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[旧佐賀市][神野校区]は48件登録されています。
旧佐賀市 神野校区
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ドウケ
果物籠を押しつけたような形をしており、入口に竹のハゼを、上に取っ手をつけてあった。夕方この底に米糠や醤油粕等を泥と練りこみ、魚の回遊しそうな場所を見付けて水中に沈め翌朝あげた。魚がはいっておれば入れておいた餌がなくなっているので軽く、この時はあげる手に力が入った。時にはキャーツグロー(カイツブリ)がはいっていることもあった。
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ドジョウうけ
今は、ドジョウも少なくなり、養殖を計画されている時代である。 夏稲が大きくなると、水を張った田にこれを置く。ドジョウは畦ぎわを回る習性があるので、水口が場所としてよく、タニシを潰して入れておくこともあった。夕方仕掛けておいて翌朝あげる。うけの水面に泡が沢山立っていたら間違いなく豊漁だ。中をのぞくと大きなドジョウがもつれ合いながら中に潜りこむ所謂「ドジョウの三っつんごろ」の様相を呈していた。
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ゴミホイ (泥土揚げ)
この行事は、川干の頃行われた。 堀の泥土揚げは、灌漑用水路であり、生活用水路でもある堀の清浄を保ち、浅くなるのを防ぎ、水田の肥料を得る大切な仕事であった。方法は堀を適当に区切り、両側にミチギ(足場)を組み渡し、その上に4、5人ずつ向かって乗り、少しいびつになったゴミ桶につけた親綱と子綱を引き、呼吸を合わせて桶を操作し、泥土を汲みあげる。堀の中では2人くらいが腰までつかり、カスイで泥水をかき集めて汲みあげ易くする。すべてが、呼吸を合わせ、反動を利用しての操作であった。 子供達は、田圃にあげられた泥の中の魚を泥んこになって手でつかまえたり、竹竿の先に貝杓子等をつけたものでとったものである。魚をとって意気揚々とうちに帰ると、泥によごれた衣服が洗っても落ちないとよく叱られた。
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九州グリコ株式会社
1 江崎グリコ株式会社(創立:大正11年2月、設立:昭和4年2月、本社:大阪市) 佐賀市蓮池町出身の江崎利一氏は、大正3年(1914)行商の途中、早津江川の岸で有明海特産のカキの煮汁が川口に放出されているのを見つけて、その有効利用を思いつき、その汁の中から栄養素「グリコーゲン」を抽出、種々の工夫の後、それを栄養菓子「グリコ」として完成させた。 大正10年(1921)、その販売のため大阪に出て「江崎グリコ」を創業した。「一粒300m」の宣伝文句とおまけ付きは有名である。ユニークな製品開発が得意で、アーモンドチョコ、ポッキーチョコ、ビスコなどの人気商品があり、冷菓、焼菓子、カレーなどにも進出している。 平成13年(2001)には、全製造工場を分社化。平成21年3月現在、資本金は77億73百万円、従業員数は1,099名、グループ全体では4,889名である。 2 九州グリコ株式会社 九州グリコ株式会社は昭和28年、江崎グリコ創業者である江崎利一氏の故郷である佐賀に江崎グリコ株式会社九州工場として設立された。創業当初は、江崎グリコ創業のきっかけともなったキャラメルの「グリコ」を中心に生産を開始した。 平成13年12月、江崎グリコ株式会社から分離独立し、九州グリコ株式会社を設立。現在では、ビスケット、ガム、チョコレートの3製品を主力として生産を行なっている。 資本金は1,000万円、従業員数は約500名(アウトソーシングを含む。)である。 〈沿革〉 ・昭和28年 創業 「グリコ」生産開始(〜昭和56年) ・昭和32年 アイスクリーム生産開始(〜昭和47年) ビスケット工場新設 ビスコ生産開始(〜昭和57年) ・昭和43年 チョコレート工場新設 アーモンドチョコレート生産開始 ・昭和57年 キティランドビスケット生産開始(〜昭和62年) ・昭和62年 フレンドベーカリー生産開始 ・平成 3年 ガム工場新設 キスミント生産開始 ・平成13年 九州グリコ(株)として江崎グリコ(株)より分社化 ※九州グリコ株式会社は2018年に工場を閉鎖、2019年1月に解散。佐賀市には佐賀グリコ乳業(佐賀市大和町)の佐賀工場がある。
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株式会社佐賀鉄工所
昭和13年(1938)11月、初代社長勝谷辰次郎氏は、(株)戸上電機製作所より独立し、佐賀鉄工所を設立。その後、海軍航空機用精密ねじを製造、戦後はねじ専門メーカーとなる。 現在、佐賀鉄工所は、ボルト製造の全国トップ企業で、シェアは約50%にものぼる。製造するボルトの種類は8,000〜9,000種にもなるといい、そのうち8割が自動車製造関連向けである。 日産、ホンダ、富士重工、トヨタ自動車九州等主要メーカーに納品している。 資本金は3億1千万円、従業員は769名(平成21年4月現在)、売上高はこの3年間、年間400億円〜450億円であり、県内における代表的地場企業である。主要工場は県内では佐賀市と大町町、県外では神奈川県の藤沢市にある。約20年前からは、アメリカ、中国、タイに合弁会社を設立し、海外にも進出している。 これらの躍進を支えているのは、自動車用ボルトにおける非常に高い技術水準と独自性を生み出す製造工程である。素材(線材)の加工から、熱処理、メッキ、加工まで、ねじの一貫生産システムにより品質管理を徹底していることである。 自動車メーカーの海外進出の際にも、佐賀鉄工所の自動車用ボルトにおける技術水準は群をぬいているため、そのボルトが不可欠ということで、アメリカや中国などに進出するようになったのである。
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多布施川
旧佐賀市を潤した母なる川。嘉瀬川本流から石井樋(佐賀市大和町)で分流し、旧佐賀市内を屈曲して東南流、八田江の八田橋北方約130mにある排水樋門から八田江川に入る。延長約9.5km。平安・鎌倉時代は嘉瀬川の本流であったとも考えられる。 江戸初期、佐賀城や城下町の建設に当たって、これらの地域の洪水防止のため、成富兵庫茂安は石井樋を築造して嘉瀬川に放流し、水量を調節して佐賀城堀の防衛水や周辺の飲料水、日常用水、さらに周辺農村地域の灌漑用水を確保した。水路としても利用され、川上(現佐賀市大和町都渡城)から城下まで人や物資を運んだ。地域住民の生命線ともなる重要な川であった。 多布施川は昔から「水清く白砂青松の川」として親しまれ、堤防には松が青々と茂り、大正末期までは砂取り船が行き交っていたが、大正6年(1917)に佐賀市に上水道が普及するや、往時の役割も失い、次第にその面影も薄れてしまった。しかし昭和初期までは、石井樋から神野茶屋を通り護国神社まで、春になれば屋形船が通って賑わったものである。 現在は都市公園として河畔整備が進められ、レクリエーションの場や桜の名所として有名である。また、昭和初期まで行われていた川下りを復活し、観光に生かそうとした取組も行われている。 川上川の下流石井樋より分岐し、佐賀市街に入る川が多布施川である。西神野あたりでは、「ウーカワ(大川)」と呼び、水は清冽、河底には白砂、堤防には石井樋から青木橋下の大曲まで大きい松があり、文字通り白砂青松の川であった。大正12年(1923年)神野公園が鍋島家から市に寄付されるや、堤防美化のため、神野公園北側の二挺井樋付近から大曲あたりまで、桜や楓などが植えられた。各方面から贈られた苗木が、市青年団特に神野地区の青年団の手によって植えられ、本校の児童の手によって、この木々の成育と繁茂を願って募集された樹木愛護の標語木札が木々の枝に下げられた。 夏には、川舟による舟遊びも催され三味線の音も聞かれた。川上、石井樋などへの遠足の帰りには石井樋から川舟に乗って招魂社まで下った小学校もあった。また昔は砂が上流からどんどん流れてきたので、採砂業者によって上げられ大水の出るのを防いだ。 3月になると石井樋の堰を止め、河川の泥上げが行われる。これを川干というが、この時は、多布施川の近くの子供は、シャツ、パンツ1枚になり、手に手にウットイ(網)、オンツキ(鉾)、テボ(魚籠)、バケツなどを持って、水の涸れた川床の白い砂を踏みながら水の淀みにひそむフナ、ハヤ、ドンコなどをとった。神野公園では池の泥上げがあったが、これはチャッポシコンゴという泥上げの法で行われた。チャッポシコンゴというのは、泥上げ用の桶の両端にロープをつけ、ゆるめたり引っぱったりして泥を上げる方法で、のんびりした作業であった。 その頃の多布施川は、今よりも水が多くてきれいであった。飲料水として使われ、午前10時までは顔や手を洗うことを禁ぜられ、違反者で見つけられた者は、1円の罰金をとられたこともあったという。 ところが、水はよごれ、堤防の松は、佐賀工業体育館東側の「松月」の一本松を残すだけとなり、松籟も聞けなくなった。草が生えて風情のあった岸も護岸工事ですっかり変わり、昔の面影はなく淋しい限りである。
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多布施の矢竹の生け垣
「多布施の矢竹の生け垣」は、多布施四丁目中央部の住宅地の中にあり、近くには宗智寺がある。風情のある矢竹の生垣が連なるこの道は、かつて多布施小路(たふせくうじ)と呼ばれていた。この小路は今も周辺の小道とともに落ち着いた居住景観を作り出している。 宗智寺は、かつて藩祖鍋島直茂公が嫡子勝茂公(初代藩主)に家督を譲った後、隠居所を構えた場所で、直茂公は亡くなるまでここをこよなく愛していたと言われている。直茂公もお屋敷を出て、すぐそばのこの小路をよく散歩されたことであろう。 古来、矢竹は弓矢に使用された竹で、これを生垣にした屋敷には武家屋敷が多いが、多布施小路に住んだ古の人達はどんな職業の人達であったかは分かっていない。生垣が作られた年代も分からない。 昭和40年頃は多布施小路には戸数も少なく、良く手入れされた矢竹の生垣が整然と途切れることなく300mも続き、まるで矢竹の回廊の様であった。 今もこの地区はどこか田舎の雰囲気を残しており、小路を歩くと心が安らぐ感じがするところである。 この生垣は、平成18年に第9回佐賀市都市景観賞を受賞した。
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吉田善吾
西神野出身。海軍大将。明治28年(1895)3月神野小学校卒業、佐賀中学より海軍兵学校に進み、海軍大将となる。その間連合艦隊司令長官もつとめる。昭和4年(1929年)5月の神野小学校創立50周年記念式典のときは、海軍大佐で戦艦「陸奥」の艦長、卒業生を代表して祝辞を述べた。
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宮地嘉六
小説家。明治17年(1884)6月11日生まれ。神野小学校を中退して仕立屋の見習小僧となりその後、佐世保の海軍造船廠の見習工施盤になり、それから呉、神戸、長崎、東京の大工場を転々とする。その間に文学に興味を持ちだし、堺利彦、幸徳秋水等の著者によって社会主義思想に近づき、呉海軍工廠のストライキで首謀者として投獄されたこともあった。初めは、所謂前期プロレタリヤ文学に属する労働者文学であったが、まもなく自由な立場の作風に移った。貧しかったころは、広告の裏に原稿を書いていたという。 作品に、「煤煙の臭ひ」「或る職工の手記」「旅浪者富蔵」「愛の十字街」などがある。 神野公園には「豆腐屋は近し手軽な自炊かな」の句碑がある(※)。 昭和33年(1958年) 4月10日没。 ※石碑の背面には「宮地嘉六文学碑」とあり、正確には文学碑である。この文学碑は昭和34年4月に建立された(昭和34年4月6日付佐賀新聞)。
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松平晃
歌手。本名福田恒治。高岸(現多布施3丁目)に生まれる。大正13年(1924年)3月神野小学校卒業。佐賀中学に進み、昭和5年(1930年)3月卒業、東京の武蔵野音楽学校に入学、1年後東京音楽学校に入学した。在学中の昭和7年ポリドールで吹き込んだ「忘られぬ花」が大ヒット、翌昭和8年(1933年)3月、音楽学校を中退してコロンビアの専属歌手となる。そして、「サーカスの唄」「急げ幌馬車」「花言葉の唄」などの大ヒットで、コロンビアの看板歌手になり、藤山一郎、東海林太郎、霧島昇等とともに日本の歌謡界をリードした。松竹映画「純情二重奏」にも出演したりした。 晩年に、松平晃歌謡学院を設立、新人歌手の養成につとめたが、昭和36年(1961)3月8日急死、48歳の若さであった。 前記の外のヒット曲に「人妻椿、上海航路、何日君再来、初恋日記、夕陽は落ちて、希望の首途、利根の舟唄、港の雨、泪のタンゴ」などがある。
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開山桂巌禅師
開山和尚桂巌禅師(1627(寛永4年)〜1710(宝永7年3.6))、信州は松本の出身で、祖先には足利尊氏の弟直義の幕下、淵辺伊賀守があり、また太田道灌が遠縁に当たるという家柄の出。12歳で出家して丹波の桐江庵、その時の師僧の示寂の後、熊野の山中や河内金剛山麓に見桃亭と号する禅室を結び、12年という歳月の後、鍋島丹後守光茂(佐嘉本藩二代)に請われ、佐嘉領内の臨済宗東福寺派の春日山高城寺に入寺。寛文7年(1667)42才の10月に、小倉広寿山福聚寺の即非禅師(1616〜1671)に参禅、同11年5月に神埼の宝珠寺開山となる翠峰和尚と共に入室、印可を付される。同年11月、隠元禅師80祝寿に登檗し、禅師により、桂巌の号を賜る。 即非禅師は、隠元禅師、二代木庵禅師とともに書の大家として黄檗三筆と謳われる。佐賀には、曹洞宗高伝寺の山門額、龍泰寺の寺号額などに有る。 さらに桂巌禅師は、時の肥前鹿島藩主鍋島和泉守直朝に請われ、能古見の福源寺の住持となり、延宝5年(1677)8月1日鹿島藩祖直朝(本藩初代勝茂の五男)、直条によって再興された普明寺の開山として請われ上堂、6年後の天和3年5月1日祝国開堂(大小の方丈、斎堂、鐘楼など整備)。その後、桂巌禅師は貞享2年には普明寺を退き、同じく鹿島の医徳寺に移り、元禄7年(1694)には金立の円珠寺に移る。その後も鍋島市兵衛による須古の阿弥陀寺復興にも関わり、卓龐寺としての開山に請われたのが宝永4年、3年後同7年の3月6日に円珠寺方丈にて84の生涯に寂を示された。その他にも諌早では性空寺、痴雲寺、普明寺下の法泉庵、多久福檗寺等の開山となり、佐賀県内にて広く最初期の黄檗の教化を流布し、法を継いだ弟子の数は21名と、当時第3世代の黄檗の和僧としては傑出した大徳、高僧であることは云うまでもない。 桂巌禅師の墓所は、鹿島の普明寺、佐賀の大興寺、多久の福聚寺、佐賀金立の円珠寺にある。
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神野今昔物語
足利時代の古文書には、掘江神社は、高木村と出ている。高木村の潟崎の洲にあった芦の生えた野を掘江神社の神領に寄付し、この緑由で神野という地名が生まれたという説もある。 降って徳川時代の元禄の頃には、神野村は「中佐嘉郷」と「与賀上郷」とに分かれ、次のように区分されていた。 中佐嘉郷 神野村、大財村、三溝村、愛敬島村、草場村 与賀上郷 高岸村、多布施村 更に降って文化14年(1817)の記録によれば、 中佐嘉郷 大財、愛敬島、三溝村、草場村、神野村、東渕村、下渕、東中野、西中野、土井村、藤木 与賀上郷 多布施東分、多布施下村、中折村、天祐寺町、本庄東分村、本庄西分村、厘外東分村、厘外西分村、上飯盛、鹿子上村、鹿子下村、新村、末次東分村、末次西分村 明治維新となり、神野、多布施、牛島、大財の各村を区域として戸町役場を設け、明治22年(1889年)4月1日市町村制実施とともに、中佐嘉郷、与賀上郷の傍線の村が神野村となり、神野村役場を置いて、神野、多布施、大財の三大字に分けられた。そして、大正11年(1922年)10月1日に佐賀市に合併された。 合併と同時に、大字神野は神野町に、大字多布施は上多布施町に、大字大財は大財町となった。この3つの町にふくまれた区は次の通りである。 神野町…西神野、東神野、三溝、草場、西通り、新家、平島、愛敬島 上多布施町…大島、高岸、中折 大財町…大財、六反田 この三個町の戸数は、1,026戸、人口は、7,971人であった。合併の祝賀会は、11月18、9の両日盛大に行われ、(昭和48年版佐賀市史上巻)神野小学校の児童も旗行列に参加した。 今は、大財、愛敬島(愛敬町)、平島(天神)、大島(多布施1、2丁目)、高岸(多布施3丁目)、中折(中折町、天祐)は、他校区になっているが、この地区をふくめた旧神野校区の去にし日をふりかえってみよう。 神野村が、なぜ佐賀市に合併されるようになったか、今考えてみると見当もつかないだろうが、合併の頃は、農家が多く、町の形をしていたのは、紡績通り、西通り、堀江通り、三溝の今の263号線沿いくらいのものであった。 明治維新以後の神野村をみると、幕末には高岸に精錬方が置かれ、明治24年には長崎線が佐賀まで開通して、愛敬島に佐賀駅ができ、草場には農事試験場、緑小路には県立佐賀農学校が開校されて、その後、佐賀紡績会社、九州麻糸会社、日本電気分工場、谷口鉄工分場、佐賀瓦斯会社製造場、川上軌道会社などがつくられ、ことに明治の末高木瀬村に歩兵第55連隊が設立されるや同兵営と佐賀市をつなぐ道路(今の263号線)が神野村を貫通し、村発展の可能性が大いに出て来た。また、上水道敷設、道路の改修などが必要になって来、佐賀市には学童の増加による小学校の新築敷地などの問題があり、大正8年頃から神野村と佐賀市の有志の間に合併のことが話題になり、大正11年10月1日の合併となった。(昭和48年版佐賀市史上巻による)
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銅像園の想い出
昭和年代の初め、現在の多布施4丁目、宗智寺及びその周辺一帯は「銅像園」の名称で呼ばれていた。 銅像園の中央に石垣の高台が築かれていた。十数段の石垣を登ると、佐賀藩の藩祖、鍋島直茂公(1538〜1618)の鎧、甲冑姿の騎馬像があった。大正13年(1924)、直茂公が晩年暮らした寓居跡に建立されたものである。 また、銅像の南側に水泳プールが設けられていた。古い写真を見ると、南北に幅25m、東西に50m以上、コンクリート製の当時としては立派なものであった。水は多布施川水路から南側取水口に取り入れ、北側の排水溝に流した。県内外の中学校、青年団の選手が参加し水泳競技会が開催された。しかし、昭和初期になると、多布施川は生活、衛生面から取水が制限されるようになり、昭和10年代には荒れたままになっていた。 昭和12年、日中戦争が始まると銅像園で出征兵士を見送る光景が見られた。元亀元年(1570) 佐賀城の浮沈を賭け、今山(現在の大和町付近)の戦いで勝利して凱旋する直茂公の勇姿像にあやかり、戦勝を鼓舞するものであった。 戦時中、銅像は軍に供出、プールも埋められ当時の面影はない。しかし、「銅像園」は幼き日の郷愁として記憶に残っている。
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神野、堀江通り商店街の今昔
昭和6年(1931)、都市計画の一環として与賀町〜川上線の拡幅街道が整備されることが決定され、永年にわたる拡幅工事が進められた。特に、招魂社(現護国神社)から高木瀬第55連隊までは軍用道路として、急いで整備された側面もあるようだ。現神野変電所付近から川上まで、馬鉄が設置されていた。一説では、諸富から川上まで鉄路が敷設されていたという。 その街道沿いに個人商店が出店し、自然発生的に商店街を形成した。 昭和16年(1941)頃、大和紡績佐賀工場ができ、昭和25年(1950)を中心に1,000名以上の女工さんが寮生活をし、工場内に女子高校ができていたという。 国鉄線路は、佐賀駅の移転までは、現多布施川鉄橋から九電変電所の南側を経てエスペランサマンションの南駐車場、アーサーマンションの建物の敷地を経由していた。佐賀新聞社の北側には、今でも、線路敷地、鉄橋の橋脚護岸が残っている。旧佐賀駅は駅前交番の西で大きい交差点のところ、「一粒300メートル」のグリコの看板塔があって目立っていた。 また、国鉄線路の踏切の南を紡績通り、北を堀江通りと称した。現国道の西の河川を堀江川といい、昔は今の倍以上の広さがあり、じゅぶ台で魚をとり、たなじで鍋、釜を洗い、洗濯がされていた。 国鉄踏切の北側には、青果市場が3か所あり、早朝3時〜4時から大勢、近郊の農家の人々が農作物をリヤカー、車力などに積み持ち込んできた。それを「といやだし」と称していた。市場からその出荷代金を受け取り、帰りに商店街で買い物をした。そのため、堀江通り商店街の開店時間は早かった。 大正時代、昭和初期、堀江通り沿いには各地から出店が相次ぎ、古川活版所、徳島呉服店、竹下陶器店、七田自転車店、松尾たたみ屋、篠原傘屋、江口お菓子屋、小寺薬屋、神野郵便局、数軒の衣料品店、青果店、鮮魚店、桶屋、鍛冶屋、銭湯、酒屋など続々と商店が軒をなし、昭和の終戦後は、紡績通りを入れてその数200軒をゆうに超える大商店街を形成し繁栄していた。また、紡績通りには、西田醤油、高取薬局、スーパーのハシリもりながや、田中かまぼこ店、いろは肉屋、旅館などもあった。 また、国鉄踏切が国道を横切り、長崎本線、唐津線、貨物車の入れ替え、大和紡績への物資出し入れの引き込み線などに貨車が出入りして、踏切の遮断機の上げ下げが頻繁で、トラック、バス、自動車、荷馬車、人とも、南北行き来できる時間が少なく、「開かずの踏切」と称された。 終戦後、進駐軍のジープ等も多く、シガレットサービスと声を掛けると、ガムなどをくれることもあった。 夏の夕涼み時には、国道沿いに各家からばんこを持ち出し、近所集いうちわ片手に囲碁、将棋、世話話など一時の涼を楽しんだ思い出がある(昭和30年頃まで)。 商売人20名前後相集い、たのもし講が各地で行われ、夕食を共にし、昼の疲れを癒すとともに、持ち寄った数十万円を入札による順番で借り、商売の運転資金としあったし、今でもその流れは散見される。親睦会として三夜待ちは今でも行われている。 国鉄貨物の物資の運搬は、もっぱら荷馬車が使われ、空になった荷車にぶら下がったりして遊んだ(昭和22〜23年頃)。現はがくれ荘の北、アーサーマンションあたりに貨物車の集積場があり、現道路南側に運送会社が数軒あり、荷馬車が行き来していて、馬糞が道路上に落ちていた。 旧佐賀駅には操車場があり、蒸気機関車の向きを変える作業が面白かった。 草場、現九電ビルの所に佐賀県農事試験場があり、農事参観デーの期間は多くの参観者が列をなした。西側の流れ小川の水は清く、蛍の見物に出かけていた。 草場天満宮についても、その歴史、謂れなど今は知る人はない。草場の現坂本アパートあたりに神野劇場があったとされるが、今は知る人もない。 ちなみに、神野区画整理事業(昭和30年〜40年頃)、佐賀駅の移転(昭和51年頃)。 国道264号線の二度にわたる拡幅工事などで、前述の三青果市場は移転し、鉄道高架のおかげで便利になった一方、商店は移転、廃業が相次ぎ、草場区は永年居住の人と最近入居された人が混在している状態。ちなみに、高層マンション林立の中で、佐賀で一番にできたマンションは、草場の中央青果市場の跡地に立ったエスペランサ1号館である(昭和45年頃と思われる)。 旧佐賀駅前にあったロータリーの「一粒300メートル」の看板塔も懐かしい。 昭和28年大水害の時は、堀江通りの自宅は床上浸水などで畳を上げた思い出がある。 佐賀駅移転前の線路の跡、鉄橋跡(現佐賀新聞社北側)は今も判別される。 高木瀬の現佐賀市文化会館、県総合体育館の所に第55連隊の陸軍兵舎があり、堀江通りでは、陸軍軍隊の行軍訓練の隊列が見られた思い出がある(昭和20年以前)。現県総合運動場は旧軍隊の広大な練兵場であったが、兵舎は終戦後大陸からの引揚者の宿舎となり、協楽園と称された(昭和34、5年頃まで)。 【商店の慣わし】 正月初荷 お盆薮入り 11月〜12月 誓文払い 徒弟制度(弟子入り) 旦那、番頭、若頭、小僧、丁稚、奉公 残念ながら、二度にわたる国道拡幅事業、神野区画整理事業、郊外型商業施設などで、紡績通り、 堀江通りの商店街の繁栄の面影はない。 ※写真は草場天満宮
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掘江神社神像群
重要有形民俗文化財
掘江神社の創建は明らかでないが、日本武尊や神功皇后にまつわる地名説話の社伝がある。 この神像群には、一国一社の国名神号が墨書されている。これは後宇多帝が蒙古との合戦のとき、戦勝祈願のため納められたものと伝えられている。 神像はすべて一本彫製の木造で、千栗・河上・当社の肥前三社の神像を除き、顔面のみを現わして体部は円筒形に彫り放した実に素朴な彫像であって、像高20~25センチメートル、坐像か立像かも判明しない。神像群の総数は、68像が保存されている。すべてに墨書があり、神名や全国六十余州の国名などが記されている。クスノキの枝を丸彫りしてつくったもので、一部には表皮がのこり、大きく干割れているものもある。 肥前国の3体の神像(掘江大明神像、河上大明神像、千栗八幡大菩薩像)は、他の神像より丁寧につくり、永正8年(1511)の製作年と作者元笠の名が記されている。専門的な技巧をこらしたものではないので、作者の元笠は職業的な仏師ではないと推測される。 当時の民間信仰を知る格好の資料で、全国各地の神仏を一箇所でつくったものとしては、貴重なものである。
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浮立玄蕃一流
重要無形民俗文化財
弘治2年(1556)5月、未曾有の旱魃(かんばつ)を憂い掘江大明神に雨乞祈願のため、神職山本玄蕃がこの浮立を舞ったので、「玄蕃一流(げんばいちりゅう)」というようになったと伝えられる。 玄蕃は自分の年齢47歳にちなみ、大もらし20、小もらし27を以って囃方(ばやしかた)とした。また、カサボコ数本はすべて女性の着物と帯を用いたとされる。 『鍋島直正公伝』に、由来久しき歴史を持つ古い雅の歌舞は華奢のものではないと言うので幕末鍋島藩の大窮乏時代非常時倹約令が出た時も他の歌舞、遊戯は一切停止となったが村々の浮立だけは興業を許して取締まるだけにした。 とある。現在では掘江神社の氏子草場、東神野、西神野の3か町が交替で毎年11月3日の祭典(供日(くんち))に奉納する習わしとなっている。 浮立の構成はほぼ次の通りである。(人数は概数) 天衝舞1、大太鼓打ち3、もりゃーし(締太鼓)20、鉦打ち20、笛方6、謡方3~5。この外宰領、世話人、供人が参加する。天衝舞は、日・月と雲龍を画いた直径1メートルくらいの紙張の前立を頭に被り、たっつけ袴をはき、腰にゴザをつけている。 「道行き」で、神社まで向かい、拝殿前で「本囃子」「まくい」が奉納される。天衝舞人は、太鼓の撥(ばち)を両手に大太鼓を打ち謡につれて舞い踊る。 天衝舞浮立ともいい、佐賀平野部を中心に天山山地から有明海沿岸まで広く分布している。
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神野のお茶屋
重要文化財
佐賀藩10代藩主、鍋島直正(閑叟)が弘化3年(1846)に佐賀城下北西のはずれ、多布施川沿いの神野に築いた別荘である。別荘は木造平屋の寄棟造り藁葺1棟と木造平屋建の四方廻屋根、藁葺(わらぶき)1棟の2棟からなり、この2棟を瓦葺の廊下で継いでいる。 寄棟造りは桟瓦葺の庇(ひさし)をつけ、南と西は1間幅の縁がめぐる。主室は4間半に2間半の畳の間で床の間がつき、この主室の北側に4間に1間の畳の副室がついている。 四方廻屋根は、4棟を方形に結合した形で方形に畳の間が廻り、その中央は庭園となっている特殊な構造である。東棟の北隅に千鳥破風本瓦葺の玄関が付いている。 2棟ともに床下は吹放しで、本柱は、すべて1面又は2面が矧(は)ぎ付けとなっている。庭園は、天山を背景にして多布施川の清流をひいて、池、小山を造り、石と樹木を配したもので、別邸の建造物とよく調和し、江戸時代後期の県内では代表的庭園である。 藩主の休息の場としては粗末すぎると感ずるほどの質素なものであるが、構築は藩をあげての総意で樹木や庭石などは、藩士たちが持ち寄ったものである。この別荘は大正12年(1923)に鍋島家から佐賀市に寄附され、神野公園と名を改めて、市民の憩いの場として親しまれている。
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大興寺所蔵大般若経 一括
重要文化財
大興寺所蔵の大般若経は、600巻(欠本10本)で全巻を通じて見れば筆者も数名を超え、筆写の時期にもかなり大幅な年代差があるが、大半は僧慶雲、同玄詮の両人によって天授3年(1377)から同4年にかけて筆写されたものでこれが中核を成している。天授年号は南北朝時代、長慶天皇の代に当たり、南朝号は衰微、九州における南朝方征西将軍府も次第に衰退しつつあった時ではあるが、この写経の奥書にはほとんど南朝年号を記している。 慶雲、玄詮の写経にまじって僧寛海等の写経も若干あるが、寛海筆の永和4、5年(1378、79)筆写の奥書がある。永和は、北朝(将軍方)の年号であって、永和元年は天授元年に当たる。また、同じ慶運筆の写経の奥書にも天授4年1月24日までは、天授年号を用いているが、2日後の1月26日の奥書には、北朝年号を用いて永和4年と記している。 当時の政治的情勢の変化を反映して歴史的興味が深い。室町時代や江戸初期の補巻も2、3あるが、ほとんど南北朝時代の写経であって、時代的にいえば県指定を受けている高木瀬正法寺の写経に次ぐものである。なお、若干の経巻には寄進者の名が記してあるが、それらには、高木瀬村、三溝村等の居住者名が多い。これらは、江戸時代の人々である。写経の大半が南北朝のもので奥書が多く当時の歴史を考察する上で、仏教遺品としてその価値が高い。 残念ながら、平成18年2月13日未明の失火により、一部が焼失し、焼失を免れた経巻は佐賀県立博物館に寄託されている。