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[旧佐賀市][神野校区]は49件登録されています。
旧佐賀市 神野校区
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釈迦三尊像
釈迦三尊像 宗仁作 三躯 【作 者】大仏師宗仁(林長右衛門尉国次) 【各像高】(釈迦)37.6㎝ (文殊)47.0㎝ (普賢)46.5㎝ 【制作年】江戸時代 承応4年(1655)3月 【由 来】 宗智寺は佐賀藩の藩祖とされる鍋島直茂を開基とする曹洞宗の寺院。 この仏像と同様の釈迦三尊像が鍋島家菩提寺の高伝寺にあり、毎年4月の一時期のみ開帳される 秘仏となっている。ともに初代藩主の勝茂の依頼により承応4年(1655)に京の大仏師宗仁(林長右衛門尉国次)が制作したものであることが銘文などから知られる。高伝寺の仏像は赤栴檀(あかせんだん)でつくられることに対して、宗智寺のは榧(かや)でつくられていてやや小さく、試し彫りとの伝承がある。 両像とも父直茂と母の菩提を弔うためにつくられたもので、制作の前年が直茂の37回忌にあた るので、そのことが契機になったと推測される。 宗仁は鎌倉時代の名匠運慶の子孫を自称している。将軍家ゆかりの上野寛永寺護国院や伊達氏ゆかりの仙台の輸王寺に作品が残っていて、有力な仏師であったことがわかる。宗仁は勝茂の位牌も作っているが、二匹の龍をあしらい七宝金具を用いた特大の立派なものである。 白檀などの香り高く、木肌のきれいな木材に精密な彫刻を施した仏像をとくに檀像というが、この仏像もその一種で、本体と台座、光背すべてに榧を用いていて美しく、今でもかすかに甘い芳香を漂わせている。 細部にまで細やかに彫刻した入念の作で、江戸時代彫刻の中でも抜きんでた出来栄えである。
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掘江神社
神野大明神ともいう。 【祭神】 祭神は、景行天皇・神功皇后が主祭神で、他に後宇多帝が蒙古退治を祈願されたとき勧受請された風浪権現(住吉三神)などもあわせまつってある。社伝によれば、景行天皇の皇子小碓尊(おうすのみこと後に日本武尊)が熊襲征伐の時、肥前小津の入江にご碇泊、新たに小江を掘った所に竜造船をつなぎ、その中で熊襲征伐の軍議をはかり、この小江を掘ったところに神社を祀り、「神野の掘江大明神」と称えたという。現在の社殿は明治26年9月に改修とある。 祭礼日 3月14日 祈年祭 7月15日 夏祭大祓い 11月3日 秋季例大祭 供日 12月14日 新嘗祭 【神社の形式】 鳥居をくぐると石橋、石橋を渡ると門、その先に拝殿・神殿(本殿)と直線上に並んでいる。 この神社の配置形式は、与賀神社、本庄神社、八幡神社、蛎久天満宮等、各地に散見され、発生の時期は明確ではないが、江戸時代初頭における県内の神社配置様式と考えられる。 【思い出】 『神野小学校百周年記念誌』によれば、当時、掘江神社の参道には松並木があった。掘江神社の古い写真を見ると、本殿の右側(東側)に1本大きい松が見えるが、松並木の松は、このような大きい松であった。 今の参道入口の鳥居は、もとは現在地より少し北にあった。学校の前の道ができ上がったのは大正14年(1925)であるが、その前はどうなっていたかというと、長堀橋を渡って、田中化粧品店の前から店の北側へ通ずる細い狭い道があるが、これが浮留江橋へまっすぐにのびており、その道の南側はたんぼで、北側が今のように運動場であった。今の広い道が、長堀橋から浮留江橋へできたので、古い道と新しい道との間も運動場になった。鳥居は、参道と田中化粧品店北側の狭い道との交差点のすぐ北あたりにあった。
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鏑流神社
三溝の氏神様であり、また守護神様でもある。鏑流さん、または藪神様と呼ばれている。文武両道、五穀豊穣の神といわれ、掘江神社に合祀されていたこともあるという。お祭は8月7日。鳥居には「鏑流社」とあり、「寛政9年(1797)11月宮司覚明坊建立」と彫られている。社の所在地は元神屋敷といい、3回移転されて現在地に鎮座され、明治維新前は山伏の祈祷所、祈願所であったという。また、地領主の勧請の神社でもあったらしい。掘江神社の松中宮司によると、祭神は流鏑馬の神とのこと。鏑流神社の「鏑流」は、流鏑(馬)ともいうが、その逆字流鏑馬がなまったとか。ご神体は、腐蝕しかかった神馬上に跨り、矢を持ち巻狩のいでたちのような勇壮な姿をしている。流鏑馬とは、騎射の一種で、馬上でやつぎばやに射る練習として馳せながら鏑矢で的を射る射技。笠懸、犬追物の姉妹競技で、平安末期から鎌倉時代に武士の間に盛んに行われた。 佐賀県内の神社で今流鏑馬行事が行われているのは、稲佐神社、武雄神社、黒髪神社の3社ということであるが、三溝に伝説であっても流鏑馬につながる鏑流神社があることは、郷土の誇りである。
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宗智寺
【名 称】日峰山 宗智寺 【宗 派】曹洞宗 【ご本山】永平寺 総持寺 【本 寺】山口県 瑠璃光寺 【御開山(初代住職)】不徹桂文大和尚 【開基(お寺を建立された方)】鍋島直茂公 (戒名)高伝寺殿日峯宗智大居士 【開 創】元和4年(1618) 【由 来】 鍋島直茂(藩祖)は、慶長15年(1610)、73歳で家督を嫡子勝茂(初代藩主)にゆずり多布施の館に隠居した。隠居中には自然石の墓標(現高伝寺)を建て、元和4年6月3日、81歳で亡くなった。 遺骨は、直茂の遺言でこの地に葬られた。これは、「もし乱世になって、他国より佐賀へ敵が押し寄せてくる時、北への守りがとくに大切である。自分がここに埋まっていれば、家中の者はこの地を敵の馬の蹄に懸けまいと奮戦し、城下に敵を入れることはなく持ち堪えられる」との賢慮があってのことだと伝えられている。 元和4年8月に藩主勝茂は、藩祖直茂の菩提のために寺を建立し、直茂の戒名「日峯宗智大居士」をとって山号を日峰山、寺号を宗智寺とした。
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大興寺
黄檗宗 瑞龍山 大興寺 【開創】 天和3年(1683)本寺の前身、神埼の朝日山安国寺末の即宗庵を再興許可、3年後の貞享2年(1685)3月に諫早家4代茂真の室鍋島山城直弘女、伊勢菊[天保2年(1645.5.3)〜元禄9年(1696.7.11)戒名・霊光院殿聴松実操大姉]が勧請開山となる桂巌明幢(けいがんみょうとう)禅師に帰依して開基となり、元禄14年(1701)6月に当時の寺社奉行、小城の臨済宗三間山円通寺の直触となり、元禄16年(1703)9月に同寺末の廃寺大興寺の寺号を取り、「大興寺」と改名された、と済家宗由緒などに記述されている。 【沿革】 諫早家の往来が盛んだった江戸時代には、「七間四面の本堂、四間に四間の禅堂(雲水の修行道場、坐禅堂)、庫裡、鐘堂、鼓堂、楼門など、伽藍完備し、寺門頗る繁栄したもの」との記述が残る。が、明治維新後諫早家は撤退、急速に寺は衰退し、明治14年には本堂が売却される事態、加えて台風等の自然災害も重なり、一旦は住職も途絶えてしまう。 明治末に寺領復活、先年までの景観を保った庫裡本堂等が整えられた。昭和40年頃の区画整理時までは、鳥居式石門(山門)は現在地より約3m南にあり、参道は桜並木で、花見の季節には店がならぶ賑わいがあったという。 平成18年2月13日未明の失火により本堂、方丈が消失。多くの寺宝まで瞬時に失い、再度、再興の機縁に遇う。新本堂は平成21年度に竣工、再建された。 【石門の様式】 大興寺の門柱式の石門は、旧肥前国内に限って集中してみられる。江戸時代に流行した禅宗の一派である黄檗宗とともに広がった中国趣味をよく反映していて、他には、霊源院(長崎市)、性空寺(諫早市)、普明寺(鹿島市)などがある。 大興寺の石門には、天保6年(1835)の刻銘があり、これら石門の門柱式の形式も垂直性の強い中国的造形と考えられる。
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諫早家墓所
現在の墓所は一ヶ所に累代の墓標だけを合葬する形でまとめてあるが、珍しい「弥勒四十九院様式」の建て方を残してある。弥勒四十九院とは、弥勒菩薩が住む浄土、すなわち兜率天の内院四十九院のことで、墓標の周りを囲っている石柱に塔婆のように一本一本に四十九院の院名が彫ってある。
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御霊屋前の羅漢さん
諫早家墓所に安置されている四躰の羅漢さん(※)。正法護持のため請われた修行者で、尊敬を受け供養を受けるにふさわしい聖者の意味があり、その姿を釈迦如来の眷族、弟子として表現されている。 黄檗では慶友尊者(ケイユウソンジャ)と賓頭盧尊者(ヒンズルソンジャ)を加え、十八羅漢として祭られている。石像の十八羅漢像は近隣には例を見ないため、他の十四体の散失は悔やまれる。 ※蘇頻陀尊者(スビンダソンジャ) 迦諾迦跋釐惰闍尊者(カナカバリダジャソンジャ) 賓度羅跋囉惰闍尊者(ヒンドラバラダジャソンジャ) 跋陀羅尊者(バダラソンジャ)
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鳥獣含霊塔
珍しい動物供養塔で文化9年(1812)に建立されたものと、もう一基「大小鳥獣一切滞魄孤魂等衆滅罪之塔(建立年次不詳)」が在る。
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神野公園
旧藩主鍋島直正(閑叟)公の別邸で弘化3年(1846)に造成された。一般には「神野のお茶屋」と呼ばれていたが、大正12年(1923)3月に鍋島家から佐賀市に寄付され、公園として市民に開放され市が管理することになった。公園には、多布施川の清流を引いて池を造り、小山を築いて四季の植物を配した日本庭園と睡蓮池や展望台を備えた洋式庭園があり、動物園、こども遊園地、野外音楽堂、野生のトンボを観察できる「とんぼ池」なども設置されている。また、園内には幕末から明治初期にかけ活躍した江藤新平の銅像、宮地嘉六文学碑、中島哀浪歌碑などがある。 公園内には約1,000本の桜があり、そばの多布施川沿いの約3,000本の桜とともに、4月初旬には多くの花見客でにぎわう。小城公園(小城市)、旭ヶ岡公園(鹿島市)とならんで県内三大桜名所と言われている。 昭和34年(1959)1月、都市公園として計画決定され、公園面積は5.4haである。公園の西隣には、昭和45年(1970)に開園した交通公園がある。 【思い出】 正面から入った所にある二棟の建物が当時の別荘で、園内には多布施川の清流を引いた池があり、築山は老松古梅その他の樹木が雅趣を添えていた。 市は公園として拡張し、終戦前には、今の睡蓮の池の辺りに運動場が造られ、市内小学校の連合運動会も開かれた。戦後、更に拡張整備され、動物舎、小鳥舎、そして子供遊園地などが造られ、江藤新平像、宮地嘉六句碑、中島哀浪歌碑も建立され、築山西側の田圃に西神野の農家の人々によって、当時としては珍しい苺園が作られ、一般に公開されたこともあったが、今は交通公園となり、面目を一新した。市の内外の小学校一年生の春の遠足は、たいていここに来ることが多く、市民の憩いの場所として親しまれている。(『神野小学校百周年記念誌』による)
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直茂公銅像園
【由 来】 藩祖鍋島直茂は、晩年に上多布施(多布施四丁目)に隠居所を設け、ここで亡くなったが、その子勝茂の遺命によりここに寺院を創設し、直茂の法号に因みて「日峯山宗智寺」と称した。 直茂の盛徳を追慕した旧藩民有志が、この寺の境内に銅像を建て、大正13年(1924)11月9日に除幕式を挙行した。(『佐賀市史下巻』による)それからここを銅像園と称した。 【思い出】 銅像前の広場で市内小学校の連合運動会も開かれた。銅像の南側には、多布施川の水を引いた 50メートルプールも作られたが、有料であった。神野小学校の児童も体操(今の体育)の時間に 水泳練習に連れて行かれたこともある。旧制佐高(現佐大)の水泳部もここで練習し、全九州中学校水泳大会も開かれたこともある。 このプールは、底がコンクリートでなかったので砂がたまり、蜆貝が棲息するようになり、近くの子どもたちは、カイツブリのようにもぐって蜆貝を盛んにとったものである。 銅像は、太平洋戦争中に供出され、プールは埋めたてられて、寺の周辺は住宅が密集し昔の面影はない。
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佐賀競馬場
西神野(神園3丁目)に競馬場ができたのは昭和4年(1929)5月である。競馬場の総面積は11,000坪、馬場6,300坪、建造物570坪、走路1,000m、幅員16mで、その頃では九州屈指の模範競馬場であった。昭和14年(1939)までは毎年春秋2回の競馬が開催されたが、支那事変の拡大とともに馬の重要性が再認識され、昭和15年(1940)11月7日に軍用保護馬鍛練場となり、鍛練馬競馬が開かれたが、これはそれまでの競馬に比べて面白くなかった。昭和16年(1941)12月8日太平洋戦争が起こり、昭和18年(1943)には鍛練馬競馬は中止、場内の施設は市内の軍需工場、新聞社等に貸与され、走路は野菜芋畑となった。 昭和20年(1945)8月15日、太平洋戦争は日本の敗北に終わり、国民は絶望と虚脱感に陥り、食糧事情は極度に悪化した。世の中は混迷と混乱の渦につつまれたが、一般の馬事愛好者がたち上がり、県と占領軍の許可を得て、昭和21年(1946)10月17日から4日間競馬を開催した。 昭和23年(1948)競馬は公営となり、大水害等で災害を受けた町村は、競馬益金の配当を受けるようになった。 しかし、競馬場付近には多布施川、神野公園があり、遊びに来る人も多く、競馬の開催回数の増加にともない開催時における人、馬、自動車等の洪水で大混雑をするようになった。また、競馬場周辺には人家もふえ、朝夕の通勤通学にも支障をきたすようになり、いろいろ問題が出てきた。そこで鳥栖市に移転することになり、昭和47年(1972)新競馬場完成、西神野競馬場は、この年の2月末で廃止されるに至った。 戦後も、農家では馬を使用していたが、農機具が次第に機械化され、馬の姿を見ないようになった。小学校の児童の中には、馬は映画やテレビの西部劇で見るくらいで、生きた馬を見る者はないようになったが、神野小学校の児童は、競馬場の閉鎖されるまで生きた馬を見ていたのである。
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佐賀駅
【旧佐賀駅】 九州鉄道(後に国有鉄道)の長崎線が、鳥栖から佐賀まで開通したのは、明治24年(1891)8月20日である。駅が愛敬島に設置された(今の駅より南へ約200mのところ)。 佐賀新聞は、当時の様子を次のように伝えている。「今回の開通式は実に佐賀はじまって以来の盛事なれば、式に臨む者は山のごとく、各村々からの見物人はアリのごとし。汽車は鉄笛一声、軽雷地に響き、鳥栖へ向けて進行を始めた。拍手と歓声は天地を動かすごとし。見物人は初めて見る汽車にただ驚くばかり・・・」 開業時、鳥栖―佐賀間には神埼、中原の二駅しかなく、列車の運行も1日4往復で、所要時間は約1時間であった。 長崎線は、明治28年(1895)5月武雄まで開通、明治31年(1898)11月には長崎まで開通した。そして、明治36年(1903)12月に唐津線全線開通、佐賀駅は名実ともに佐賀市の玄関口となった。佐賀線が全線開通したのは、昭和10年(1935)5月であった。 【新佐賀駅】 昭和51年(1976)2月まで続いた旧駅は、現在の新駅より南へ約200mの位置にあったが、駅周辺の混雑緩和、貨物の入れ替え作業等に伴う国道263号の交通渋滞解消などを図るために、昭和46年(1971)2月から佐賀駅高架移転事業が起工され、約81億円をかけて、昭和51年(1976)2月に完成した。駅とその東西約4.3kmが高架化され、新駅周辺の南北を結ぶ道路の交通渋滞が解消された。 新駅の開通と同時に貨物取り扱いが鍋島駅に移った。駅の高架下にはバスセンター、佐賀デイトス(ショッピングセンター)などが設けられた。駅周辺には高層建造物が増え、駅前開発が進んでいる。 最近、新幹線長崎ルートの建設も決定された。
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川上軌道と馬鉄
大正中期には佐賀軌道と川上軌道があったが、大正8年(1919)8月に両社が合併した。 佐賀軌道は、明治36年(1903)8月に創立し、その設備は品川馬車鉄道会社の使用していた軌条、車輌、馬具など一切を購入して、営業は翌37年2月から開始し、佐賀駅―諸富間の運行を行なった。 川上軌道は、大正元年(1912)11月に設立され、本社を三溝に置き、佐賀駅から川上都渡城(かわかみととき)の区間を営業した。その後大正5年には、神野踏切から招魂社(現護国神社)前までの路線を拡張した。 両社の合併は、交通機関の統一をはかるために行なわれた。協議は難航したが、大正8年8月に合併案がまとまった。社名を佐賀軌道株式会社とし、路線拡張案も出された。 佐賀軌道株式会社は神野町三溝の元川上軌道会社を本社とし、水ケ江町の元佐賀軌道会社を出張所とした。営業路線は川上線(神野町二本松―三溝―県道―川上都渡城)、中ノ小路線(佐賀駅前―中ノ小路―招魂社前)、諸富線(佐賀駅前―唐人町―県庁前―片田江―水ケ江―諸富)があり、中ノ小路、諸富の両線は馬一頭牽(馬鉄)で、川上線は軽便機関車による運転であった。機関車は、ミニSLで西部劇に出てくる機関車に似ていたが、それよりもっと小さかった。川上やお不動さんの遠足には、「川上軌道」といってよく利用したものである。 「名残り惜しい佐賀の軌道馬車、廿五日からバスと交替」(『佐賀新聞』昭和3年6月23日付)と佐賀軌道は馬車鉄道を廃して、自動車運行をすることになった。 また、佐賀軌道では、電化が論議されていたが、昭和3年11月にそれを正式に決定し、社名も佐賀電気軌道株式会社と改称した。佐賀電気軌道の佐賀―川上間の電車敷設工事は、昭和5年4月8日に竣工し、4月10日から運行を始めた。 【思い出】 また、佐賀駅前から紡績通りを通り招魂社(現護国神社)前までは馬鉄があった。馬鉄とは鉄道馬車のことで、チンチン電車よりもっと小さい車両を馬が引っぱって走る車である。車両の窓は片側4つか5つであった。馬が引っぱっているので、時々珍事が起こった。疾走している馬鉄が突然停車、何ごとかと思いきや、馬が徐に尻尾を上げて排泄作用をやるのである。時には脱線することもあった。この時は、運転手さんは、お客さんに降りてもらい、車体をかかえてレールにのせてもらって、「ハイ、発車」というようなのんびりした光景も見られた。
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佐賀県農事試験場
現在、佐賀市川副町南里にある佐賀県農業試験研究センターの前身佐賀県農事試験場が、草場に設置されたのは、明治33年(1900)のことである。場所は、佐賀駅北口前通りとはがくれ荘から三溝へ通ずる道路の交差点の東側で、その東北角の少し北に正門があり、その東側に建物や実習田、実験畑があった。 昭和25年(1950)、佐賀県農業試験場設置条例が施行され、佐賀県農業試験場と名称変更、同27年(1952)高木瀬村に移転した。その間、佐賀県農業の発展に寄与した技術の開発などは測りしれないものがある。 農事試験場の農事参観デーが初めて開かれたのは、大正11年(1922)という(佐賀県農業試験場要覧より)。この時は、県内から沢山の農家の人が集まって大にぎわいをした。 その後、佐賀県農業試験場は、昭和43年(1968)に現在地の佐賀市川副町へ移り、平成4年(1992)には佐賀県農業試験研究センターに改称され、現在に至っている。 【思い出】 神野小学校の児童で、学校帰りに農事参観デーを見に行ったものも多い。その中のイタズラボウズが、展示場にさげてあった広告を1人で沢山とっているところを試験場の人にみつかったらしい。 翌日の朝会(その頃は毎日あっていた)で、「きのう、農事試験場に行って広告をどっさりとったものがいる・・・」と先生から叱られたこともあった。
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佐賀紡績株式会社・大和紡績株式会社佐賀工場
大正5年(1916)12月、地元の有志によって佐賀紡績株式会社が、資本金300万円で創立された。大正9年には男子300名、女子1,200名の工員を擁する大工場となった。当時の佐賀市郡の企業の中では、最大規模の工場であった。しかし、その後の不況で業績が悪化、大正末期には操業が停止された。 昭和3年(1928)4月、錦華紡績株式会社に買収され、同社佐賀支店(のち同社佐賀工場)として、操業が再開された。 昭和16年には、錦華紡績(株)、日出紡績(株)、出雲製織(株)、和歌山紡績(株)の4社合併により、大和紡績(株)佐賀工場となった。 大和紡績株式会社(本社:大阪市)は、資本金50億2,000万円、年商1,015億4,000万円(昭和56年度)の繊維の総合大手メーカーであり、従業員約5,000人(うち佐賀工場650人)であった。綿布、スフ綿、綿糸のほか合繊布の生産も多かった。 大和紡績(株)佐賀工場の操業は、戦中・戦後を通じて盛んに行なわれ、最盛期(昭和25年頃)には、従業員数(組合員のみ)は2,000名を超え、そのうち女寄寮には1,430名の女子工員さんたちが働いていた。 しかし、その後の繊維業界の再編等により、次第に工場の規模も縮小され、ついに昭和61年3月、同社佐賀工場は閉鎖になり、約70年の歴史を閉じることになった。 現在、その工場跡地は、「どんどんどんの森」として、市民に親しまれている。 【思い出】 昔は、(神野小学校の)運動場から紡績の工場を写生することができた。また、工場と長崎本線の線路の間に蓮堀(佐賀では蓮根堀という)があったが、神野小卒業生の中には、あの蓮堀に思い出のある人もあろう。 【〝紡績通り〟の名称の由来】(現国道264号線) 大正5年12月に、現在地に佐賀紡績工場が設立された。工場が整備拡充されるにしたがい、当時の佐賀にとって、最大の工場として地元民の関心を集めた。 当時は人が通る程度の道があったが、道路も混雑するようになり、次第に道幅も広くなっていった。 その後、通称〝貫通道路〟がつくられ、佐賀市街を東西に通ずるようになり、この通りと連結されると、次第に市民が紡績工場の隆盛を期待し、愛称として〝紡績通り〟と呼ぶようになり、今日まで引き継がれてきたものである。
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神野劇場
草場の徳島酒店の東側、今駐車場になっているあたりにあった。大正13年(1924)12月起工、翌14年(1925)7月竣工、落成式を挙行、初興行(柿葺落)には大阪俳優の実川新四郎、市川鯉三郎一座60余名の歌舞伎興行を行った。 昭和11年(1936)12月からは、東宝映画上映の映画館となった。しかし、東宝映画は昭和14年(1939)6月、松原通りに東宝映画劇場が開館されるにいたり、ここで上映されるようになった。 (昭和27年発行「佐賀市史下巻」による)
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佐賀瓦斯株式会社(製造場)・日本電気分工場
大正2年(1913)佐賀瓦斯株式会社が設立され、瓦斯製造場が愛敬島(今の市役所のある所)に設置された。この瓦斯会社は、大正7年(1918)に解散、そのあとに日本電気工場ができた。これは、大正の後期火事で焼け、まもなく閉鎖された。昭和6年(1931)そのあとに有限責任瓦斯購買利用組合が設立され、昭和16年(1941)佐賀市がこれを引き継いだ。
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神園大橋
多布施川にかかる橋で、神野校区の最も北に位置している。 都市計画街路で、若宮〜新村線。長さ17メートル、幅19メートル。 もとレンゲソウの咲いた田園も、今は新住宅でぎっしりと埋め尽くされ、西部環状線(国道208号線)まで空地がないほどになった。開通式は昭和55年4月21日に行なわれた。
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公園北橋
多布施川にかかる橋で、もと「勝鬨(かちどき)橋」という木造橋であった。すぐ東が佐賀競馬場で、馬が走る時は、わあわあ喚声がひびきわたり、勝鬨橋とはよくぞ名をつけたものだ。競馬場は昭和41年統合されて、佐賀県競馬組合設立、昭和47年(1972)3月、鳥栖市江島町へ移転した。
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栴檀橋・新栴檀橋
1 栴檀橋 多布施川にかかる橋で、橋脚は円柱石で15本。今は自動車通行を禁じている。両岸は橋名の因となるセンダンをはじめ、エノキ、カエデや桜並木で美しい。 左岸のすぐ南に栴檀井樋があり、その流れ「栴檀一号水路」に「こがわ(小川)橋」、仝二号水路に「せとくち(瀬戸口)橋」がある。 2 新栴檀橋 車時代になり、旧橋は危険だったので頑丈な新橋がかかった。すぐ西に神野公園バス停、その向かいに九州グリコ株式会社の工場がある。 橋の南西岸に瀬戸井樋があり、この水路は「中折水路」と連がり、佐賀北高校東北の北高橋(昭和487年3月)、同校東南に天祐橋(昭和50年3月)がある。
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昭和橋
多布施川にかかる橋で、西に行けば、JRの鍋島駅。 この橋南の左岸に寺井樋があり、水路を東へ行けば、元大和紡績の西・南の川にも連絡する。 昭和橋より東、神野小学校南を通る路上の橋は皆、大正14年(1925)2月の架設で、神野村が佐賀市に合併したのは、大正11年(1922)10月1日である。
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長崎本線多布施川鉄橋
多布施川にかかる鉄橋である。 鳥栖〜佐賀間は明治24年(1891)開通。平成3年が百周年記念。佐賀〜武雄間は明治28年 (1895)の開通。 鉄道南方の左岸に井樋があり、右岸は、天祐寺川に流れる可動式井樋がある。緑小路に多布施川の松並木を背景にした県立佐賀農学校があったが、大正11年(1922)杵島郡の白石に移転した。
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多布施橋
多布施川にかかる橋で、神野校区の最も南に位置している。 南西に佐賀工業高等学校がある。西南の佐工井樋は、高岸地域に送水する。東南の橋の袂に幸蔵井樋がある。土手を下りた家では、大正の頃まで、水車で精米しており、小学校の遠足の折には、水車で精米する様子を物珍らしく見物していた。南方の松月旅館の堤防斜面に松の木2本が昔のまま残っている。松並木唯一の形見である。下れば新青木橋、その北西岸に青木井樋がある。ここにもとの青木橋がかかっていた。
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佐賀食糧事務所政府倉庫(旧農林省米倉庫)
1 環境等 (1)環 境 JR長崎本線佐賀駅から東へ徒歩5分のところに位置している。設立当時は、囲りの水田に倉庫の影を映す、のどかな田園の中にあり、市民に国立倉庫と呼ばれて親しまれてきた。しかし、現在(昭和63年当時)は都市計画により、市役所、農協会館等公共施設が隣接し、市内の中心街に変貌しつつある。このため、貨物専用駅が佐賀駅西方約4㎞の所に新設されるとともに、35年の歴史をもつ専用側線は撤去され、併せて、敷地も長崎本線によって分断され、荷さばき等の立地条件として悪くなった。 (2)最寄貨車扱駅 長崎本線鍋島駅 当倉庫まで4.5㎞ 2 沿 革 (1)設立当時の概況及び現在までの経緯 当政府倉庫は、佐賀平野の中心地に位置し、昭和13年に建設され、過剰米対策のための米の備蓄を目的として設立されたものであり、建設に当たっては、農林省支弁により政府倉庫7棟(倉庫用地12,900㎡、建築面積4,200㎡、収容力6,800トン)その他附属設備等工費24万円余を投じて建設され、翌14年には専用側線も施設された。 戦後、約2年半占領軍に、官舎1棟、政府倉庫2棟が接収され、その間、1号倉庫は物資倉庫、2号倉庫は娯楽施設等に使用されたという歴史をもっている。 昭和47年、佐賀市の都市計画事業が実施されるにおよんで、3、4号倉庫が解体されるとともに、1、2号倉庫と5、6、7号倉庫が、長崎本線の高架線により分断されることになり、政府倉庫も5棟(倉庫敷地7,116㎡、建築面積3,061㎡、収容力4,860トン)となり、同時に専用側線も廃止され、現在に至っている。 (2)現在の状況(昭和63年当時) 県内の需給操作用として、青森産米(4類)、北海道産米(5類)と、政府倉庫周辺の農業倉庫の収容力不足を補うため、県内産大粒大麦及び小麦並びに備蓄用外国産飼料大麦の搬入を図り活用しているが、年間を通してほぼ満庫に近い状態である。 3 倉庫規模、構造 棟数 5棟 倉番数 5倉番 標準収容力 972トン×5倉番=4,860トン 建物構造 木造平屋建、二重屋根 ※政府倉庫は平成18年3月に解体となり、現在、一部は佐賀市の駐車場になっている。
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佐賀県立佐賀農学校
JR長崎本線の多布施川鉄橋付近で、多布施川は本流と天祐寺川に分かれる。この分岐点の三角地に佐賀市内で最も閑静な高級住宅地「緑小路」がある。その昔この場所に寄宿舎をもち、広い実習農園と圃場(現在の佐賀工業高等学校敷地)をもった佐賀県立佐賀農学校があった。 この学校は文部省令に基き、明治28年3月1日佐賀県令により佐賀郡神野村大字多布施128番地に佐賀簡易農学校の名称で創設され、簡易の方法により農学と実地技能を授け、県の農事の改良進歩を図ることを目的として、対象者を県内の住民で田畑5反歩以上を所有する者およびその子弟に限定して入学させた。この学校の終業年限は2年であった。 明治31年4月1日、簡易農学校は僅か3年間で廃止され、新たにこの学校のすべてを引き継いだ佐賀県立佐賀農学校が設立された。終業年限は3年に延長され、入学定員は50名となった。 その後27年間に751名の生徒が卒業し、卒業生はそれぞれに学校創建の理念である「農は国の本なり」を旨として幅広く地域農村の模範的指導者として活躍した。 平成6年10月に同校校舎跡地に建立された同校創立100周年記念碑の碑文には、「思えば、当時の農村は、伝承的農業に甘んじる風潮があった。これを科学的に啓蒙して本県農業を飛躍的に発展させたのは本校卒業生諸賢の尽力に負うところ多しと言えます。」と刻まれている。 大正8年11月21日、佐賀県議会は学校の杵島郡白石への移転を可決、これに生徒一同が猛反対、佐賀商工会議所も反対を表明、佐賀市は公会堂で佐賀署警察官監視のもと移転反対の市民を巻き込む市民大会を開催。佐賀市議会も移転反対を可決、行政裁判に訴えている。 この移転問題では、当時の憲政党と政友会とが激しく対立し、佐賀県政を2分する政争になった。この後、この学校は大正11年11月7日に白石に移転し、戦後の学制改革により佐賀県立佐賀農業高等学校に引き継がれて今日に至っている。
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ヤモ合わせ
佐賀では銀蜻蛉をヤモと呼ぶ。とりもち竿などでヤモを捕え、羽の間の胴を糸で結び、糸の先を1mくらいの竹竿にくくりつける。雄ヤモの飛んでいる堀に行き、これを囮ヤモにして頭上で丸く回わす。囮は雄雌どれでもよく、雄であれば繩張り争いのためかすぐ喧嘩しにくるし、雌であれば交尾せんとして近寄るので、その機を逸せず掴まえるのである。これをヤモ合わせといった。捕えたヤモは、ねずみとりや小鳥籠に入れ、意気揚々と帰って友達に自慢したものである。ヤモ合わせの呼び声は「ヤモホッー、ヤモホッー、メトンに目かけてござらんかん」であった。なお、ヤモの雄をオトン、雌をメトンといった。
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荒神さんとおすみ
昔の農家にはカマヤがあって、大ガマさん、中ガマさん、小ガマさんが並んでいた。大ガマさんは、年末の餅つきの時、味噌醤油の大豆、麦を煮る時、農耕馬の大麦を煮る時等に使われ、中ガマさんと小ガマさんは必要に応じてそれぞれに用いられた。 カマヤは、荒神様が鎮座される所として、真ん中の荒神柱に榊や柴等を供えた神棚を設け、神々のお札が安置されていた。正月には小豆を一ぱいつけた荒神さん餅(ナマコ餅)、蜜柑、干柿等が供えられた。また年何回かは、荒神盲さんといわれた盲僧が、墨染の衣に頭陀袋を下げて、大ガマさんの前に莚をしいて、手さぐりしながら御幣を切って、神事を行い読経し、家内安全を祈願し、終われば家族の心尽くしの歓待を受け、盲僧が経験した各地の面白い話を聞かせたものである。 小学校の遠足や、どこかに遠出する時は、大人達に「おすみさん(煤のこと)を頂いたか」と言われて慌ててもどり、大ガマさんの前に行って、焚き口上についている煤を人差し指につけ、額にすりつけて飛びだしたものである。 今は家が改築されたり、改造されたりして昔のカマヤのある家はないようだ。プロパンガスに変わった現在、大ガマさんの前で、藁や大きな木片をどんどん燃やしながら、灰の中にさつまいもを投げこみ、焼けるのを待ちながら尻をまくって、暖をとった少年時代が懐かしくてならない。
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米搗きの水車
山村、山麓で多く見られた水車が、多布施川流域に5か所もあった。今は、電気で精米したり製粉したりするが、昔は水車でしたものである。 多布施川は、人工河川で両側の田圃より川床が高く、潅漑用水に利用された関係で、多布施川から取水した用水路を利用し、水車の設置場所を深く掘り、水の落差を利用して水車を動かした。この水車は、大正末期電気精米が出現するまで使用された。 5か所の水車小屋の位置と経営者は、小柳氏(神園3丁目古賀四郎氏宅)、大塚氏(栴檀橋東側)、瀬戸口氏(神園4丁目)、山崎氏(多布施鉄橋東下)、岩橋氏(天祐寺川中高橋東)であった。 水車の経営は勝手にはできなかった。明治14年(1881)12月に「水車取締規則」が県(当時は長崎県)から出された免許が必要であった。規則には「方三十間以内居住の人民及び飲用水又は作用水は勿論、水利上障碍なき旨関係人民又は其の人民総代の承諾書を添ふべし」とあり、今のような企業優先ではなく、地域住民の生活環境がよく考えられていた。
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ジュブ (四つ手網)
佐賀では四つ手網のことをジュブといい、これで漁することをジュブ引きといった。大きな堀にアバ(網場)を作り、この漁をする人がいた。浮留江橋の上流にアバを設け、夏の雨後の増水した時や秋の水落ち時にはよくジュブを引いた。その頃は堀も深く水量も多く水もきれいでフナなどのほかに、有明海から上ってくるハクラやクロメ等もとれた。網が上げられる時は、どんなものがはいっているだろうかと胸をときめかしたものである。漁の多い時は、そのまま狭いアバに泊まりこんだこともあった。
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テンチク針
針先が鋭い大きなもので、ドジョウ等の生餌を先にさし、夕方魚のいそうな所に投げ込み端を岸辺の草の根元などにしばりつけておき、翌朝あげに行った。糸がピンと張っていれば間違いなくかかっており、ウナギやナマズ等の時は、糸が菰や葦などにぐるぐるまつわりついてあげるのに苦労した。