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[諸富町][ 建造物]は5件登録されています。
諸富町 建造物
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旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋) 一基
重要文化財
旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋)は、有明海に注ぐ筑後川河口より約8.5キロメートル上流に位置する昇開式の可動橋である。 旧筑後川橋梁は、国鉄佐賀線の鉄道橋梁として建設され、昭和10年(1935)竣工、同年5月25日に開業した。建設するにあたっては、位置的に筑後川の河口付近で、有明海の潮の干満の影響も直に受ける地理的条件があり、しかも、付近には港もあり、建設当時は船が主要交通機関であったため、大型船の往来も激しかった。通常の橋だと干満の影響で船が通れなくなってしまう可能性があったため、中央部の橋が稼動して船が通れる構造になった。竣工当時は「東洋一の可動式鉄橋」と呼ばれた。 橋の全長は507.2メートル、可動部分の長さは24.2メートル、昇降差は23メートルである。中央部分にある可動桁は、48トンの重量があり桁の左右にある高さ30メートルの吊上塔(鉄塔)には4本のガイドレールが走り、この上で滑車が回り機械室内の巻上装置を介してワイヤで23メートルの高さまで引き上げることができる。引き上げるときは可動部分と吊り合う重量の鋼鉄製のおもりを鉄塔からワイヤーで吊るし、巻上装置の負担を減らし、平衡ワイヤーにより左右のバランスをとり、強風にも耐える構造となっている。 国鉄の民営化を前に昭和62年(1987)3月27日限りで佐賀線は廃線となり、同橋梁も閉鎖され、筑後川を管理する当時の建設省からも撤去勧告がなされ、解体も検討された。しかし地元では橋存続の要望が強く、平成8年(1996)に遊歩道として復活し、現在では大川市と佐賀市諸富町のシンボル的存在である。また、橋の両端には公園が整備されていて、現役当時の橋の姿のモニュメントや佐賀線に使われていた3灯式信号機や警報機などが保存されている。
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銅造明神鳥居 寛永十七年の銘あり 一基 (大堂神社)
重要文化財
大堂(おおどう)神社は、弘安2年(1279)創始と伝えられている。 この銅造鳥居は、大堂神社の三の鳥居(寄進時は一の鳥居)とされ、寛永17年(1640)の造立銘をもつ県内唯一の鋳銅製の明神鳥居である。 高さ4.78メートル、笠木の長さ6.87メートルである。笠木(かさぎ)はゆるやかに反りながら両端で厚みを増す。木鼻(きばな)は斜めに切れる。柱はほぞのある鋳造円筒を4個積み上げている。2段目までは砂をつめているが、その上部は空洞である。基部は円形の台石に乗る。 笠木・島木(しまぎ)・および貫(ぬき)はいずれも、厚さ約1.5センチメートルの長方形の銅板を鋲止めにした箱状のものを3本継にし、継目に幅広の薄い銅板を巻いて造り上げている。また、笠木の上面を、薄くて細長い銅板を横継ぎにして覆っている。笠木と島木の芯には松材が使用されているが、貫は不明である。 正面には、銅板押し出しの杏葉紋の額束をかかげ、笠木の両端には十六弁の菊花紋、島木には杏葉紋がそれぞれ配されている。 この鳥居は、島原の乱に出陣した小城藩初代藩主鍋島元茂が、戦勝祈願成就に寄進したもので、左柱には、次のような銘が陰刻されている。 寛永十七年庚辰年二月十五日 大願主 従五位下鍋島紀伊守 藤原元茂(以下略)。
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六地蔵 二基
重要文化財
地蔵が六道を輪廻転生する衆生を救済するということから、六つの分身を考えて六地蔵として信仰することは平安時代末期に始まったといわれる。本県内に遺存する石像物を通してみる限り、地蔵尊は室町時代前期に現れ、後期に著しく造立されている。室町時代の地蔵信仰は造立銘より、その大部分は個人信仰であったことは明らかであるが、後期になると信仰を同じくする集団である講の発生を見るに至っている。 多聞院の六地蔵は、方柱形の二本継の竿石の上に中台をのせ、その上に尊体を安置し、宝珠のついた屋根形の笠石をのせた六地蔵の基本形式である。一般的には時代が下ると中台の側面の蓮華文が消滅する傾向がみられる。 195センチメートルの六地蔵には蓮華文が残っており、笠石は六角形である。また竿石には二体の半肉彫像が彫られている。 150センチメートルの六地蔵には蓮華文がなく、笠石も円形である為やや時代がくだる可能性がある。寺院の門前や墓地の入口に一般的に見られるようになったのが室町時代後期からであることから、そのころの造立と推定される。
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肥前鳥居 一基
重要文化財
肥前鳥居は、室町時代の末期から江戸時代初期にかけて多く造られた。その特色としては、笠木と島木が一体化していて、木鼻が流線形にのびている。笠木・島木・貫・柱の各部分が継材となっていて、原則的には、各部分が3本継ぎになっている。柱の下部に亀腹を設けず、柱の下部を削り出して、生け込みになっている。柱の上部には、台輪をつけ楔を設けないなどがあげられる。 若宮神社の肥前鳥居は、総高211センチメートル、笠木320センチメートル、貫290センチメートル、柱間の幅145センチメートルで銘文はないが、額は「若宮神社」と彫られている。 肥前鳥居の特徴である各部分の三本継ぎが柱には見られず、極端に低く貫下が153センチメートルしかない。亀腹が見られることから上部の二本が破損して低くなったという可能性がある。貫は事故のために破損したため、昭和58年に修復された。
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肥前鳥居 一基
重要文化財
肥前鳥居は肥前を中心として、その周辺の福岡県の一部などに分布している独特の構造と形式を有する石造鳥居である。特色として、島木と笠木が一体化していて、木鼻が流線型に伸びていること。笠木・島木・貫・柱の各部分が継材となっていて、原則的には各部分が三本継ぎになっていることなどがある。 新北神社の参道には4本の鳥居があり、この肥前鳥居は神門の前に立つ。額は「新北大明神」とあり、慶長13年(1608)佐賀藩祖鍋島直茂の奉献になるもので、高さ3.80メートル、笠木の長さ4.25メートルである。