詣して戦勝を祈願し、そのつど勝利を得、奇瑞につくづく感心されたと伝えられる。 隆信は自筆の大文字「天満宮」の掛物、その他鎧、弓、槍、旗などを寄進し、直茂は刀(関兼光)を奉納された。光茂時代、拝殿その他が大破したので、延宝4年(1676)造営している。 元禄12年(1699)、朝廷の大仏師如鑑に天満宮の御神体を造立させ、宝暦2年(1752)成就寄進された。明治4年10月村社となり、明治42年兵庫町、川西地区の神社は、ほとんどここに合祀された。 なお明治、大正の頃まで、この地方に歌い伝えられた次のような俚謡がある。 「中野のじゃあどん(官主)起ってみやい、起っぎいよかことあろうばん。」龍造寺隆信が出陣のおり、この天神様に戦勝の祈願をした。挨拶に出た官主は座を起とうとしたが、隆信の威風堂々とした姿に腰が抜けて起てなかった。これを見ていた近侍のさむらいが、手拍子打って歌ったのが、この唄の始まりだという。その後子どもが喧嘩して転んだり、幼い子をあやす時に、これを歌ったそうである。 龍造寺、鍋島家の尊信が厚く、由緒書や前記宝物なども多かったが、神社の衰退とともに、これらの宝物も、しだいに散逸しつつあるのは残念である。
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老松神社その1
祭神 菅原道真の室 由緒 巨勢神社の由緒記によると、源頼朝が家来を諸国の地頭に任じていた頃、建久5年(1194)武蔵国7党の随一であった児玉党の宗家である参河守俊治がこの地方に下向して、本城を牟田に築き、故国の氏神であった老松大明神を勧請し、巨勢庄500余町の崇廟とあがめた。なお老松明神の他に、淀姫大明神、天満宮、乙宮大明神をあがめたので4社の明神ともいった。その後、花園法皇の延慶年中、立川阿波守一族が、鎌倉の今泉村から当国に下向し、巨勢の地に場所を選んで今泉村と称し、そこに館を築いた。そして巨勢庄の崇廟である老松大明神を今泉村に遷し、その後宮に老松天満宮をあがめたとある。老松神社の主祭神は道真公の北の方、老松女となっているが、鳥栖市の瓜生野にある老松社の由来記によると、道真公の第5子長寿麿が、この地で亡父の像を自ら刻んで祀ったが、長寿麿の家の名を老松といったので、その名をとって付けたともいう。
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老松神社その2
鎭西肥前國巨勢の庄、鎭守宗廟老松神社鎭座の由来を尋るに源頼朝公諸國に地頭を兼ね給ひ後鳥羽院の御宇、建久5年(1194)甲寅にあたり武蔵の國児玉○の宗士参河守俊治筑紫肥陽の地を領し此地に下向あり、巨勢10名又は5名とて巨勢、池田、真崎、宮崎、千住、牟田口、井原、松永、播、江副、奥曽、公門、近藤、田所等の家臣を連れ、本城を牟田と云ふ所に築き、武蔵の巨勢野に准へて巨勢と号せられ、故國の氏神、老松神社を瓦町の本社に勧請し、500余町の宗廟と仰ぎ、並びに淀姫神、乙姫神を崇め奉る。 祭神 菅原道真、天照皇大神、伊弉諾神、淀姫神、仁徳天皇、應神天皇、乙姫神、大己貴神(天照皇大神外4柱は明治43年合祀により追加する)