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[旧佐賀市][ 人物]は161件登録されています。
旧佐賀市 人物
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秀島常次郎
明治33年2月10日若宮で生まれた。大正8年3月佐賀師範本科1部を卒業して、高木瀬小学校訓導任命以来各校訓導を歴任し、昭和7年兵庫小学校首席訓導となった。昭和17年小副川小学校長となり、以後県視学に補せられ、藤津、佐賀教育事務所長を経て、昭和25年3月兵庫中学校長となった。28年依願退職したが、教育功労者として県教育委員会より表彰された。 昭和30年以来兵庫町公民館運営委員長となり逝去されるまでその職にあった。30年4月佐賀市議会議員に当選し、2回8か年市政に参画された。郷土の教育関係の仕事はもちろんのこと、広く地方自治に参画され、博識多才円満な人柄はそのすべてを解決し、まとめられた。昭和48年、永年にわたり教育、学術文化の向上に多大の功績があったので、勲五等瑞宝章を授与された。病身を忘れ多年にわたる活躍のための過労か、授賞まもなく同年11月30日、73歳で永眠された。兵庫町民の哀別の情はまことに深く、その逝去を惜まない人はなかった。
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小柳勇
大正14年2月堀立に生まれ、昭和16年3月佐賀中学校を経て、4月海軍甲種飛行予科練習生として土浦海軍航空隊に入隊し、続いて海軍第28期飛行練習生となった。昭和18年卒業と同時に海南島、比島、上海などに渡って、太平洋戦争の最前線で航空隊員として活躍した。幸いにして復員したが、兵庫町青年団の再建に尽くし、県連合青年団の体育部長、総務などの要職に就き青年団の発展に貢献した。昭和26年上京して国会記者となり、参議院議員特別秘書を勤め、昭和34年帰郷した。県会議員選挙に当たり、全町挙げての推薦によって立候補を決意しみごとに当選した。34歳で当選以来毎回トップで当初より4期、土木、総務、産業の各部委員長を歴任して力量を発揮した。「誠実に生きること」をモットーに人々の手足となり、労苦を惜しまず、わけ隔てなく人に接した。 昭和49年病魔の犯かすところとなり、「なすべき約束を十分果たせなかったことが残念だ。」と人々にわび永遠の眠りにつかれた。 年齢いまだ49歳、惜みてもあまりある人材であった。葬儀は2月24日、兵庫小学校体育館で挙行された。26団体の合同葬となり、会葬者は式場にあふれ、運動場はもはや駐車の余地がなかった。
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宮崎林三郎
安政4年(1857)4月、瓦町上分に生まれた。父栄蔵は村治に功績を残したが、氏は専ら農業に従事した。教育はわずかに寺子屋で読み、書き、そろばんを学んだのみで、兵役を終えてから商業の道に進み相当の財産をなしたが、中途不運にも資産を一時に失った。その上、平素の眼疾が悪化し、遂に失明するに至った。「富をつくるのは永遠の計ではない。家運を挽回するためには堅実な仕事を残すことだ。」と悟り、盲目の身にもかかわらず、発明考案に一生を捧げようと決意した。氏は、わが国が天然の漁業国でありながら漁網製造のすべてが旧式であることに着目し、漁網製造を始めた。 しかし、成功するに至らなかったので発明の方針を手近かなものに変え、繩ない機の発明が農家の福利増進に最適と考えた。これが宮崎式繩ない機発明の発端である。 何ごとも一朝一夕で成るものではない。苦心さんたん、家計は衣食に困るまでに窮迫した。職工の賃金なども不払のままであった。滝弥一(鍛冶屋)、滝屋佐一(大工)は先年来、雇われて同機の製造を助けてきたが、盲目で赤貧洗う貧乏でありながら林三郎夫妻の燃ゆる情熱に感動し、無報酬で発明に協力していた。 8年の歳月、あらゆる苦労を乗り越えついに繩ない機は完成したが、皮肉にも世間はその価値を認めなかった。林三郎は人に売るよりも一家を挙げて繩ないを実行し、機械の真価を証明しようと考えた。やがて村民は機械の利便を認めながら、高価であるとの理由から購入するものがなかった。両職人も仕方なく涙をのんで暇をとった。 林三郎はついに絶望し、病床にしんぎんしたが、夫人はよく貧困と闘い、病床の夫を助け、子女を励まし女の道を全うした。氏もまた妻の姿に決然と起ち上り、家具はもちろん、櫛、かんざしまで金に代え、職工を探し廻り、再びその製造を始めた。 時あたかも日露戦争が勃発し、繩の需要はうなぎ上りとなり、機械による大量生産に追われたが、機械に不慣れのため製品の粗悪さが目立ったので、家人を技術訓練のため各地に遣わし、やっと世間の信用を得るところとなった。こうして宮崎式繩ない機の名声は、一時に高まった。 我々は郷土の先輩のこの苦心をかみ締め、単に発明の結果を賞するよりも、盲目の身を以て農家の福利増進を念じ発明に執念した気概と夫人の内助の功を手本とすべきである。
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原口甚七
明治43年4月、愛知県農会編集の『全国篤農家列伝』に、本県から兵庫村原口甚七、東川副村堤善太郎、西川副村山口覚太郎、芦刈村土橋徳三、岩松村古川亮雄の4名が挙げられ、その業績が記載されている。 原口甚七氏は弘化3年(1846)10月5日兵庫村瓦町に生まれた。代々庄屋を勤めたが、父は家を出て一家をたてた。氏はその長男である。18歳の時、父の家業を継いだが家産も豊でなく、学業を修める余裕もなかった。21歳の時父を失い、艱難辛苦家業に専念した。明治3年親兵に選抜されて東上し、4年後帰村した。再び農業に従事し、その改良増収を期して専心努力の結果、1反歩につき実に11俵2斗の類例のない収穫をあげ、人々を驚かせて氏の名は一躍近村に響いた。その後も農業を本位に養蚕の副業にも努力した。こうして明治43年に至ったが、各種の共進会や品評会で幾多の賞与や賞状を受けること数十回に達した。 佐賀県で害虫駆除を奨励した当初、農民は害虫の何であるかを知らず、「気候によって発生し、気候によって死滅する。」と考え、かえって氏の害虫駆除を妨害することもあった。人々のあざける心を気に留めず、害虫の駆除予防を黙々と実行した。氏は県から害虫駆除委員を嘱託され、県内に害虫駆除予防実行組合が設置された際には、同区が最初に選定され、その成績優良によって授賞、模範地区に指定された。組合長としての氏の業績は誠に顕著であった。氏は区民と申し合せて毎月各戸10銭以上の貯金を継続していたが、明治41年を期し、勤倹貯蓄組合を設立して勤倹力行の奨励普及に努めた。原口甚七氏は原口又二の祖父である。
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田口英山
明治7年5月本庄町高柳に生まれ、曹洞宗鎮西学校、東京高等中学、さらに東京神田国民英学会高等科で英語研究2か年、明治32年1月、曹洞宗管長から特任で長興寺住職となった。布教のかたわら、多くの公共事業に関係したが、主な事績を列記する。 一、明治35年3月から佐賀孤児院事業に従事した。 一、明治41年1月、居村に青年会を創立し会長を勤むること26年。 一、大正5年から県下の処女会、婦人会を巡回して生活改善、精進料理の指導にあたること100回以上、大正11年曹洞宗管長から生活改善布教師の任命を受けた。 一、大正10年知事より、佐賀県社会事業協会の顧問に推薦され、昭和2年11月にはその理事に就任。 一、その外、地区の少年少女を集めて毎週土曜会を開き、夏休みには寺内で夏季学校を継続すること15年、また県知事の嘱託により日本赤十字社及び愛国婦人会事務に従事すること9年、賞与を受けた。なお全国処女会指導講習会、全国教化団体講習会、全国児童保護事業大会に佐賀県代表として派遣された。 一、表彰 大正13年3月31日、佐賀郡長から社会教育功労者として表彰状、置時計1個授与、大正15年10月、特別大演習に際し、本県功労者として、平素の功労に対し摂政宮殿下より紋菓子を賜った。 昭和5年2月11日、佐賀県知事より、佐賀育児院事業の功績顕著を賞され、賞状ならびに純銀盃一組(三段)を授与された。 昭和24年8月15日、75歳で示寂。
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村岡清三郎
明治14年2月、堀立に生まれた。同34年佐賀中学校を卒業して37年小学校本科正教員の免許状を得て日新小学校、西郷小学校の訓導を勤めた。大正元年10月、私立成美高女の教員嘱託となり、大正4年中等学校教員免許状をとり、大正9年成美高女の教諭となった。 退職後兵庫村史編さんの際総合執筆を懇望され、編さん会長柴田徳一、世話係宮崎八郎と協力し、資料の整理分類執筆に長期に渡って努力した。また教育家としてその功を認められ、高等官五等待遇従六位に叙せられた。
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古賀廉造
法学博士古賀廉造は佐賀市高木町に生まれたが、少年のころから中野吉の叔父、松永源十郎宅で成長した。後上京して刻苦勉励、法学を修め内務省に任官した。原敬(元首相)と肝胆相照らす仲となり、累進して警備局長、関東都督府長官(関東庁長官の前身)として敏腕を振るった。 当時佐賀県出身の中村純九郎(北海道長官、貴族院議員)水町袈裟六(会計検査院長)西久保弘道(東京市長)と親しく将来の大物と嘱望されたが、個性が強く、政界の人々としばしば意見が対立し、潔く職を辞して、自然を友とし、東京池尻に居を定められたが、まもなく逝去された。佐賀市南堀端にある故副島種臣伯の記念碑は古賀博士の書である。
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下村運之助
下渕、下村竹一家の家紋は唐松の芯である。下村生運の第3子、下村利充に始まるこの家紋から、下村利充家の末裔と考えられるが、分家の年代など不明である。下村竹一の祖父である運之助は宮本武蔵の二刀流の流派を伝え、その免許皆伝を得ている。この免許皆伝の巻物は竹一氏が所蔵している。だいたい一国一名に代々伝えられているので、運之助以後は、この二刀流の免許皆伝を得た者はいない。 ついでに本町出身の武道家をあげよう。 剣道:本告寅吉(稗蒔)蓮池藩師範、本村健吉(立野)台湾警察四段錬士、松永万太郎(傍示野)六段 柔道:宮崎八郎(若宮)六段(昭和13年当時、県有段者会長)、大島治喜太師範 明治20年、伊賀屋に生まれた。佐賀中学を経て京都武専を卒業し、明治43年警視庁に奉職した。その後剣道に精進し、当時この道の第一人者で、大御所であった中山博道範士に次ぐ実力者と称され、居合九段、範士として警視庁の師範となった。昭和20年逝去された。
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岸川健一
明治21年3月29日、岸川辰一の長男として東渕で生まれた。兵庫小学校、佐賀中学校を経て、明治44年5月陸軍士官学校を卒業し歩兵少尉に任官。昭和3年8月少佐となり、昭和12年大佐に昇進した。同13年7月麻布連隊区司令官となり、同15年3月、第6守備隊長として満州虎林に赴任、同16年3月少将となり第29旅団長に栄進した。その後独立混成第17旅団長に転じ、同20年3月中将に昇進し第63師団長となり、6月興安南省通遼に着任した。終戦後はシベリア吟府特別第45収容所に抑留され、29年6月10日、奉天省撫順で戦病死された。 遺骨は昭和30年に内地に送還されたが、生前の勲功により正四位勲一等旭日大綬章を贈られた。
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松本弘二
兵庫町出身の洋画家で、二科会の重鎮であった。明治28年9月東渕に生まれ、昭和48年6月、78歳で逝去された。佐賀中学を中退し、東京鍋島邸内で画塾を開いていた県出身の高木背水に洋画を学び、その後黒田清輝画伯に師事し、34歳の時に渡欧、パリの美術学校に入学したが、山口亮一などの東京美術学校出身の官学系画家とは別の道を歩いた。 26歳で初入選、終始二科会を中心に活躍、総理大臣賞、青児賞などを得たが特に海外での評価が高く、個性的な新鮮さがあり、画壇の異色的存在であった。
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小林鍵次郎
氏は中野吉で、真島貞二郎の二男に生まれ、9歳の時父親に死別した。7人の幼児を抱えた母の悲壮な姿が忘れられないという。進学をあきらめた氏は、高等小学校卒業後農業を手伝ったが、通信教育を受けて勉学を怠らなかった。大正7年、福岡の簿記学校に学び、40人中5人の採用試験に合格して当時の福岡銀行に入社した。 大正10年、日本の大不況に不安を感じた氏は、どんな辛苦をなめても学識を広め、事業を起し身を立てようと決意した。氏は銀行をやめて上京し、東京神田紺屋町の境野香料店に就職した。会計係を勤めながら、日本大学商科夜間部に入学、大正14年3月卒業し、同年4月日本橋四丁目薬品商小林鍵次郎の養子となった。 昭和14年、香料商を独立開業し、薬品商を廃業した。開業当初は天然香料の産地調査、成分、調合香料の研究に没頭し、販路の拡張など人知れぬ苦心と努力をかさねた。 昭和25年、養父の遺志を継いで2代目小林鍵次郎を襲名した。昭和48年、日本橋本町に8階建のビルを改築して本社を置き、別に株式会社小林香料化学研究所、小林不動産株式会社を設立経営している。氏もまた郷土が産んだ立志伝中の一人である。 昭和9年5月、東京香料商組合理事に就任以来同会の理事、相談役を勤め、その他各種団体、地域公共の役員に推挙され、功労者として幾多の褒賞を受けたが、昭和45年に勲五等双光旭日章を授与された。 氏の長男は東京大学を卒業後、フランスソルボンヌ大学に2年留学後現在東京大学の教授である。他の2子もそれぞれ立教大学経済学部、学習院大学経済学部を卒業し同社の専務、取締役として活躍されている。 氏は郷土を思う情に厚く、小、中学には二宮金次郎の銅像、グランドピアノ、放送機具、体育館の引幕などを寄贈され、またプール建設や図書館移転拡充の時にも多額の寄付をされている。兵庫農協が資金に窮した際に相当の資金を融通してその再建に貢献された。中野吉の地区公民館の完成は主として小林氏の寄付によるもので、地区住民は深くこれを感謝し、公民館の敷地に氏の表彰碑を建立した。
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真崎義男
氏は明治42年9月27日、若宮で生まれた。父は与一、母はシマの末子である。父は氏の生後10月の時に死亡し、母は12歳の長男以下5人の子どもを抱え苦労を重ねた。幸に母の生家は隣村で伯父は村長を勤める名家で、祖父母の愛撫と援助によって成長することができた。 7歳のころ、ふとしたことで足が痛みだし、医者からリューマチと診断され、以後2年近く尽せるだけの治療と看護を受けたが、下肢の強直は回復せず、遂に竹の杖にすがって歩く身となった。学問の好きな氏は学校近くに行っては子ども達の勉強ぶりをそっと見ていた。氏は当時窓辺で聞いた「夏も近づく八十八夜……」の茶摘みの歌が忘れられないという。 やっと復学することとなり、学校側では留級の可否が論議されたが、1年生当時の担任であった吉岡先生の主張が通り3年生に編入された。勉強は好きであったが体操は出来ないので、体操の時間はいつも教室で1人こつこつと自習していた。氏は勉強が出来たせいか、人にいじめられることもなく順調に成長した。6年に進級し、親類や村人までが仕立職人がよい、針うちさんがよいと勧めたが、船津先生が「こんな頭のよい子を進学させないのは惜しい」と、兄弟達を説得し受験することとなり、見事に佐賀中学へ入学することができた。 氏が中学5年になると、校長は裁判官に、国語の教師は脚本家志望にと勧めたが、家族の者の意見で歯科医がよかろうと昭和3年4月、大阪歯科医学専門学校に入学した。当時の経済不況は「大学はでたけれど」という映画のように、東大卒業のいなか廻りの警察官がいた程である。「白米1俵、4斗入りで農家の売価が5円」下宿料は1か月20円から28円程度で、遊学するのも並大抵ではなかった。転々と下宿を探しては代り、家庭教師や歯科医師の手伝いなどをして学費を稼いだ。やっと学校を卒業して、昭和8年1月、正式に真崎歯科医院を開業し食うだけは困らなくなった。しかし、昼間は京都府立医科大学の選科研究生第1号として、なお歯科研究に打ち込んだ。夜間は自宅で開業医として働き、よくも体が続いたものだ。 そのころ、真崎歯科によく遊びにきていた陸軍少佐、間野氏の勧めで香川県人、篠原正一の長女、とし子さんと結婚した。氏は26歳、妻は22歳であった。まもなく2児の父親となった。日支事変は泥沼に入り、研究を止めて伏見とさらに河原町四条の両方で開業した。
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西中野の郷士、中野庄四郎
天正2年(1574)、龍造寺隆信の跡継ぎ政家御一家並びに御家中、幕下知行付によると、 一、102町 中野庄四郎 佐嘉郡古瀬中野郷士とある。 佐賀には中野姓が両統あって、この中野庄四郎は、古瀬郷中野村の城主中野杢助一統の祖である。他の一統は中野神右衛門といい、武雄のわかれで西目の中野(武雄市朝日町字中野)の城主である。 中野庄四郎の子孫に良純という人があるが、鍋島勝茂の寵愛が厚く6組頭から御年寄役に進み、明暦3年(1657)、勝茂が江戸で逝去の時、哀悼のあまり当日麻布の大泉寺で殉死した。時に45歳であった。
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鍋島生三入道と監物
鍋島生三入道は鍋島加賀守直茂の一門で、天文22年(1553)に生まれ、幼時から賢く他に優れていた。性は剛直、忠誠で非常に孝心深く、また仏教に帰依して入道となり、生三斎と号した。 元亀3年(1572)龍造寺隆信は姉川城主信安を目達原に移し、その後に鍋島清久の嫡男清正の子、周防守賢純の三男道泉(生三斎)を城主とし、信安の所領を継がせようとした。 やがて鍋島直茂が後事を託するに足る人材を求めた時、下村生運も「高楊庵住持道泉は御家と御縁の方であり、希代の器量人であるから、還俗を仰せつけられるようお頼みなされては。」と申し上げた。直茂は早速生運を使者として通うこと数十度、ようやく道泉の承諾を得た。それでも髪だけはといって、入道姿のままで押し通した。 下村生運入道、藤島生益入道、鍋島生三入道は、鍋島に三入道ありで有名であったが、この三入道の二人までが、兵庫の住人であったことは、当町区の誇りであろう。 生三入道は堀立の光円寺の開基で、享年77歳であった。監物は生三入道の子である。その知行所は堀立および他の2か村にわたって、288石であった。光円寺住職生三(しょうさん)家はその子孫である。堀立分外野地区の東方、土手に沿うて濠に三方囲まれた約4反歩(3969平方メートル)の一角屋敷があるが、これを生三屋敷という。今は多くの人々に分割されているが、数十年前はここの茶摘みは初夏を迎える農家にとって楽しい行事の一つであった。
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神代左京と真崎村
老松神社の一の鳥居に彫られた銘の終りに、「延宝七歳春日、鎮西肥前州佐嘉郡巨勢荘真崎村、大檀主神代左京太夫物部氏直良」とある。元来神代氏の知行は久保泉村から西郷、境野にかけてあったが、巨勢荘真崎村とあるから真崎村にも知行があったと思われる。 真崎村は現在の若宮と推察される。若宮には神代方の豪勇、西村惣衛門がいたが、神代方勇士の末孫の方々が居住されていたことからも考えられる。某記録に残る真崎屋敷は今の若宮六丁野、宮の前松永宅の西側にある一角の田(公門氏所有)と言い伝えられる。
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成富兵庫とその恩恵1
成富兵庫茂安は、永禄3年(1560)佐賀郡鍋島村増田で生まれた。父は成富信種といい、隆信に仕えた勇将である。兵庫は幼名を新九郎信安、後に茂安と改めたが、信は隆信の信、茂は直茂の茂を賜わって改めたものである。「鍋島家に成富あり」と他藩にせん望された。加藤清正は1万石をもって任官を勧めたが、「譜代の主家を捨てられぬ」とこれを断った。 直茂が今山の敵陣を襲った時、茂安は父信種に出陣を願った。父は固くこれを止めたが聞かず今山に行き戦場を見て帰った。茂安11歳の時である。直茂はこれを賞して左右の臣として重く用いた。以後国内を始め筑前、筑後、肥後、薩摩などの戦いに従軍すること数十年、至る所敵なしで幾多の戦功を立てた。朝鮮の役では鍋島茂里とともに、藩の先鋒となった。吉州の戦いでは、その一隊で敵の大軍を斬りまくり、唐島の戦いでは敵船数隻を捕獲している。また上国に使者となり、あるいは諸侯に往来し、その応待は見事であった。 とくに彼の治績は、土木水利にかつ目されるものがある。市の江川の末流を引いて、巨勢の荒野に流入し、兵庫の沃野を開拓したことは、郷土史の上で忘れることはできない。また永島川を改修し、三法潟郷に新田を開墾し、三根の諸村に樹木を植えて佐賀城を隠し、遠くから見えないようにした。佐賀城を別名沈み城というのはこうした意味だともいう。 成富兵庫の水利土木工事のうち、最大なものは石井樋の天狗鼻、象の鼻の施工である。この結果、灌漑と飲料水は確保され、支流末流に至るまで水量豊かに、広く幾万の人々の生活を潤した。また千歳川の築堤は、北は千栗村から南は坂口村に及んだ。その長さは12km余、外堤には竹を密植し、水漏れを防ぎ、本堤には多数の松を植えて堤防を固めた。この堤防が完成してから佐賀の東方地帯は、例年の水害から免れることができた。
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成富兵庫とその恩恵2
成富兵庫の生涯をみれば、その前半は幾多の戦いに大功を立て、後半は治水事業に卓越した頭脳と妙技を発揮し、民衆の利益を図った。戦乱の際には兵馬を走らせ、国が治まれば開発事業に全力を打ち込み、文字通り寸暇もなかった。兵庫が救民済世の傑士と敬慕されるのも当然のことであるが、我々は歴史を知ると共に、過去の偉人の遺産に報恩の念を忘れてはならない。 明治44年11月15日、明治天皇が肥筑の野に行幸の折、その功を賞せられて従四位を追贈された。 成富兵庫茂安の名を町名としたこのゆかりの地に、みたまを合祀し300年の式年祭典が各地で行われた。(昭和9年) 兵庫の川西部の渕地方は、鍋島山城守の所領であったが、もともと茂安の知行3.200石の中から分地して山城守がもらったものである。
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真崎照郷(てるさと) 藍綬褒章に輝く発明王
製麺機の発明で知られる真崎照郷(てるさと)は、天才的発明家で立志伝中の人であるが、その血のにじむような努力と苦労は世にあまり知られていない。嘉永5年(1852)12月12日、巨勢町高尾に生まれた。家は代々酒造業で、父は手腕家で世の信望も厚かったが安政3年35歳で亡くなった。この時、彼は6歳。父は「世を益し名を挙げよ」と遺訓したという。父の死後、賢婦人で家業の切り盛りを一人で行なう母親の手で養育されたが、母は「立派に家名を挙げ先祖にむくいよ」と戒めていた。彼は少年時代、政治家になるより、自分は世に生きる道は他にあるのだと考えていたという。 少年の頃、彼の心を強く刺激したのは、蒸気機関の発明者ジェームス・ワットの話であった。ワットの生命が蒸気機関の上に永久に生き、人類のために多大の貢献をしていることを考えた彼は、自分も前人未踏の発明界に身を投じ、世のために尽くしたいと決意した。こうして、最初の発明は、青年時代、軍籍時代の測量の体験から生まれた測量器真崎円度の発明で、明治7年24歳の時であった。 彼は、助手と共に測量のため田園を奔走していた時、麦畑の麦に気をとめた。麦の実は安いが麦粉からの素麺はその4倍の値になる。そこで、神埼などの手延素麺のような手間がかかり、熟練者でなければ市場価値として製品化できない状態ではなく、機械製麺にしたらどうだろうかと思いつき、明治9年26歳の頃から、製麺機の考案にとり組むことにした。こうして、研究、試作、失敗と製麺機の発明のための狂人的な生活が始まった。家業は使用人に任せ、酒造場は失敗した試作品の山と化した。知人、親類は、無謀な計画を止め、家業に専念するように説いたが聞き入れず、ついに、家業はおとろえ、発明研究のために、先祖代々の資産、田畑も手放し、悲惨な境遇におちいった。そして苦労を重ね、第7回目の試作の後、明治16年春、製麺機と製麺法の発明が完成し、機械製麺という前人未踏の新天地が開拓された。明治9年研究を志して以来、8年間の苦心難行を越えた努力の結果であった。この後は、特許権の獲得に苦労をしたが、明治21年3月、麺類製造機械という名称で、最初の特許権を得た。この後、大正10年までの間、29種の製麺機関係の特許を獲得した。さらに博覧会などでの受賞は64回にも及んだ。日清戦争後、にわかに需要が高まり、業務拡張、職工増員をし、さらに大阪に分工場を設けた。36年、大阪での内国勧業博覧会で1等賞を得たばかりでなく、明治天皇・皇后陛下が製麺機を御高覧なさる栄誉を得た。日露戦争後はますます販路も拡大し、明治40年、藍綬褒章が下賜された。さらに、明治44年肥筑で陸軍大演習が行われたとき、行幸された天皇は、彼を久留米大本営に召され工業功労者として拝謁された。また、米田侍従が工場を訪問され、彼及び従業員一同にご訓告と励ましを述べられるという栄誉がなされた。真崎鉄工場は製麺機のほかに、電気を利用する機械が将来性があると察知した彼の計画で、電動機、変圧機、電気開閉機、鉱山機械にも分野をひろげ、その需要に対応して日本電気鉄工株式会社を大正7年に設立した。この会社は、電力機械灌漑を創案し、クリーク地帯の農業に多大の貢献をしたことで有名である。また、昭和初めの恐慌で、電気開閉器の部門を戸上電機製作所が継承することになる。彼は発明事業ばかりではなく、郷土の村治に大きな力を尽くした。明治23年から大正11年まで、村長、村会議員、学務委員などをつとめた。とくに、大正6年67歳のとき、八田江改修を提案しその基礎を作った。大正11年には、村より第1回名誉職表彰状を授与された。さらに、大正15年大正天皇から発明奨励金が下賜され、帝国発明協会から恩賜記念賞ならびに大賞が下付された。この年12月、県知事ほか多数の知人、村人の手で真崎照郷翁表旌記念碑が巨勢神社境内に建立された(※)。そして昭和2年3月9日、77歳で病没した。真崎照郷翁は、郷土巨勢がもっとも誇る大偉人である。 ※記念碑は現在巨勢神社東の川岸にあり。
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真崎仁六 日本鉛筆工業の創始者
鉛筆工業の創始者・真崎仁六は、嘉永元年1月13日(1848)巨勢村高尾に生まれた。18歳の時、維新の風雲に遭い、長崎留学で英語を学んだ後、東京に出て郷党の先輩大隈重信が後援する日本最初の貿易商である日本起立商工会社に勤務し、金属工場の技師長として明治9年のフィラデルフィア博覧会に、翌10年パリ万国博覧会に製品出品のため渡欧した。 この博覧会場で美しく陳列された種々の鉛筆を眼にした真崎は、その実用性に驚くと共に、日本での製造を固く心に誓った。帰朝後、多忙な勤務の余暇に研究と試作をくり返し、5年後、目的の芯を作りあげた。さらに、軸木材の研究、工業化するための機械の設計に苦心を重ね、明治20年成算を得て職を辞し、真崎鉛筆製造所を設立し、本邦初の鉛筆工業が誕生した。製造法研究、工場経営、販路の開拓など苦心を重ね、明治36年「三菱」の商標を登録した。明治40年東京博覧会2等賞銀牌、43年ロンドン日英大博覧会1等賞金牌、大正3年御即位記念博覧会1等賞金牌を授与された。創造する心、不屈の精神の持ち主の氏を先輩に持つことは、町民一同の誇りである。
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秋山虎六 海軍少将、戦没者鎮魂碑文揮毫
秋山虎六海軍少将は巨勢町東分上の出身で、父勘助と母コマの末子として生まれた。幼年の頃から両親の厳しいしつけのもとに教育された。勉強好きで、特に読書に余念がなく、多人数で騒がしい自分の家を抜け出して近所の空家で学習に励む熱心さであったという。 佐賀中学時代は常に成績優秀であり、近所の子ども達を集めて学習指導に当る努力家であった。佐賀中学より海軍兵学校に進み、心身共にたくましい青年に成長し、特に第1次世界大戦では、陸戦隊長として軍艦の大砲を引き揚げて指揮し、ドイツの租借地である青島で攻戦して活躍したことは有名である。やがて海軍少将となり、墓参帰郷の彼の威容は素晴らしく、故郷の人々を圧巻した。また、巨勢小学校を訪問しては、児童たちに常に勉学の尊さと規律ある人間性を訓示として強調され、当時の校長山田秀作氏と懇談されている姿を一目見ようと児童達が職員室に押しかける有様であったという。帰郷の折は必ず佐賀弁で土地の人々を親身に励まされ、彼の故郷に対する畏敬の念は賞讃された。巨勢神社の戦没者鎮魂碑の書は、彼の筆になっている。
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真崎誠 乃木大将とともに学習院で皇太子教育
真崎誠は明治7年8月18日(1874)巨勢町下新村で、父真崎利平と母ツネの長男として生まれた。幼年の頃から秀でた知恵の持ち主で、大人を圧倒することも度々であったという。勉強好きで、佐賀中学校より第五高等学校に進み、さらに東京帝国大学の政治科と国史科を専修したが、常に成績優秀であり、特に大学時代には旧佐賀藩主鍋島家の奨学資金を授かった。明治32年には東京帝国大学大学院研究科を修了して、内閣総理大臣秘書官室及び内閣書記官室の勤務に就き、一方教育者として、当時の日比谷中学校、麻布中学校で教鞭を執った。明治35年には学習院大学の教授となり、学長乃木希典の指導のもとに教育活動に専念した。明治43年より45年まで、歴史地理学の研究と各国の教育制度調査を兼ねてフランスに留学し、ロシア及びヨーロッパの全諸国を見聞するとともに、アメリカ合衆国にも渡って視察を重ねた。帰国後は留学の成果を発揮して教育界で活躍し、大正2年の三重県師範学校長をふりだしに群馬県師範学校長、山口県師範学校長を歴任した。昭和3年にはその業績にもとづき勲四等瑞宝章を授かった。
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水町義夫 詩人・第4代西南学院長
水町義夫は明治18年(1885)2月16日巨勢村修理田に生まれた。明治45年に東京帝国大学文科を卒業して佐賀の成美高等女学校の教師となり、その後も、福岡の東筑中学校・中学西南学院・西南学院高等部で教鞭を執った。 学生時代、佐賀において、日本基督教会宣教師のピタズ氏より洗礼を受け、さらに北九州市若松で伝導していた尾崎源六牧師の指導のもとに、彼は熱心な基督教徒となり、その布教にも寄与した。 昭和2年9月より1年間、米国ケンタッキー州ルイビル大学に留学して英文学研究に専念した。特に英詩の研究をテーマとし、詩人としても活躍し、西南学院校歌は彼の作詞である。校歌には島崎藤村のロマンティックな精神と新約聖書の思想が強く歌われている。帰国後、彼は再び教育界に入り子弟の教育活動に全力を注ぎ、特に昭和8年より23年の長い期間にわたり西南学院長を務めたことは有名である。戦前、戦中における状況下で、基督教主義私学という困難を克服して、教育指導ならびに学校経営を守り抜いた彼の業績は高く評価され、昭和40年に勲三等瑞宝章を授かった。
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小森ナカ 日本婦人の鑑
嘉永元年(1848)3月11日、小森ナカは大字牛島5番地に生まれた。父は喜助、母はセツという。男子が誕生しなかったので、藤津郡吉田村の農業・宮崎慶次郎の二男清七をナカの夫として養子に迎えた。一家は小作農で生活は貧しかった。夫婦の間には1男4女ができ、和気に満ちて家運もよくなると思われたが、ナカが29歳のとき、不幸が襲いかかってきた。夫の清七が明治10年6月に病死、続いて父喜助も翌11年に、持病の喘息で長く病床についた。一家8人の生活が、ナカの肩にかかってきた。 ナカは心を強くして勤労に励み、農業の合間に、神社などの祭りに出かけ菓子・果物を商い、農閑期には縄をない、子どもの世話もよくみた。さらに、病床の老父の看護を精魂をこめて尽くした。しかし、明治17年父は病死した。その間7か年、孝養をつくし婦道を発揚したとして、明治17年3月佐賀県令鎌田景弼から表彰され、金1円が下賜された。 その後は、老母の孝養につとめ、娘たちを見事に育てあげ嫁がせた。母は、明治40年に亡くなった。小森ナカは、模範的な婦人像として、郷土に不滅の光をなげかけている。
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山崎クリ 孝女・母娘とも薄資善行賞受賞
クリは高尾宿の人で、温順な性格の持ち主であった。父は大正12年に亡くなり、母トラが日本電気鉄工株式会社の女工となって、家族6人を養うこととなった。一家の柱となり老父に仕え、子女の養育に力を注いだ。家は資産なく他からの援助もなく、貧困だった。そこで薄資善行者として金20円の後援資金が与えられた。しかし、大正14年4月、重病にかかり無料診療券により医療を受けることになった。このとき、本人クリは女工となり、勤勉に仕事に励み信望厚く、1日金1円の収入があった。15歳の少女の身で、一家の生計を立て、祖父と病母に仕えた。 大正14年申請された薄資善行者として金20円の資金が与えられた。一方、母の病気は重くなり、県立好生館に入院治療を受けたが、大正15年結核で亡くなった。その後クリは、ますます職務に励んだ。祖父清助は胃縮腎病にかかり北島医師の無料診料券で手厚い治療を受けたが、昭和4年に亡くなった。妹シカは長崎県埼土村に養子縁組をし、弟春次は唐人町植松薬店に奉公。本人と妹トウの二人暮しとなり、生計に苦労することはなくなった。山崎クリは、昭和4年12月、文部省から表彰された。
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梅林庵藩祖・鍋島直茂が修学と初陣
直茂は、天文7年(1538)本庄の館で鍋島清房の二男で生まれ、幼名を彦法師と称した。 天文10年(1541)4歳の時、小城の千葉胤連の養子となり10年を過ごす。同20年、14歳で養家を辞し佐賀へ帰り、梅林庵で2年余り手習、学問を修得した。天文22年、諸将の謀略で一時筑後に逃れていた龍造寺隆信が佐賀に帰り、諸将を退却させ村中城に入った。これに際し、直茂は龍造寺軍で参戦した。16歳の時で梅林庵から出陣した。これが直茂の初陣となった。
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龍造寺隆信の母親と慶誾尼
慶誾寺は、戦国大名龍造寺隆信の母慶誾尼が開基の寺です。慶長3年(1598)、慶誾尼の願いで東与賀の流長院をこの地に移しました。慶誾尼が、2年後の慶長5年に亡くなると、法名を慶誾妙意大姉とし、ここに葬りました。同時に寺名が般若山慶誾寺となりました。 慶誾尼は、戦国時代九州三大勢力(肥前・龍造寺、薩摩・島津、豊後・大友)に数えられ、肥前、筑前、筑後、肥後、豊前の一部と壱岐、対馬まで傘下にし、五国二島の太守とうたわれた龍造寺隆信の母であります。また、藩祖鍋島直茂の父清房に再婚し、直茂の義母でもあります。豊臣秀吉にも通じ、子隆信や直茂への指南役、相談相手として、戦国時代の女の実力者でした。生前墓である逆修墓は、高傳寺にありますが埋葬されている墓は慶誾寺にあります。墓所の中程に龍造寺隆信の弟で多久家の祖長信と2代多久安順から6代茂明までの墓塔が並んでいます。鍋島藩政では、親類同格の格付けで、領地を治めていました。
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鍋島直正夫人盛姫
盛姫は11代将軍家斉の最も愛する姫で15歳のとき、12歳の花婿直正に文政8年(1825)12月27日輿入をなす。直正は天保元年(1830)17歳になり家督を相続し、10代藩主となった。当時の藩の財政は度々の風水火災にて窮迫していたので藩政改革を決意した。 天保6年(1835)困窮の佐賀藩に追い打ちをかけるように佐賀城二の丸が焼失した。この時盛姫の斡旋によって幕府から築城費を2万両貸与された。これが基となって天保9年(1838)に新城は完成した。直正が右近衛少将に昇任したのも盛姫の働きによるものであった。 また盛姫は進んで藩の改革節減に協力し費用を節約した。当時の騒然たる社会情勢の中にあって、英明な直正は西洋知識を導入し、長崎警固に励み、維新の人材を生み、数々の業績を残した。盛姫は夫君を助け貢献したが、37歳の若さで、弘化4年(1847)に逝去した。高傳寺墓地内に「文粛夫人」と標された墓がある。
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朝倉弾蔵尚武
明治7年(1874)4月13日早朝佐賀城内の刑場の露と消えた朝倉尚武は、通称を弾蔵という。天保13年(1842)佐賀藩士の家(東寺小路、久納屋敷の南)に生まれ、弘道館に学んだ。特に兵学に優れていたという。 維新戦争では、佐賀藩隊の軍監付きや小隊長として奥羽に転戦凱旋後、東京遊学を命ぜられて昌平黌に入り、明治4年(1871)に帰郷した。 この年、佐賀藩の兵制改革で二個大隊が編制され、一番大隊長に任命された。 廃藩置県の際には、政府の命令で、一大隊を率いて上京。陸軍少佐として東京鎮台に入った。間もなく帰郷して養蚕を始めた。明治6年(1873)に佐賀県権大属となったが、8月辞職して上京。10月征韓論が決裂して副島、江藤の辞職に遭い、江藤と協議の上、11月佐賀に帰った。 そして、同志の中島鼎蔵、山田平蔵、生田源八、櫛山叙臣らと協議して征韓党を組織し、朝倉、中島、山田と隊伍の編制を担当した。 佐賀戦争では、征討軍に対する陽動作戦として三瀬峠に陣し、福岡県早良郡内にも出没した。六角耕雲、勝谷親康、今泉千枝らが幹部として戦ったが、戦い利あらず、朝倉は後事を六角耕雲に託し鹿児島へ走った。3月10日市来駅で官憲に自首、佐賀に護送されて斬罪となった。34歳。 三瀬峠(佐賀市三瀬村大字三瀬字境峠、福岡市早良区大字曲渕との境界の峠)における朝倉勢はわずか10挺の小銃しか持たなかったが、征討軍と福岡県貫属隊を大いに悩ませた。これを見た征討軍の山田顕義少将が「ここの佐賀兵を指揮しているのは、多分、朝倉弾蔵に違いない」と言ったという。 明治16年(1883)ごろ、司法卿時代の山田顕義が佐賀を訪れた際に、乾亨院(佐賀市中の館町)にある朝倉弾蔵の墓に参った後、山中一郎の墓参もして両家に香典を届けたという。山田は朝倉とは陸軍少佐時代の旧友であり、山中には、山田が外遊したとき世話になったからということらしい。 また東京で朝倉が江藤に会った時、江藤が「もし佐賀で挙兵したら何人ぐらい集まるか」と問うと、朝倉は「二個大隊ぐらい集まる」と答えた。後で朝倉は「実力では二個大隊どころか、二個小隊もない」と語ったという。 朝倉は豪快な武人であった。友人の徳久恒範が朝倉に「鹿児島の桐野利秋に会ったらどうか」と勧めたところ、朝倉は「桐野は単なる人殺し男である」と答えながら、続いて「それでも桐野が自分と事をともにするというなら自分は辞せない」と桐野を褒めた。そこで徳久が桐野をなじると、朝倉は「もし桐野と自分が同数の兵力を持って戦ったら、自分が桐野の首を頂戴できる。」と言って大笑いしたそうである。 幹部12名と共に賊徒の汚名を受け処刑されたが、その後明治22年(1889)2月11日に大赦令により青天白日の身となる。 墓は中の館の乾亨院にある。(乾亨院は水ヶ江城の本館のあった所で、永正年間(1504〜1521)に龍造寺家兼が建立したと言われ、水ヶ江龍造寺家の一門、特に諫早家の祖を祀る。四徳山と号し、臨済宗南禅寺派。本尊は聖観世音菩薩、明治7年の佐賀戦争で戦死した熊本鎮台兵の合葬碑がある。)
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百武志摩守と圓久尼
九州五国二島(肥前、肥後、筑前、筑後、豊前、壱岐、対馬)の太守龍造寺隆信公の重臣百武志摩守夫人は俗名を藤子(斐子)と呼び、後、仏門に入り剃髪して圓久尼と称した。 女子はかねて大刀無双の誉高く武道の達人であったばかりでなく、博く和漢の学に通じ、婦人としての修養研鑽に努め、その人格は当時衆人の敬慕する所であった。百武家に嫁して以来、志摩守出陣の場合は、その身もかいがいしく武装を整えて後に続き、槍の柄に兵糧、草鞋等を着けて、家人に持参させていた。戦国争乱の時代とは言え、婦人としての心掛誠に感心の外はない。 天正12年(1584)3月、龍造寺隆信公は大軍を挙げて島原に出陣されたので、当時筑後、蒲船津の城を預っていた志摩守も留守を夫人藤子に委せてこれに従って行った。 ところが不幸にも3月24日隆信公戦死の悲報が伝わったので、藤子の方は夫志摩守の戦死も疑いないものと思い、居城を出て郷里八田に帰り、直ちに百武家の菩提寺である与賀町の浄土寺に入り、惜し気もなく剃髪しその名も圓久尼と改めた。やがて夫志摩守戦死の悲報が伝わった。勿論かねて覚悟の事ではあったが今更のように悲しみ、念仏に日を過しながら専ら夫の冥福を祈ったのであった。 圓久尼は、その後鍋島直茂公の懇望によって止むなく再び郷を離れて蒲船津城に入り、島原陣に生き残った家人を集め、僅かの兵力をもってこれを守ることになった。女子の身として先には一城の留守居を務め、今また引続き守城の任に当るとは、その剛毅武勇の程敢て男子に劣る所が無かった証拠ともいうべく、隆信、直茂両太守の信頼の程もまた知るべきである。 隆信公戦死の後、筑前立花の城主戸次道雪、岩屋の城主高橋紹運はこの機に乗じ、大友氏の兵を加えて天正12年(1584)9月15日龍造寺に反旗を翻した。そして龍造寺の諸城を攻略するため、まず筑後の西牟田、酒見、榎津等の民家に火を放ち続いて蒲船津の城に攻め寄せたのである。圓久尼はかねて覚悟の事とてちっとも騒がず、自ら武装を整え大長刀を小脇にかいこみ、城戸口に出で必死となって防戦したので、寄せ手も大いに驚き容易に近づく事が出来なかった。そのうちに、榎津から馳せつけた中野神右衛門清明の援助を得て幸に危急を脱することが出来た。 かくて勝利を得た圓久尼は思い出深い蒲船津の城を出て八田の旧宅に帰った。その後「尼の身として城番は不似合である」と直茂公に申し上げたので、直茂公も深く考えられてその願いを聞き届けられた。 その後、郷里にあって靜かに念仏しつつ亡夫の冥福を祈り続けて、元和元年(1615)8月16日波瀾多き一生を終ったのであった。法名を圓久妙月大姉という。 市内多布施三丁目天祐寺に、安らかに眠る御墓の前にぬかづく時、戦雲の巷に咲いた一輪の大和撫子散って星霜ここに400年、日本婦徳の亀鑑としてりりしい女子の生涯が、髣髴として我等の心に甦り、言い知れぬ感に打たれるのである。
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石井如自
石井如自の墓が常照院にある。本名は又右衛門忠俊といい、別名を嘲鴎子ともいった。元禄14年(1701)12月24日没す。法名を養法院安節日時居士行年67歳。 石井如自は佐賀藩の名門家である石井久左衛門(正純)の二男である。父は如自が6歳の時死し、祖父茂忠(九郎右衛門)に育てられた。20歳の頃にはすでに歌道や俳諧を深く研究していたらしく、鍋島光茂時代の御歌書役であった。 明暦2年(1656)安原貞室が師匠松永定徳没後、師の遺撰集を補訂して『玉海集』を上梓したが、貞室が補った部に如自の句を入れてあるほどだから、当時佐賀藩の如自の句がいかに高く評価されていたかがわかる。当時の俳諧は主として、滑稽、洒落を題材としたものが多く、言葉の組合せなどに苦心していた。 如自はこれらの内容に満足することが出来ず、心の俳諧を作りたいと松江重頼を仲介して、談林風へ近付いていった。この重頼は貞徳の高弟であって、かつて『毛吹草』という大著書を出した事もあるが、この貞門の作風にあきたらず、一派を立てた人である。 重頼は別号を惟舟ともいっていたが、長崎への旅行の途次、佐賀に立ち寄った事もある。寛文12年(1672)刊の重頼の『時世粧』には如自の撰句をその集の巻頭に載せている。 大日本人名辞書には、談林派伝系の西山宗因の下に井原西鶴等と並んで石井如自の名が連ねられている。 「如自の句」 盗人と いはまに手出す わらびかな 月夜よしと 巻は夜よし 簾かな 雪の中に 夏は来にけり 卯木垣 月見るや 額のなみの 末の松 花ちらす 童部は風の 子どもかな 試筆にも 齢はゆずれず すずり石 朝日影 にほへる山や 早松茸 懐や 道のゆくての 冬こもり 石井如自は『葉隠』で「大器量の者にて候」と評されるほどの人物で、佐賀近世文壇の先駆的作家である。また光茂は歴代、佐賀藩主のなかで最もよく和歌を嗜んだ。蛎久天満宮に連歌を奉納し、以来佐賀の例となった。