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[旧佐賀市][兵庫校区]は88件登録されています。
旧佐賀市 兵庫校区
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忠魂碑
日清戦争以後、護国の華と散った本町出身の将兵の忠魂を祀ったもので、昭和8年4月起工し11月落成式とともに厳粛な招魂祭が挙行された。総工費2.000円で、忠魂碑の文字は本県出身、真崎甚三郎大将の揮毫である。その後毎年4月1日を祭日としたが、昭和22年2月、村会の決議によって忠魂碑も奉安殿と同時にとり壊された。 その後再建されたが、町民の自発的意志によって、毎秋慰霊祭を挙行している。忠魂碑合祀の霊位は215柱である。
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萩原玄太郎君表彰碑
昭和9年、上野中熊野大権現社境内に建立された。東京在住の法学博士、弁護士萩原玄太郎は、郷土愛に燃え出生地を思い報恩感謝の念を忘れず、田地2反3畝余、住宅土蔵つき一棟、屋敷8畝を寄贈した。さらに熊野権現社の造営には金1.500円を寄進したので、その徳を表彰して記念碑を建てた。
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納富嘉一翁夫婦の表彰碑
翁の令息納富重雄、野口松一兄弟は共に最高学府を卒業して社会的に重要な地位に就き、その功績も顕著であったが、故郷を忘れず、伝来の家、屋敷のすべてを出生地である野中分草原地区に贈った。また田地を寄付して、青年会場を新築し、観音堂を建立するなど大いに郷里の福利増進に寄与した。地区住民は感激して記念碑を建て、納富家の繁栄を祈ると共に永くその徳を伝えることにした。
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出征記念碑
日露、日独戦争などに出征した方々の勲功を永久に伝えるため、大正4年御大典記念事業の一つとして、藤木地区住民によって建設された。天満宮祭と同時に、地区住民は懇ろに招魂祭を執行している。
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岡太郎君の表彰碑
地区の公共費用に使用するようにと、所有田地の一部を寄贈された。その芳志を永く伝えるため、昭和9年4月建立された。 堀立の東部、県道柴野線側にあったが、平成8年3月圃場整備事業のため新県道予定地岡達也氏敷地へ移転させる。
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焼原川堰竣工記念碑
焼原川は本町東部を南北に流れる川で、その水量の増減は東部諸地区農民には死活の問題である。 伊賀屋壮年組はかねての基金を提供すると共に、関係地主の寄付を集め、焼原橋付近にコンクリート堰を築造し、用排水の調節を計ることにした。大正13年3月竣工したので、これを記念して碑を建てた。
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竹下以善君の表彰碑
東渕、渕頭の橋のほとりに立っている壮大な記念碑がある。表面の大文字は故内務大臣、大浦兼武の揮毫で、裏面の表彰文は当時の佐賀県知事、関清英の撰である。 竹下以善は東渕の生まれで、明治9年以来30有余年間、公共事業に誠を尽くし、学校の設立、道路の改修などに率先尽力した。選ばれて県会議員となり、県政に偉大な貢献をした。兵庫村長中野子徳太郎を委員長に久保泉、金立、春日、高木瀬の各村長を建設委員とし、前記各村助役、本村木塚卯七、鶴忠三などを常務委員として、広く有志の寄付を求め、大正5年8月盛大な落成除幕式を挙行した。所要経費は800余円で、石工は金立の桑島鶴松である。
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八田忠一君の表彰碑
昭和4年3月の建立で、八田忠一の信仰者一同によって寄贈された。その碑文によると、八田忠一は明治13年3月15日この地で出生した。性質温良で慈愛心に富み、身なりを飾らず、信仰心が深かった。 20歳の頃から日月星辰を拝んで国恩に報い庶民の安全と幸福を祈願して20数年来1日もこれを怠らなかった。初めて神通力を得て、その後は病人あれば、これを慰め全治の方法を教え、悩み苦しむ者があれば、安心して家業に励むように善導した。その効き目を喜び、その徳を慕って参詣する人も数知れず大権現と尊称した。
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至誠光千住秀作の記念碑
千住秀作氏は靖国道総帥者下田一太郎氏の御訓を受け嗣ぎ昭和6年より信仰の道に入られ仲く御訓の真理を悟りひたすらに信仰のみちに没頭。一時は仕事も忘れ夢中に成られし事もしばしばなり。氏が信仰を始められて数年後医学博士より胃癌と診断を下された事有りたるが氏は顔色一つ変えず自宅にもどり断食坐禅水行とあらゆる難行苦行を重ねてついに薬一服も飲まず斯く難病を克服せられたり。夫れ以後は病気で困った人は誰彼を問わず信仰の真理を訓し御加持を授け病気を全快させその当時は千住病院とまで人にいわれたほどなり。又数年前より整骨手術まで致され専門医より速やかに全快致せり。斯様にして助かりし人実に数えきれず。又氏は全快しても金品の返礼は固く断られすべての欲得を放れ人のため世のため無報酬の御奉仕。氏は病気の全快することを本人よりも悦ばれ全く凡夫を捨てられし姿こそ正しく生神と神子一同始め氏の御訓を受けし者等しく崇め奉る所以なり。又氏は総て神通力に依り神霊の言葉ほとばしり信仰の誠を説訓されるときは我々神子も不思議さ神の慈悲の有り難さに感涙する事しばしばなり。此所に至り氏の業績を顕すために神子一同総意の本に記念碑を建立して氏の功績を永久に賛へ奉る者也。 以上は氏の功績のほんの一部にすぎない。 しらぎくのみおしえさがすしせいこう。 敬白謹書 碑文 至誠光千住秀作の記念碑 昭和三十五年三月二十一日建之 佐賀先輩者神子一同 発起人 西 亀太郎
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道祖神樋門跡
平成元年からの兵庫南部土地改良区の圃場整備で70有余年の歴史の役目が終了、水田稲作、生活用水、消防水等住民の生活に貢献をして来た。水田耕作については戸板によって水位を上昇させ灌漑の労役が軽減された。その貢献を感謝し跡地を写真のように整備して残している。堀も大きく昔は10月頃の水落の頃には鳥栖方面より列車を利用してフナ釣りの人々が早朝より見えていた。 圃場整備後は道祖神樋門の西200mの所に県営水路が出来、制水門が堅固に造られている。佐賀平野の低平地では100年周期で治水工事が行われているという大学の先生の話を聞いた事があるがどうも実際に道祖神樋門は的中しているのではと考えられる。
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分水地
伊賀屋、堀立、巨勢方面への水の配分が公平になされている。 巨勢川の地下を西から東に向ってこの所に湧き出している。 現在は柵で囲ってあり整備されているが昔は目に付きにくかった。
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巨勢川用水取り入れ樋門
藪の奥が昔の取水口、洪水の時はここが非常に危険だった。 稲作作業の前、公役で川に堰を作り取り入れ口に水を誘導していた。 現在は新しい取水門が作られている。また川の南の方に頑健な制水門も作られ公役の労は不必要となっている。 水門奥には広場があり今は公園のようになっている。昔は樋門等の工事関係者の名前を刻した石柱が立っていた。
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百姓日記
田中仁吾氏が記録した、昭和20年1月1日から8月15日までの日記(米作農家の側からみた敗戦の年の記録−佐賀県兵庫村(現佐賀市)の場合)が、『戦争中の暮しの記録保存版(本文印刷所)』P220〜249に紹介されている。
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お地蔵さん
下分の経島寺に預けられていたお地蔵さんを、3体リヤカーに乗せて中牟田の方に連れて来て、廻りもちでお祀りを行ってきた。
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地蔵菩薩堂
地蔵尊の蓮台だけを残して堀の中に放置の状態だったお地蔵さんを当時の区長さんの八田繁氏の発起で引き揚げられた。お地蔵さんは地域の方々の浄財とご協力で昭和60年10月10日地蔵堂落成。朝夕香を焚く煙の絶えることなく安らぎの日々を見守って貰いました。その後若宮公民館が平成15年4月13日新築落成に伴い地蔵堂も敷地内に移転しました。(平成16年12月15日) 供花は毎日当番制で美しくバンコもあって癒しの場所となっている。 8月24日の地蔵盆の宵は班長さん達の心のこもる煮豆や季節の野菜を持ち寄ってのおもてなしに大人も子ども達も楽しい夏の夜の思い出です。 春と秋の両彼岸には地区の方の寄附による紺染めの幕を張り献燈吊しお遍路さんの接待があります。 信者の方々からのお供えや、手作りの接待料理でおもてなしにお彼岸会もご詠歌流れこころ穏しく和むひと時となります。
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お宮(6か所)
東渕地区にはお宮が6か所もある。 空閑天満宮、牟田口天満宮、庚申社、養父社、熊野稲荷神社、明護院とそれぞれに氏子がいて、現在もお祭りの時にはそれぞれのしきたりで神事が行われている。わずか70戸余りの地区に6か所もお宮が祀ってあるというのはどういう理由からだろうか。
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民謡
○ 姉と妹とそろいの浴衣、どちが姉やら妹やら。 ○ お前百まで、わしゃ九十九まで、ともに白髪の生えるまで。 ○ 歌いなされや、お歌いなされ、歌で御器量はさがりゃせぬ。 ○ 今年や豊年、穂に穂が咲いて、道の小草も米がなる。
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子守り唄
○ この子ようなく人目に悪い、たたくつねると思われる。 ○ 旦那よう聞け 奥様ようきけ、守にくけりゃ 子にあたる。 ○ 守のつらいのは 日暮れと朝じゃ またもつらいのは雨降りじゃ。 ○ 守は憎いとて 破れ傘させりゃ かわいわが子は雨ざらし。
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手まりうた
1かけ2かけて3をかけ、4かけて5かけて6をかけ、7のらんかん腰をかけ、はるか向こうをながむれば、17、8の姉さんが、花と線香手に持ちて、モシモシ姉さんどこへ行く、私は九州鹿児島の、西郷の娘でござります。明治10年3月に切腹なされた父上に、お墓詣りをいたします。お墓の前に手を合せ、南無阿弥陀仏と拝んだら、お墓の前の魂が、フワリフワリとじゃんけんぽい、蛇の目が芽をだして、つぼんでひらいて、エッサッサー。
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俚諺
○万の蔵よりゃ子が宝。 ○三つ子の魂百まで。 ○葬式帰りの医者せんぎ。 ○円い卵も切りようで四角。 ○神に詣る夢は不吉 ○一文惜しみの百ざらい。 ○女やもめに花が咲き、男やもめに蛆がわく。 ○腹八合に医者いらず。 ○坊主憎けりゃ 袈裟まで憎い。 ○苦しい時の神だのみ。 ○出物はれ物所きらわず。 ○夏の夕やけ河越えするな。 ○遠い親類より近い他人。 ○亀の甲より年の功。
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佐賀の稲作に就いて
昭和天皇陛下県下御巡幸の際、牟田熊吉氏が佐賀市楊柳亭において佐賀県民代表として15分間、「佐賀の稲作に就いて」と題して御進講申し上げ、その節御下賜の煙草1個を拝受する。 【牟田熊吉略歴】 昭和27年10月〜31年10月 兵庫村教育委員 昭和35年6月〜44年5月 兵庫村農業協同組合長 昭和38年6月〜44年5月 佐賀青果市場社長 昭和50年11月11日 県功労者表彰 佐賀県知事池田直
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村祭り
祭田が各地区にありましたのでそれを耕作して祭りを行っていた。 本通さんと寄通さんと二人で行っていた。寄通さんは来年祭りを行う人のこと。 中牟田内の8軒で代わる代わる行っていた。 朝お赤飯と塩魚類を焼いて白菜の漬物やごま和え等、夜はうどんと大根煮とちくわを乗せて行われた。祭田は現在はありませんが祭りは今も続けられているところもある。
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村まつり
12月15日 朝はおこわと塩イワシの焼いたもの、弁当の必要な人は各自持参した弁当箱におこわをギュウギュウに詰め、その上に塩イワシが1尾のっていた。堅くて量も多く食べきれなくて半分以上は持ち帰っていた。夜はうどんで家族みんなが参加していた。
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ひゃあらんさん
子ども達が小学校までは自転車で弁当を持って、むらじゅうで川副町南里の八幡神社の方へお参りに行っていましたが、現在ではそれもなくなっている。
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兵庫町排水対策委員会沿革
町代表有志73名 町内の各河川や堀が逐次その排水機能が不円滑なため農業経営上支障箇所の増大に伴い、最も下流地域の用排水に困難を極め、更にこれが原因は町の下流排水路に問題があるため町の内外を問わず改善に努力し、関係機関と協議して水利行政の徹底と改善の促進が必要であったため設立された。
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老松神社の祇園まつり
8月1日の祇園まつりはお宮の境内から参道は両側にお店が並び、人、人、人でにぎわっていた。特にカキ氷は繁盛していた。
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老松神社のおこもい
施主さんは、酒の肴を1品ずつ持ち寄り車座になって酌み交わし、他の家族は重箱に詰めたご馳走をそれぞれ開き、お宮のお堂で食べた。食べ終えた子ども達は境内で遊びに夢中だった。
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生活改善運動
兵庫町の公民館での結婚式。料理の品数も決っていて公民館の調理室で親類や近所の人の手伝いを受けて進められていた。 公民館長から祝辞もあり。
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お供日
12月1日 「フナんこぐい(フナの昆布巻き)」、大根葉、大根、里いも、れんこんなど味噌ダレで二晩ぐらいかけて大鍋で炊く。 親類などとの交流も年中行事の一つだった。
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堀干し
現在は堀干しがありませんが、昔は2日間かけて行われていました。 堀干しで獲れた大きなフナは「かけ合い」とか「昆布巻き」にして、小さなフナは焼いてかまどの上に1年中干してありました。 それを豆腐や色々な野菜を煮る時出して食べていた様です。小さい魚は煎って醤油をかけて酒の肴にしていた様です。 現在では堀が少なくなって来てこんな光景は見られなくなって来ました。