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[旧佐賀市][北川副校区]は65件登録されています。
旧佐賀市 北川副校区
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西宮社
【祭神】蛭子尊、大己貴尊、事代主尊 人皇第78代二条院の御代、信濃の国伊那郡の武士で、本田大和守昭雲という者が、保元、平治の乱に亡命して、肥前の国杵島郡山口の里に来て仮りの住居を構えたが、かねて崇敬する摂津の国の西の宮の霊を夢に見て、神意に従い佐賀郡川副の荘角町治部という者の邸宅をたずね、承安2年(1172)神社を建て、同年9月1日、西の宮大明神を祀って、天下泰平、国家安全を祈願した。 後になって、龍造寺家門が深く敬い、神田などを寄進した。鍋島家が領主となって、いよいよ敬い、慶長9年(1604)、社殿を改築して、規模を拡大し、寛文2年(1662)10月26日社領として、23町8畝の地米2,882石を寄進した。 このように領主を始め村民の崇敬を集めたが、明治6年村社に列せられ、大正13年10月、さらに郷社に昇格して、今日に至っている。
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日枝神社
【祭神】 祭神は、大山咋神、八王子神、大物主神、岡象女神、武甕槌神、菅原道真 桓武天皇の御代、延暦23年(804)伝教大師(最澄、天台宗開祖)求法の勅願をこうむり、朝廷から還学生という身分を与えられ、遣唐使と共に、遣唐船に乗って中国に向かって船出されたが、途中嵐に会って波浪に押し流され、一つの島にたどりつかれた。あたりを見回わされたとき、この島は諸木が繁茂し、広い土地で、まさしく五穀豊穣の霊地であると感賞され、帰朝の折ここに船を留め、民家を建てられた。ここにおいて、当国万歳・諸難救済・国土安楽の守護神として仰ぎ奉らんと、大師は、比叡山(本山延暦寺)にあって、薫香の1本をもって、自ら山王の神像と八王子の神像を刻んで木原武藤の津に安置し、江上福満寺鎮護の神として敬われたのが、日枝神社の源で、大同元年(806)であった。 その後、戦乱のため社殿が焼失したが、龍造寺剛忠公により社殿が再建され、隆信公のご母堂が深く信仰され、その後も修復が続けられた。 慶長年間(1596~1615)、鍋島直茂公(日峯様)勝茂公(初代藩主)が柳川攻めの折、当社に戦勝の祈願をこめられ、帰陣後直ぐに社殿、神門などを新しく造営され、1反余御免地、御紋付、幕、提灯(ちょうちん)などを寄進され、その後も藩主の尊敬あつく、修復時には、時を移さず修造された。 明治6年2月村社となり、明治45年1月、国から神饌(せん)幣帛料供進の指定を受けた。その後、氏子の各地区の無格社、石仏、道祖神などが、境内に合祀されている。 祭りは、儀祭2月24日、春祭4月15日、夏祭7月15日、秋祭11月23日の4回行なわれ、大御田祭が申歳に、4月15日を中心に13日間の大祭として行なわれている。 境内の西南の角に、脱腸の神様(ガランサン)と熱の神様が祀られていて、昔から参詣(さんけい)者が多く霊験あらたかな神として評判が高かった。今の台座は、全快のお礼に奉献されたものである。 その他、石造文化財として、天満宮石祠、天照大神宮、アク大神宮及び延享2年(1745)寄進の常夜燈など多く存在している。 このほか、古くから続けられているおかゆ開きの行事がある。節分の日に、おかゆを炊いて神前に供え、2月15日に下げて、かゆに生えたカビのつき具合で、米の豊凶、天候災害、火災、怪我、病気の流行などが占なわれて、参詣者も多い。
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八坂神社
【祭神】素盞嗚尊 後宇多天皇、弘安4年(1281)の勧請(かんじょう)である。その後、寛永19年(1642)、藩主鍋島勝茂が社殿を造営し、時々、与賀、川副両郷のため、五穀豊穣、悪役転除の祈願を行った。 明治6年1月、村社に列せられ、大正元年11月26日、神饌幣帛料供進の指定を受けた。 同じ境内に、粟島神社がある。女性の守護神、病気平癒、商売繁昌の神として、全国に聞えている。施薬の神「大黒天」及び諸病、諸難を救い給う「少彦名命」を祭神とし、俗に「粟島大明神」として、広く信仰を集めている。 約1,300年前、人皇20代孝徳天皇の世、大財村にいた役行者(えんのぎょうじゃ)が金剛山に参籠して、「大黒天」を感得し、霊像を刻んで、ここに祀った。また、霊夢によって、「少彦名命神住吉宮」を勧請し、これを合祀して、船乗りの守護神として、敬われた。 足利の戦いのとき、戦火で焼失したが、鍋島勝茂が、八田津の祇園宮(八坂神社)の側に造営されて今日に至った。最近では女性の参拝者が少なくなかったが、毎年母子連では、粟島社を招いて、針供養を行なっている。 なお、勝茂公夫人から奉納された雛人形が保存されている。 外に、鍋島町東新庄の埋立地にあった猿田彦の大神など30柱が、境内に合祀されている。すぐ近くの公民分館の横に、「イボ地蔵」が祀られており、イボ取りに、大豆を年の数だけ上げて、祈った後地中に埋めておくと、豆が腐ってなくなるときには、イボが治ると言うので、参詣する子ども達がある。
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福満寺
【名称(山号)】護国長尾山福満密寺 【宗派】真言宗御室派 延暦23年(804)、伝教大師入唐に際して発願した寺と言われ、初め天台宗であったが、後に、真言宗御室派に属した。名前の由来は、長尾の鳥が、「福、福」と鳴いたことにちなんで付けられたと言う。 ご本尊は、最澄(伝教大師)が、沈香木をもって、薬師如来の木像を刻んで安置されたもので、日本七薬師像の1体であるが残念ながら火災にあって、重要文化財の指定がなされていない。 昔から、崇敬厚く、高倉院、亀山上皇、正親町院の勅願所となり、鎌倉時代になって、源頼朝、足利尊氏の当国における祈願所になり、北条時政の伽藍再興、足利直冬の山門建立、金堂補修が行なわれたが、その後、火災にあい、龍造寺、鍋島が共に再建して、寺領を与え、尊崇した。 この寺に伝わる室町末期から安土桃山期の作と推察される「紙本著色福満寺古図」には、足利直冬による補修後の七堂伽藍の配置が描かれ、境内8町1反歩、寺領計400町歩、坊官22人などの記載がある。 その境内は、東北の入口は、犬尾の疣地蔵、東は増田、南は川副町中古賀の「ヒャーランサン」、西は、南佐賀の古賀橋(ガランサンがあった所)、北西は、枝吉のバス停の所(以前、地蔵様が祀られていた)と、その広さが想像される。 毎年5月7日から15日まで、お経会(きょうえ)が行なわれ、県下から多くの参拝客が参詣に集まり、道端には出店が並んで、非常に賑やかであった。 後に、川上の実相院で始まったお経会に、参拝者が移ったりして、戦後は、昔ほどの賑合いはなく、日時も今は5月1日から5日までに変更されている。正月には、大般若さんが、第2日に行なわれている。お経会は、三界万霊の供養と参詣者の仏縁、塔婆供養も行なわれる。
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大日如来像(福満寺)
大日如来は、真言宗にとって大事な佛である。 世間の闇を広く照らし、すべてのものを生かして育て覚りに導くものである。そのために、真言宗に改宗された年代・寛文7年(1667)に建立された石佛である。
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経塔(福満寺)
真言宗に改宗された後、毎年行われる三千佛名経会に参詣された人が奉納されたものや、現在は主に塔婆や過去帳を最終日である5月5日 にこの経塔に納めている。
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大応寺
北条時頼が西国廻国の時熊本より有明海を渡り、肥前の国に来られた。その時たまたま大風にあって、航海に非常に難儀され、海底に潜らせて石を8個拾って、八代竜王として祀られたところ、波もおだやかになり、無事に渡ることができ、海岸にあがって、その中の4個を持参し、八田江のほとりのこの地に祀って寺を起こされた。 これが現在の大応寺の発祥である。 現在もこの4個の石は観音堂に祀ってある。開基は、弁重大徳、これが時頼公と思われる。 開山は月峰和尚大禅師。 時頼公入寺以来、民心は安定し、益々寺院は繁栄し、広大な地域に七堂伽藍が完備されてその威厳は荘厳だったという。領地約50町歩、他に三養基郡に3か所、神埼郡に2か所、大牟田市付近に2か所、以上の広い寺領地を所有していた。 本尊は時頼公を祭主とし、愛宕山の勝軍菩薩(秘物)で蓮華座に坐る1尺3寸の仏像が祀られている。その後時代の変遷と共に、寺院は衰微の一途をたどり、今日では伽藍の一部を残すのみとなる。 この様に700年の長きにわたる由緒ある、大応寺であり、江上の福満寺と共に旧き歴史をひもとき、北川副町の誇りのためにも、檀信徒の皆様の、仏恩報謝と祖先に対する報恩感謝の無限の願いを念ずる思いを認識され、禅宗南禅寺派の寺院の安泰を計られたい。 また境内には、軍国比翼塚と江副次郎、美子二人の墓が建っている。
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江副次郎・美子の墓
大応寺境内には、江副次郎、美子二人の墓が八田江を背にしてひっそりと、寄り添うようにして建っている。 次郎さんは、元本庄の村長で佐賀郡の在郷軍人会長(海軍大佐)であった江副九郎さんの二男で早稲田大学高等学院卒業後、昭和11年4月入隊、その後中支江南の流洞橋の激戦に参加し惜しくも戦死をとげられた。 美子さんは井上作次郎さんの三女で、次郎さんとは従妹であり婚約をしていた仲であった。昭和13年4月13日に次郎さんの戦死を知った美子さんは、5通の遺書を残して4月15日に数珠を片手に、後を追って自殺をした。その顔は微笑さえ浮べて美しい死に顔だったそうである。昭和13年6月11日、次郎さんの遺骨が門司港に着き吾が家に無言の凱旋をした時、美子さんの遺骨も、江副家に迎え入れられ、14日村葬が行なわれた後、二人の魂結婚式が挙げられた。 美子さんは「長崎女人」に属する歌人で、遺書と共に8首の辞世の歌が残されて、全国から多くの同情が寄せられた。美子さんの遺作は、栗原荒野先生の紹介で、佐々木信綱博士の推敲のもとに、遺稿集『散りにし魂』が出版された。 美子さんの死は当時戯曲化され、東京の常盤座で上演されて全国的に話題になった。それから50年、今では語る人もなく、忘れ去られている。 「春深む江南の野に魂散りて 君は護国の神となります」 「春の夜は真深く更けてせきあぐる 己がなげきの泣く音きこゆ」 (『肥前おんな風土記、写本荘の歴史』より)
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岩松軒
【名称(山号)】黄梅山岩松軒 【宗派】曹洞宗 【開基】龍造寺隆信の実弟長信(初代多久邑主) 【本尊】聖観世音菩薩 慶長6年(1601)2月、長信64歳のとき、入道して天理元信と改称して聖観世音菩薩をこの本尊として安置した。のちに高伝寺和尚を通じて岩松軒と命名した。 慶誾寺3代文応和尚を招いて開山とし、妙郷1千部の読経を修めさせた。この寺は、長信の領内の水ヶ江の館にあって、境内には、石造の十六羅漢が安置されている。 昭和20年8月の空襲によって焼失したが、再建されて今日に至っている。
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長安寺
【宗派】曹洞宗 【本尊】薬師如来 万治元年(1658)正月、鍋島忠直公の御意志を受けつぎ、光茂公が建立され、開山萬休禅師を請招して、当寺を建立された。それから相継いで今日に至っている。 当寺には、先代より特種な祈とう(ホヤケマジナイ)秘術が受け継がれており、諸方からの参詣者も多く、小児のホヤケマジナイは特に不思議な奇効があると言われている。 境内には、マジナイ堂もあり、先代の知獄和尚は、説法にすぐれて、よく仏法の伝導をされていた。
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弘生院
【宗派】曹洞宗 当寺は、700年来の古刹(こさつ)で、建保元年(1213)、人皇84代順徳天皇の御代、和田義盛が北条義時に亡され、その一族の和田八郎義胤は、身一つで危うく九州に逃れ、その際、十一面観世音菩薩(藤原光長の作)奉持して、この地を選び、真言宗の寺を建て、補陀山弘生院と名付けた。和田家一族の菩薩を弔うため自ら出家して、大観弘生法師と名乗り、大いに観音を信仰し、一般信徒の教導に努めた。 それから500有余年の後、享保8年(1723)、人皇第114代中御門天皇の御代、徳川8代将軍吉宗の時代、佐賀郡春日村、玉林寺第9世勅持賜大龍渭川禅師を当寺の法地開山に請じて曹洞宗に改め、今日に至っている。 その間、第14世祐孫和尚のとき、ほとんど廃寺になろうとしたが、当寺の由来にちなんで33身の観音の霊場を建設するほか法華8巻の1石1字を書いて、妙典法塔を建立し、加えて、幾多の樹木を植栽して、風致を整え、最近水子地蔵菩薩を建立し、多くの信徒の信仰を集めている。 第16世道智師は、大正2年長崎医学専門学校を卒業され、エキリの特効薬を調剤され、評判になって、よく売れていた。また、祐憲師は説法伝導に励まれていた。
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本願寺
【宗派】曹洞宗 【開山】寛永5年(1628)禅宝栄林大和尚 慶長7年(1602)藩士吉田太郎衛門と桂窓妙賀禅定尼(俗名不詳)が建設したといわれ、川副郷七仏薬師如来の一つで楠材の薬師如来が御本尊として祀られている。開基家の子孫は、佐賀市高木瀬町東高木に居住の吉田氏で、本寺は佐賀市本庄町鹿の子27番地の船若山慶誾寺である。 寺号から見て曹洞宗以前は浄土真宗系の寺院ではなかったかとみられている。 ※『佐賀県近世史料第十編第二巻』p93によれば、「開山 慶誾寺四世在室大和尚 寛文五年十一月廿二日」とあり。
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阿弥陀寺
【宗派】浄土宗 【開基・開山】不明 龍造寺家臣による天正時代(1573~1591)以前の開基で、約500年前と思われる。佐賀藩初代藩主勝茂公に追腹殉死した韓国人洪浩然の墓がある。 洪浩然は藩祖直茂公が朝鮮出兵の時、慶尚南道晋州色で筆をかついで逃げる子どもを見つけ、この子はきっと文学の才があるとつれ帰った人物で、勝茂公の学友となり、側近となって800石の重職についた。 勝茂公が江戸で死んだと聞いて、菩提寺の阿弥陀寺で追腹殉死し、異国人ながら立派な葉隠武士として称讃された。昔は今宿川から舟で墓砂を揚げていたという。 東京海城学園(海軍兵学校の前身)の創始者、古賀喜三郎海軍大佐の墓もある。寺内に観音堂があり多数の信者で講会が開かれている。
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光教寺
【名称(山号)】潮信山光教寺 【宗派】真宗本願寺派 【本尊】阿弥陀如来立像 【開基】順智 【開山】天正15年(1587)光山慈観教師 13代光山慈敬教師は、明治26年京都仏教大学を卒業後、本願寺学局に務め、山口県開導教校の総監、また仏教中学校長に任ぜられる。 明治34年高輪大学の教授兼監事、4年後龍谷中学校長に就任され、北陸中学校長に転じ、大正元年福岡教区監事、同3年本願寺財務部長、同6年7月帰郷、大正2年には経蔵を建立されている。14代慈等師は、朝鮮京城の龍谷高等学校教諭、昭和19年佐賀龍谷中学校奉職、学生を可愛がり教導に力をそそがれていた。11代慈善師は勧学であったという。 宝物文化財五劫思惟如来座像、十六羅漢2幅がある。五劫惟とは、長い間思索をこらす事で悟を開かんとする姿である。
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宗専寺
【宗派】浄土真宗本願寺派 【本尊】阿弥陀如来 【創立】不明 親鸞上人を宗祖とするこの寺は、昭和20年8月の空襲で、一部の過去帳、諸記録を焼失したために、創立の年代は明らかでない。 しかし、大坂夏の陣の前年、即ち慶長19年(1614)からの過去帳によると、ほぼ360年以前の建立と考えられる。 第2世玄益のときから、今日の寺号を許されており、第11世貫簾は、18歳で遠く日田の広瀬淡窓の威宜園で学び、当寺を継承してからは、学問のかたわら、立生花を指導して、池坊華道の九州総会頭職として、広く福岡、長崎など、数百の門弟に教えていたと言う。 「逝去の会葬には、千余の会葬を得し」とあり、いかに多くの信徒の崇敬を得ておられたかをうかがい知ることができる。 その子12世貫夫師は、村の奉仕活動家として活躍され、今の幼推園の先がけとも言える託児所を創設され、農繁期中は、農家の子どもを預かって世話をされた。
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光源寺
【名称(山号)】紫金山光源寺 【宗派】浄土真宗本願寺派 【本尊】阿弥陀如来 【開基】浄勝(俗名・前田源左エ門) 【創立年代】天正12年(1584) 昭和20年8月5日の空襲で本尊の阿弥陀如来像と山門だけが残り、外は皆焼失した。門徒過去帳もなく、昭和30年5月に今の本堂、昭和49年、昭和63年に庫裡の新築が終り、今日の姿になった。 ※『佐賀県近世史料第十編第三巻』p133によれば「開山浄勝 俗名前田源左衛門光法、天正二年草創」とあり。
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福満寺内六地蔵群
福満寺境内の本堂左手寄りに、六地蔵の群が安置されている。天文(1532~1554)、天正(1573~1591)の頃の、同一支柱の六地蔵と違い、各々の地蔵をそれぞれ1体として、6体を石彫したもので、寛文年間(1661~1672)の作である。 奉納者は、「施主竹田権右ェ門尉政之夫妻」と明記されている。彫りあとは、まことに稚拙粗野であるが、石仏としては、その表情まさに慈悲の温顔をたくわえ、この地方江戸初期石彫の秀作と言えよう。
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古賀観音堂
【本尊】如意輪観音菩薩 今より150年余り前、佐賀藩政時代に藩主が家臣の武士に賜わったものを、古賀区の武家屋敷であった現在地に小堂宇を建立して安置したのが起源であると伝えられている。 佐賀城東南部に住む武士達は、この観音に帰依するもの多く、即ち心のよりどころを得て、仏徳を喜び、観音講を組織して維持運営に努めた。ところが大正末期の台風で、お堂が倒れたため、御本尊の観音菩薩像を、八田の大応寺に預け数年を経過したが、観音菩薩の熱心な信者の方の夢枕に立たれた観音様が三夜に亘り、元の古賀に帰りたいというおつげがあったということで、それではと地区では昭和6年10月頃より費用を拠出し堂宇を再建し、観音菩薩を大応寺より迎え安置して今日に到っている。今でも地区では宗教法人の組織により運営されていて、地区民の信仰も厚く地区外よりの参詣も多く、広く古賀のお観音さんとして知られている。
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三夜像
三夜とは、(1)三日月、(2)結婚して三日目の夜、(3)誕生して三日目の産養(うぶやしない)を表す意味がある。地域において三夜の行事をする謂れを考えてみると、(1)神様的存在である月の出を待って無病息災・家内安全・五穀豊穣などをお祈りする意味。 また、結婚三日目の夜をお祝いして親しい人や近所の方を家に呼んで酒宴する意味もある。 なお、子どもが生まれたことを祝って酒宴をすることも理解できる。 本当の意味はわからない。ある一説では、毎月23日に親しい人たちによって、月の出るのを待って酒宴を開き、月が出たところでお開きにするのが慣わしのようである。 でも、23日に月(三日月)が出るでしょうか。日にちを定めないで三日月の出るときにされておられたと思いますが、今日の三夜待ちは、日にちを変えるのが面倒だから23日に開かれているのではないだろうか。
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枝吉樋門
佐賀市東部・北部2,400haの穀倉地帯、住宅地域を水害から護るために設けられたもので、佐賀江川・巨勢川との分岐点にある。排水機能を増大させるため、次々に改造している。最初は昭和17年5月。河川法で県が管理、従来の慣行は黙殺された。そばの「八田江改修記念碑」に事業概要が刻まれている。
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枝吉橋
北川副町枝吉と今宿町との間。もと木橋、長さ20m、幅4.6m、ガードレールがある。平成4年樋門との間にコンクリート造りの新橋が完成、今宿側の曲がり角の民家も解体した。旧藩時代、蓮池往還の出入口に当るため番所があった。平成4年末、木橋の枝吉橋は解体された。
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木原橋
今宿町安住市営住宅と北川副町木原団地間の橋。もとは木橋であった。橋北たもとよりサイフォンで江底を送水横断。またこの橋の西南にも多布施川の支流、愛右衛川が東流し、八田江川底をサイフォンで横断、北川副地域の農業用水となる。
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八田橋
東八田(北川副町八田宿)と西八田(本庄町)との間に架した橋。県道上にあるので車往来が頻繁。東北にある「大応寺」は、鎌倉時代の創建といい、北条時頼の廻国伝説がある。時宗を願主として創建した春日(大和町)の高城寺の寺領が南里(西川副)にあり、その東南の米納津は当時、川副荘の中心港だったらしい。
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御船屋敷跡
藩政時代は八田にも佐賀江と同じく、海運が開け賑わいを見せていたと思われる。八田宿周辺は物資の集散と、城下町への人馬の往来も多く、茶店があり、荷揚場があり、舟の出入りを監視する屋敷や武家屋敷等があって今でも御船屋敷跡、荷揚場跡、今村屋敷跡が残り、昔の面影を物語ってくれる。
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佐賀馬鉄
明治37年2月28日に、佐賀馬鉄が創立されている。10月20日に、初めて片田江から諸富間に馬鉄が走り出し、翌年には、佐賀駅まで延長された。最初は、大崎の吉原病院付近に会社が設立され、12人乗りの客車十数台と挽馬20頭が用意された。 諸富から明治橋の間を10区に分け、1区の乗車賃は、1銭5厘であった。 佐賀駅から諸富まで2里20丁(約8.2km)を、約1時間かかって往復した。 資材は、東京馬鉄が電車と入れ替えたものを譲り受けたので、車輪が擦れてよく脱線し、その上子ども達が線路に石をのせたりしていたずらをしていた。 現在は、吉原病院の所に、佐賀馬鉄の記念碑が建てられている。
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国鉄佐賀線跡
昭和の初め頃は、諸富から佐賀市までの道 (国道208号線通称諸富国道) は、舗装がされていないため、石がゴロゴロした道路であった。 馬鉄も昭和3年までは開通していたが、人が歩くだけの道となり、トラック・乗用車はまれに通り、馬車、車力とリヤカーが走っていた。 歩くことが中心であった頃に、鉄道が走ることになったのは大きな変化で、国鉄佐賀線は、昭和4年3月に着工し、10年5月25日に開通した。建設のために、大木遠吉鉄道大臣(大木喬任の第3子)の尽力があったそうだ。 国鉄佐賀線は、佐賀駅からの駅は、東佐賀、南佐賀、光法、諸富、若津、大川、柳川、三橋、百丁、終点は瀬高駅であり、これらの駅から集団就職、戦争出征等でも利用された。(北川副町内には南佐賀駅と光法駅があった) 車両は最初はガソリンカーであった。 昭和62年3月27日に廃線となり、今は桜並木の自転車道と筑後川昇開橋と佐賀線しのぶ橋が残っているだけであるが、当時、南佐賀駅から光法駅まで植樹した桜は、今や見事な桜のトンネルを作っている。県外からの見物も多く絶賛の評価を受けている。
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大般若経と納経箱
福満寺には、現在大般若経600巻が保管され、欠筆、欠巻の部分は、補巻されている。 福満密寺の年譜によると、貞和6年(1350)庚寅、冬十月将軍尊氏公有先年心願在、奉納大般若経一部其文曰 尊氏前有姿心願 所願既得満足故 以大般若経一部奉納薬師之金堂者也仍如件とある。 従って、現存する大般若のどの部分が、この年譜記の薬師金堂に当るか、後に再納したものか明らかでない。ただ第1巻は、当初のままと推定されるようでもある。最後の600巻になると「欠筆のため補」としたためてあり、元和2年(1616)丙辰春、河上山菩提見住、増元の奥附書がある。 大般若経当初は、尊氏の発願の意を体し、写経料を下附されて写経したものであろう。 現在、大般若経600巻は、古めかしい箱に納められているが、その箱の蓋裏には、かろうじて判読できる、経箱を整備した当時の記録があることは、この600巻の由緒を裏書するものである。 肥前国佐賀郡河副庄江上村長尾山福満寺 当住持 法師朝意此経求所也 奉寄進大般若経箱 意趣者為六願体 武運長久父子孫繁昌 息災延命 諸願円満処 慶長十五年庚戊卯月吉祥日 犬塚惣衛尉氏女 とある。頭書に、当山の住持法師朝意が、この経を求るところ……とあるのは、当初一部が納経されていたものを補ったことを意味するものであろう。補巻が、元和2年(1616)であるので、この経箱が寄進された後に欠巻しているのを、慶長15年(1610)に発見して、写経したものである。
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伊勢神宮参詣
伊勢神宮は皇室の祖神として祀られ、一般の者は近寄れなかった。江戸時代になり、一般の参詣(さんけい)が出来るようになるや、一生に一度は伊勢神宮に参詣するものという事が全国的に広まり、各地域で伊勢講(お伊勢参りの積立金)が始まり、毎年何名かが交代で参るようになった。 農閑期になると村中の者がその年の講元の家に集まり、参詣する者を地区の社で道中の安穏を祈念して皆で見送った。参詣に旅立った家に居る時と同様に膳をすえ(蔭膳)で無事の帰りを待った。 帰る日には村人は揃って出向えた。そして参詣者は出向えの皆様に御礼をいって、御土産を配るのが慣例になっていて、その夜は、道中の話やらで賑やかな酒盛で夜を明していた。
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英彦山(ひこさん)詣
英彦山は福岡県と大分県の境にあって国定公園に指定されている標高1,200mの山で、古くから山伏の修験道場として知られていた。 山嶽宗教が華やかな頃は、3,800余の坊堂が建てられ、多くの僧兵を擁して勢力を振っていたが、明治に入り神仏の分離に合い、その勢も衰えたが、大正時代になっても、その山嶽宗教はそのまま残り、九州一円に檀家を持って年に1度、檀家坊から檀家の祈祷に参り、よく家にも宿をとられて親達がもてなしていた。そして檀家でも話合って3、4人で連立って参詣(さんけい)に行き檀家坊に宿を取り接待を受けて帰って来ていたが、何時の頃からかそれもなくなり、今では観光での参詣になってしまった。
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金立神社参り
金立山にあるお宮で祭神は保食神(うけもちのかみ)、徐福神等が祀られている。有明海の干拓が進み、農作の神として尊敬され、鍋島家の雨乞い祈願も行なわれたため、雨の神様として、佐賀の農家では、田植が終るとほとんどの村が、地区毎に参詣(さんけい)をして境内でおこもり(酒盛)をして1日楽しく過した。一種の農村のレクレーション行事でもあった。灌漑が機械化して来たり、戦後の神離れ傾向で今では、集団参拝は廃れてしまった。