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[旧佐賀市][巨勢校区]は76件登録されています。
旧佐賀市 巨勢校区
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権現堂の浮立
権現堂にかつては玄蕃一流の浮立が伝承されていた。笛と太鼓の囃し浮立に合わせて踊る所作は民俗芸能の要素を濃厚に示している。 末次峯二家に相伝される『浮竜太鼓帳之巻』によると、「晝夜ニ限ス太鼓ヲ打ハ諸魔ヲ拂ヒ諸願ヲ成就スト」と記録され、悪魔払いの民間信仰の行事であることを物語っている。また、悪魔払いのほかに、五穀豊穣・てんぴ追い・雨乞いなどの時に、この浮立を舞うという伝承がある。 玄蕃一流の浮立を練習する時期は盆過ぎから部落の広場で夜になされていた。そして、巨勢神社の「おくんち」に12年に1回、お上り、お下りのときに浮立を舞って送迎し、奉納もしたものである。 浮立役者の役目・年齢層・行装・服装は、 1.笛…3〜4人(中老・青年)。黒足袋を履き、横笛1本を持つ。 2.大太鼓…一人(4代目の末次峯二氏に相伝されている。)わらじ・きゃはん・てんじく(天竺)を身につける。 3.大太鼓の助手…1人。ハッピ・わらじ・きゃはん・てんじくを身につける。 4.鉦……16人(30歳以上の男)。しゃぐまを被り、ハッピの黄の帯をしめ、きゃはん・わらじを身につける。 5.もりゃーあし(踊り子)…30人以上(子ども・娘)。紋付・ぞうり・花笠・小太鼓を身につける。 6.長老…二人。紋付を身につけ、お謡いをする。 7.さいりょ人(世話役)…13人。紋付を身につけ、ちょうちんを持つ。 などである。 浮立役者は権現さんの所に集まり、鉦-もりゃーあし-大太鼓-笛の順に並び道ゆきをする。そのときは、部落内の入り口のところで鉦を打つ。 巨勢神社へ奉納されるときは、「神の舞」として、てんじく(天竺)を頭に被り、「西方舞い」の「うしろ巻き」を太鼓に合わせながら、 そもそも浮立と申するは 古のころよりも 龍神祈る かしわ手に 打って祈れば龍神も ゆるぎ出でさせ 給ひける 東西南北の悪魔を払って 白酒の露をば 授け給ふ と、謡い終わると、直ちに笛の合図で踊る。 「神の舞」のタブーとしては、「てんじく(天竺)を頭にして、こざを祈って、昔は舞いそこなうと、ござ敷いて切腹せんばらん」とある。 末次峯二家を中心に伝承される玄蕃一流の浮立は、古くから農耕儀礼の系統が巨勢神社の降神儀式の芸能化であり神事芸能であったとみられ、民俗芸能としての価値を高めている。また、その芸能集団が権現堂の末次家を中心として存在したといえよう。
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東分下の浮立
この地区には郷土芸能としての花浮立が伝承されていて、巨勢神社のお下りの時の熊野神社と巨勢神社に奉納される。この浮立は正しくは神野の掘江神社の神主が始めたと言われ佐賀平野一帯に広がった玄蕃一流の浮立である。笛や太鼓と鐘の囃子に合わせて踊るものでこれに天衝舞と言われる独特の踊りがあり民俗芸能の姿をしている。 末次氏宅に伝わる浮立大太鼓陰之巻によると弘治元年(1556)山本玄蕃に始まり安永8年(1779)古賀次右衛門が当地区末次栄蔵に伝授したものであると記され、どんな理由でこの地区に取り入れたかは明らかではないが、この巻き物には大太鼓の打ち方などが記されている。また、その中に、「昼夜に限す太鼓を打つは諸魔を払い諸願を成就す」と記され、悪魔払いや五穀豊穣、てんぴ追い、雨乞いなどにこの浮立を舞うという伝承がある。 浮立の練習は13年に1度の巨勢神社のお下り当番の年に盆過ぎから地区の広場で夜行われ、巨勢神社お下りの日には地区の人々でこの浮立で送迎し、奉納をする習わしである。 浮立役者の役目と服装 1.鐘 約16人(中年の男) 法被に股引きで身を固め、黄色の帯をしめ、しゃぐまをかぶる。 2.笛 約4人(中老) 黒足袋をはき、横笛1本を持つ。 3.もりゃあし(踊り子 若者男女) 約20人〜30人 ぞうり、花笠、小太鼓、手甲、たすきを身につける。 4.大太鼓一人(末次家) わらじ、脚絆、天衝を身につける。 5.大太鼓の助手1人 法被、脚絆、わらじ、天衝を身につける。 6.さいりょう人(世話役) 数人 紋付きを身につけ、提灯を持つ。 当日、浮立役者は権現さんの所に集まり、鐘、もりゃあし、大太鼓、笛の順に並び道行きをする。 巨勢神社に奉納の時は、「神の舞」として、天衝を被り「西方舞」の「うしろ巻」を太鼓に合わせながら、「そもそも浮立と申するは、古のころよりも 竜神祈るかしわ手に 打って祈れば竜神も ゆるぎ出させ賜いける 東南西北の悪魔を払って白酒の露を授けたもう。」と謡い終わると笛の合図で踊る。 舞の曲は神の前、四方拝、道行き、高い山、豊年、世渡りなど十数目で曲の変わり目に「後ろ巻」のお謡をあげる。
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ホンゲンギョウ
1月7日暁には、「ホンゲンギョウ」という行事が行なわれ、藁や青竹を集め、家の庭先で燃やし、青竹を爆発させて魔払いとした。現在続けている家もある。
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もぐら打ち
1月14日は松の内の終わりで注連飾り、門松などを取りのけ平常に復した。早朝には、子ども達は、もぐら打ちをしてまわった。手ごろの青竹の端にわらを束ね、小繩で巻き、それを持って数名ずつ組をつくり、家々に行って、「なれなれ柿の木、ならずの柿、ならずの柿はなれというた。千なれ、万なれ、億万なーれ。……。」と歌いながら、果樹の根元などを打ちまわり、報酬に餅をもらっていっしょに焼いて食べた。今はほとんど廃れている。
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権現祭り
藩政時代から佐賀では、毎年2月と9月に、英彦山権現に団体参詣をする風習があった。この地域では、後年部落代表が参詣するようになり、15日には、地区代参の人の帰りを待って、部落の人は権現祭りをした。現在続いている所もある。
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涅槃会
2月15日は釈迦入滅の日で、全国的行事で、寺々では釈迦涅槃の画像を掲げて供養する。佐賀では「香ばし」といって米を煎り、粉にし、砂糖を入れたものを、各戸仏壇に供えた。
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泥土あげ
「ごみあげ」といって、3月の彼岸前後に、堀の水を干して、中の泥土を田にあげ、広げて、堀をさらえた。田に広げた泥土は、乾かして砕き水田の重要な肥料とした。この仕事は農家にとって重要な行事で、部落の人皆で行なったが、最近化学肥料が出まわり、行なわれなくなった。
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巨勢神社春祭り
4月15日には、春祭りが行なわれ、夜店が出たり、踊があったりしたが、今は目立った催しもなく、期日も20日に替わった。
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川神祭り
4月16日には、旧藩時代から川神祭りを行なってきた。この祭りは個人個人で行なうもので、わらで円座を作り、小豆飯を円錐形ににぎって供え、種々の供物をのせ笹や青梅の枝を円座の中央に立て、白紙に種々の堀の魚の絵を描き、帆のようにして結び燈明を点じて川に流し水神を祀った。種々のものをのせるには、兵庫皿という、わらで作った皿にのせる習慣がある。現在も続けている家も多い。
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さなぶり
6月末から7月初め頃、田植えが終わると、近所の人々は集まって酒を飲みかわし、お互いの労をいたわりあった。
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金立山参り
7月初め、田植えが済むと、農家の人達は、うちそろって金立山参りをし、水不足がないように祈った。
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祗おん祭り
通常祗おん祭りは、6月15日の祗おん社の祭りをいうが、この地方では、巨勢神社の夏祭りやその他の神社の夏祭り、また 地蔵尊、観世音の夏の祭りも祗おんといって夏の夜にぎやかな祭りをした。巨勢神社の夏祭り祗おんは、7月15日である。
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綾部神社参り
8月末ごろになると、農家の人たちは、綾部さん参りといって、風の神といわれる綾部神社に参り台風の被害の少ないように祈った。
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お供日(おくんち)
10月20日には巨勢神社秋祭りがある。この祭りのことを「供日」といって以前は11月29日に行なわれ、その前は12月15日であった。供日には、年毎に、各部落順番に下宮を設け、「おくだり」といって、巨勢神社から御輿を担ぎ、多くのお供を連ねて行列が通った。夜店が並び、舞台がかかって踊などがあって賑わった。 各家々では、赤飯を炊き、鮒のこぶ巻きを作って祭りをした。そこで祭りの前には、堀干しをして、鮒をとるのが例であった。
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長崎街道跡
江戸時代の地図でみると当時の橋は今の構口橋のやや南に架かり街道は川に沿って南に下り構口公民館の横を通り丸中木材市場の南を回り九州恵商会の南を経て五叉路に出て牛島宿の旧道につないでいた。 今は構口公民館で消えている。
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ももて
この地区では2月に行われ、悪魔払いや年占行事とされています。当日は神主を呼んで八幡社で神事をして、竹で編んだ輪に紙を張り、鬼と書いて的にする。手製の弓と矢で順に的を射る。的射りが終わると“つうわたし”をして神酒を戴き直会をする。
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秋季大祭(串じびき神事)
毎年11月には、串じびき占い神事を八幡社において行っている。 翌年の大年・水稲・水害・台風・火災の良・悪を占うもので、その結果は全員に伝えられる。 大祭の始まりは明らかではないが、地区には昭和4年以降の控帳が伝えられている。
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英彦山神宮参り
毎年夏以降に、英彦山神宮に地区の代表者がお参りし、豊作祈願や災難よけの目的で、祈願をしている。神宮で祈願されたお守りを全戸に配布をしている。 お参りが始まった時期は不明で、昭和30年代頃までは宿泊しながら参拝していた。参道入口の青銅の鳥居は、佐賀藩主鍋島勝茂公の寄進であり、佐賀藩との関係が強い神宮であることから参拝していたのではないかと思われる。
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御日待ち
毎年10月から11月にかけて行っており、稲の収穫が済んだ後、豊作に感謝するための地域の祭りである。始まった時期はわからないが、日の出時にお日様(太陽)に対して感謝をこめて手を合わせてお参りしていたし、以前は、餅をついて感謝の意を表した時期もあった。現在は、各家の代表が夜と朝一堂に会し、順番を決めて感謝の宴などを行って、お日様に感謝して収穫が出来ることを地域の行事の一つとして行っている。
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旧長崎街道の大曲、小曲
構口から道崎まで現在は一直線の道路になっているが、長崎街道当時は各所に曲りくねりを設けてあった。構口より牛島宿までの所を大曲、小曲といったが現在は狭い農道となっている。 構口橋より川にそって南下し、更に曲りくねりしながら東進し牛島宿、高尾宿を通り、藤棚を経て東進し、郡境付近で大きく曲っていた。古老の話によると敵軍兵の襲来がわかりやすいことと敵兵に対する襲撃がしやすいためであったとのことである。
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灌漑記念碑
東分下の耕地は、巨勢地区でも土地の高い所で、踏み車で水田に水を汲み上げており、当時、毎日水田に灌水して維持していくのは並大抵の苦労ではなかったのです。踏み車を2段、3段と連ねての水入れ、朝は3時、4時から蚊に刺されながら、小学生までも動員しての車踏みが毎日、毎年繰り返されました。そのため多くの人手と労苦は大変なものでした。そこで大正10年に東分耕地整理組合を作り機械灌漑施設を取り入れる事業を始めました。しかし日本で初めての事業で困難がつきまといました。最初は5馬力のディーゼルエンジンを据えて実施しましたが、この発動機が不調で失敗しました。次に小型発動機を船に積んで行う舟形揚水機を真崎鉄工所が開発して実施しましたが、船の運行が不自由の上、機械に不慣れで失敗しました。そして翌年真崎鉄工所が2馬力の電力モーターによる揚水機を開発し、電力の導入など問題は山積みしましたが、モーターと揚水機は真崎鉄工所が受け持ち大正12年に完成しました。この機械灌漑は佐賀平野に急速に広がり、東分下のこの事業は日本の先駆者となり、その記念碑が建っています。碑文は当時の県知事の作です。
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郡境石
修理田一本松一の角340番地、佐賀郡と神埼郡との境界の石で高さ5尺4寸(約170cm)幅6寸5分(20cm)の四角の形をした石柱で264号線の旧道路横に建っている。
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一本松戸次(へつぎ)塚
道崎一本松道崎橋横に1個の扁平な自然石が建っている。高さ3尺、人呼んで戸次塚という。元亀元年(1570)8月23日大友宗麟佐賀城攻のとき戦死した豊後の将、戸次式部大輔の戦死の碑という。 『直茂公三徳譜』に曰く 敵の大将大友八郎親秀討たれて北山の敵は残らず退散しけれど、東の口、阿弥(あね)、境原、茶臼山の敵はまだ退かず。然るに高尾まで攻寄せたる戸次式部大輔が5千余騎次第に落失せて陣所まばらになりし由城中に聞こえ、さらばその敵追い払わんと同23日納富但馬守先鋒にて隆信公自ら打出られ高尾に於て御一戦ある。直茂公と龍造寺上総介家晴は中島より敵の後に廻り鉄砲を打ちかけらる。かかりし程に戸次が陣騒ぎ立てことごとく東をさして敗北す。大将式部大輔は逃げる敵を下知してありけるが、納富が与力辻佐馬允に渡りあい、討たれて首をとられけりと。 或記に曰く 戸次式部大輔この時自殺す。その印、今の一本松也と、しかし、北肥戦記には、これが臼杵式部大輔となっており両者いずれか明らかでないが、土地の人は戸次(とじ)塚、または戸次(とつぎ)塚といっている。 龍造寺方では、これら戦死者の首級をあつめて葬ったといわれ、後、大分に照会、調査の上戸次(へつぎ)塚として「佐賀市の文化財」には掲載している。
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小田資光の墓
小田資光の墓は東巨勢、龍津寺にある。小田駿河守資光は蓮池城主で覚派と号した。資光の祖小田常陸介直光が肥前にきて蓮池城を築いたのは応永34年(1427)であるが資光は戦国乱世のときに出て文武の道に長じ幾多の戦功によって所領も1万6千町に及び肥前の豪族として威勢をふるっていた。後に龍造寺隆信に亡ぼされた。はじめ墓は蓮池の徳恩寺にあったが、無気味なたたりが続くというので、あとで龍津寺に移したという。
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藤棚の跡
高尾消防格納庫のある所で、東西2間(3.6m)、南北7・8間(12.6〜14.4m)に広がっていた藤棚があって、旧藩時代参勤交代などで出仕の折は、ここで歓送迎したという。
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高尾お倉跡
巨勢川岸の公民館付近は藩政時代に佐賀藩の上納米収納倉庫のあった所で明治16年頃までは4棟あったと言われています。廃藩後不要となり明治29年土地と新倉庫は巨勢村に払い下げられ役場として使用されていましたが、昭和になって農協倉庫になりました。 この付近はお倉浜と呼ばれ船着場でコの字形に倉庫が並び中庭は米検査所で、高尾橋のたもとに倉番所があったそうです。
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元忠寺跡
修理田にあり、安養山と号し天台宗の寺院であった。 『肥陽古跡記』に曰く。佐賀郡安養山元忠寺、本尊は大聖不動明王、智澄大師の御作也。如影上人元忠の開基、元和4年卯月中旬高源院殿正真大姉の御願にて、愛染明王の尊形弁聖天の像を作り、一宇の堂を建立し給えり。また万治2年12月18日太守光茂公の御願として、江府山王七社を御勧請有って、同年12月13日この元忠寺の勝地に移し奉り給う…とある。 当時、巨勢第1の寺で、藩主の信仰も厚く、度々ご参詣あり、知行つきであったけれども、廃藩により寺運衰え、明治初年には、十大区の御用取扱所を元忠寺におかれて地方行政の中心となったこともあるが後、廃寺となる。 山王社も神埼町仁比山の山王社に合祀され今は小さな社が残り、元忠寺は住職の墓が林の中にぽつんと残っているのみである。
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一里塚
国道264号線沿い、東分上に一里塚の地名がある。香田氏宅前に松があって人々は一本松と呼んでいたと言う。昔は塚になっていて、藩政時代長崎街道上の里程標塚で、白山町高寺の里程標から1里の地点であることを旅人に表示したものであるが、今は地名として残っているだけである。
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売茶翁と顕彰碑
東巨勢、龍津寺の名僧であった月海禅師は、姓は柴山、名は元昭で売茶翁または高遊外と号し、日本煎茶道の祖としてその道の人から仰がれている。 売茶翁は延宝3年(1675)佐賀市蓮池町西名の道えん(巨勢町東巨勢との境で諸富豆腐のすぐ東付近)で柴山杢之進の三男として生まれ幼名を菊泉と言いました。翁は11歳のとき龍津寺の化霖和尚の門に入りました。龍津寺は黄檗宗万福寺独湛の弟子化霖の開山です。翁は出家の翌年化霖に連れられて万福寺で独湛から年少で才幹に富んでいると誉められたそうです。その後、少年月海は、禅僧として激しい修行に励みました。22歳の時胃を患ったが治らないのは修行が足りないためだとして、病が治らないのに雲水に身を託し修行の旅に出ました。仙台の月耕和尚や近江の湛道和尚など各地の名僧などに学び、後、佐賀の雷山で断食苦行などして龍津寺に帰りました。こうして龍津寺で14年化霖に仕えましたが、その間禅僧としての修行だけでなく広く学問に力を入れ、禅と学問に優れた僧として成長しました。そのころ長崎で中国人の煎茶趣味を知りこれも習得し、茶の湯も習得したようです。 化霖の死後、弟弟子の大潮を呼び寺を譲り、京都に上り、念願の売茶の道に入りました。その時56歳でした。 当時、京都では、売茶や煎茶も流行し始めていましたが、翁は東福寺近くの道の傍らや相国寺や三十三間堂の門前などで茶席には「茶代は黄金より半文銭まではくれしだい、ただのみも勝手、ただよりは負け申さず」と書いたといいます。 翁の名利に頓着しない性分がこの中にあらわれています。 当時の僧が権門に出入りし僧の地位を求め、お布施を求める姿に反発し功名や富貴を度外視して、茶を売って飢えを防げばよいとして、春は花、秋は紅葉を求め、茶道具を担って客を待ち、すばらしい話をする姿に文人墨客も集まり、その名は遠く広がり、おう茶を受けねば、文化人といわれぬというくらい評判になりました。 後に京都の岡崎で茶道具を焼いて門を閉じ89歳で亡くなりました。 人々は煎茶の祖として尊敬し、宇治の黄檗宗本山万福寺に売茶堂が建てられ、翁の木像がまつってあり、龍津寺跡に煎茶の森本氏や檀徒の中島氏などにより売茶翁顕彰の碑が建てられています。
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牛島の内吉原
下新村大井手の南に四方堀で囲まれた地を内吉原という。旧藩時代罪人の処刑場があった所で、後佐賀監獄墓地となったが大正12年廃された。