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[旧佐賀市][ 人物]は161件登録されています。
旧佐賀市 人物
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香月経五郎
佐賀戦争と共に忘れてならないのは、極楽寺にその墓がある香月経五郎のことである。 香月は佐賀戦争に亞者(参謀格)として参加し江藤と共に処刑された。 香月は嘉永2年(1849)早津江に生れ、藩校弘道館に入り非凡の秀才ぶりを発揮し、明治2年21才のとき東大の前身たる大学南校に入ったが、翌明治3年文部省の第一回海外留学生としてアメリカ、イギリスで勉強した。この留学も江藤の推薦によるものといわれた。 明治4年、岩倉具視一行の遣外使節団がアメリカに向け出発した。佐賀藩主鍋島直大侯も同行したが香月が直大侯の案内役に当り、イギリスに渡り、直大侯と香月の2人は主從共共オックスフォード大学で勉強した。 香月の専攻は経済学であったが、大学南校の同窓やその指導を受けた人々には、後の東大教授、法学博士田尻稲次郎、枢密顧問官男爵目賀田種太郎、同伯爵伊東巳代次などがあったから、若し命を保っていたなら、わが国の重要な人物になっていた人であろう。 墓は極楽寺本堂の正面にあった。老坊守さんのお話によれば、先代坊守さんから、香月さんの死骸は首と胴を青竹でつないでここに埋めてあるといわれていたそうである。 極楽寺には経五郎氏の甥の陸軍大佐 香月三郎氏の墓もあったが、納骨堂の新築と共に何れも他の場所へ移され、墓石のみが淋しく残っているのは、烈士のために痛恨の極みである。
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戦国領主の八戸氏
古い歴史書によれば八戸氏は祖先高木氏の流れである於保氏より出で、佐賀郡八戸村の村名を取って八戸氏と称した。 龍造寺家兼の娘婿であった胤宗(八戸右エ門太夫)の孫八戸下野守宗睗の頃隆盛を極め八戸、新庄、津留、諸隈、益田、木角、成導寺等佐賀市西部を支配していた。妻は龍造寺隆信の姉ながら、山手の方の神代氏と同盟関係にあり、常に龍造寺軍と争っていたため、弘治3年(1557)元旦、龍造寺軍に攻められ八戸城は破却された。 城主宗睗は神代氏に逃れ、大友宗麟との戦い(今山の戦い)で大友側につき敗れた。この時、傷をおいこの傷のため杠山で落命し、清流寺に葬られたと伝えられている。 宗睗の息子八戸助兵衛宗春は、隆信公の母慶聞尼の命乞いにより助けられたが八戸姓を許されず山本に姓を変えさせられ、後に鍋島家の家臣中野家から養子を迎え(山本神右エ門)その子が山本常朝(葉隠の口述者)とされている。 よって山本常朝や八戸一族の墓、神代家の子孫の墓等が八戸氏の菩提寺龍雲寺に見られる。また八戸家の墓が天福院でも見られる。
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西久保弘道
文久3年(1863)5月、鍋島村(現在の鍋島町大字八戸坂井)に生まれる。 明治28年(1895)東京法科大学を出て内務省に入り、愛知県事務官、石川県警部長、山梨、静岡、茨城、滋賀各県の内務部長を経て福島県知事となり、次いで土木局長、北海道長官、警視総監等を歴任された。その後、貴族院議員に勅選され、大正15年(1926)には東京市長に就任し、昭和2年(1927)に辞任された。 また、剣道は無刀流の範士で、武徳会副会長として大いに武道を振興された。愛郷の念に富み、常に後進の指導に当たられた。 長崎本線の鍋島駅の新設は、氏の尽力の結果と言われている。
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森広次
明治24年八戸生。37年青藍校卒業後通信教授国民中学校に入学し、農業の傍ら新知識の修得に努力し、農業特に酪農の開発と振興に献身した。其の間、村農会総代及評議員、村会議員、農協監事、大井手土地改良区総代、村畜産組合評議員、郡市酪農組合監事、市中央酪農監事、県経済連牛乳工場運営委員、県酪農組合連合会副会長などを歴任し、ために鍋島村長、佐賀市長、県知事、郡市畜産組合長、大井手土地改良区理事長などから表彰状を受け多年の村治、産業特に酪農に対す功績をたたえられた。昭和12年当時物資不足にて特に母乳不足のため空腹に泣く乳児が多く、ために鍋島村の乳児死亡率が佐賀郡下で1−2位の高率にあることを知り、その対策として乳牛飼育の必要性を痛感し、東与賀村から9頭の乳牛を導入した。その鋭い感覚と人道的で新鮮な着想とには深く敬服するものであり、彼の鍋島酪農の先駆者としての功績は甚大である。
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吉田善吾
西神野出身。海軍大将。明治28年(1895)3月神野小学校卒業、佐賀中学より海軍兵学校に進み、海軍大将となる。その間連合艦隊司令長官もつとめる。昭和4年(1929年)5月の神野小学校創立50周年記念式典のときは、海軍大佐で戦艦「陸奥」の艦長、卒業生を代表して祝辞を述べた。
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宮地嘉六
小説家。明治17年(1884)6月11日生まれ。神野小学校を中退して仕立屋の見習小僧となりその後、佐世保の海軍造船廠の見習工施盤になり、それから呉、神戸、長崎、東京の大工場を転々とする。その間に文学に興味を持ちだし、堺利彦、幸徳秋水等の著者によって社会主義思想に近づき、呉海軍工廠のストライキで首謀者として投獄されたこともあった。初めは、所謂前期プロレタリヤ文学に属する労働者文学であったが、まもなく自由な立場の作風に移った。貧しかったころは、広告の裏に原稿を書いていたという。 作品に、「煤煙の臭ひ」「或る職工の手記」「旅浪者富蔵」「愛の十字街」などがある。 神野公園には「豆腐屋は近し手軽な自炊かな」の句碑がある(※)。 昭和33年(1958年) 4月10日没。 ※石碑の背面には「宮地嘉六文学碑」とあり、正確には文学碑である。この文学碑は昭和34年4月に建立された(昭和34年4月6日付佐賀新聞)。
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松平晃
歌手。本名福田恒治。高岸(現多布施3丁目)に生まれる。大正13年(1924年)3月神野小学校卒業。佐賀中学に進み、昭和5年(1930年)3月卒業、東京の武蔵野音楽学校に入学、1年後東京音楽学校に入学した。在学中の昭和7年ポリドールで吹き込んだ「忘られぬ花」が大ヒット、翌昭和8年(1933年)3月、音楽学校を中退してコロンビアの専属歌手となる。そして、「サーカスの唄」「急げ幌馬車」「花言葉の唄」などの大ヒットで、コロンビアの看板歌手になり、藤山一郎、東海林太郎、霧島昇等とともに日本の歌謡界をリードした。松竹映画「純情二重奏」にも出演したりした。 晩年に、松平晃歌謡学院を設立、新人歌手の養成につとめたが、昭和36年(1961)3月8日急死、48歳の若さであった。 前記の外のヒット曲に「人妻椿、上海航路、何日君再来、初恋日記、夕陽は落ちて、希望の首途、利根の舟唄、港の雨、泪のタンゴ」などがある。
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開山桂巌禅師
開山和尚桂巌禅師(1627(寛永4年)〜1710(宝永7年3.6))、信州は松本の出身で、祖先には足利尊氏の弟直義の幕下、淵辺伊賀守があり、また太田道灌が遠縁に当たるという家柄の出。12歳で出家して丹波の桐江庵、その時の師僧の示寂の後、熊野の山中や河内金剛山麓に見桃亭と号する禅室を結び、12年という歳月の後、鍋島丹後守光茂(佐嘉本藩二代)に請われ、佐嘉領内の臨済宗東福寺派の春日山高城寺に入寺。寛文7年(1667)42才の10月に、小倉広寿山福聚寺の即非禅師(1616〜1671)に参禅、同11年5月に神埼の宝珠寺開山となる翠峰和尚と共に入室、印可を付される。同年11月、隠元禅師80祝寿に登檗し、禅師により、桂巌の号を賜る。 即非禅師は、隠元禅師、二代木庵禅師とともに書の大家として黄檗三筆と謳われる。佐賀には、曹洞宗高伝寺の山門額、龍泰寺の寺号額などに有る。 さらに桂巌禅師は、時の肥前鹿島藩主鍋島和泉守直朝に請われ、能古見の福源寺の住持となり、延宝5年(1677)8月1日鹿島藩祖直朝(本藩初代勝茂の五男)、直条によって再興された普明寺の開山として請われ上堂、6年後の天和3年5月1日祝国開堂(大小の方丈、斎堂、鐘楼など整備)。その後、桂巌禅師は貞享2年には普明寺を退き、同じく鹿島の医徳寺に移り、元禄7年(1694)には金立の円珠寺に移る。その後も鍋島市兵衛による須古の阿弥陀寺復興にも関わり、卓龐寺としての開山に請われたのが宝永4年、3年後同7年の3月6日に円珠寺方丈にて84の生涯に寂を示された。その他にも諌早では性空寺、痴雲寺、普明寺下の法泉庵、多久福檗寺等の開山となり、佐賀県内にて広く最初期の黄檗の教化を流布し、法を継いだ弟子の数は21名と、当時第3世代の黄檗の和僧としては傑出した大徳、高僧であることは云うまでもない。 桂巌禅師の墓所は、鹿島の普明寺、佐賀の大興寺、多久の福聚寺、佐賀金立の円珠寺にある。
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福満寺102代の住持
室町幕府が衰え、群雄割拠の戦国の世を迎えた。九州でも、九州探題の今川氏に対して、大友、少弐の両氏が手を握って対抗し、佐嘉地方でも、龍造寺氏を中心にして、攻防が繰り返されていた。 享禄4年(1531)大内義隆が、将軍の命を受けて、少弐氏討伐のために攻撃をしかけて来た。少弐資元、冬尚父子は、高祖城から多久梶峰城に退いて来たが、敵が綾部城(中原町)に攻め入ったので、ついに勢福寺城(神埼郡)に逃れて来た。 龍造寺家兼は、これを迎え、江上元種に守らせた。10月になって、大内勢が勢福寺城を包囲したので、家兼は和睦の申出を受けて、勢福寺城を明け渡した。しかし、大内氏が次々に少弐氏の所領を没収したため、12月29日に多久に走り、松法師丸(冬尚)は蓮池の小田資光を頼って、小曲城に入った。 大内軍は、なお手をゆるめず、武雄、上松浦などの豪族を合わせて、多久梶峰城を包囲したので、防ぐすべもなく、城を抜け出て、譜代の家臣今泉播磨守、窪、平原の3人を呼び、7歳になったばかりの元盛の後事を托して、自殺して果てた。そこで元盛主従は、北川副村江上の福満寺に身を寄せた。 その後、今泉播磨守は、雲水に身をやつして、諸国行脚に出て、少弐家の再興を計ったが、幕府が、再興を許さなかったので、ついにあきらめ、剃髪して仏門に入り、101代の住持となり、また元盛も仏門に入って102代の住持となって、余世を送った。今も、その墓が残っている。
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古賀傳太郎
明治13年(1880)に生まれ昭和7年(1932)に亡くなった、北川副町出身の陸軍大佐。 明治34年(1901)士官候補生として騎兵第3連隊に入隊、日露戦争に従軍。39年功5級金鵄勲章授賞、昭和6年(1931)満州事変に出動、7年1月9日錦西城付近で勇敢に戦闘、羅南第27連隊長として戦死する。 その戦いぶりが当時軍国美談として、著作(「鳴呼壮烈古賀連隊長」外)や演劇などで喧伝され、佐賀城内に銅像が建った。
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古賀喜三郎
弘化元年(1844)に生まれ、大正3年(1914)に亡くなった、佐賀郡北川副村古賀に生まれた教育者。 父は、平尾吉左衛門、幼くして同村中野古賀家の養子となる。安政年間(1854〜1859)15歳で佐賀藩陸軍所に入り砲術を修め、技能優秀3年の後免許相傳を受け、長崎伊王島台場司令を命じられる。在任6ヶ月にして帰国し、維新に際し九條道孝に従い砲隊司令として奥羽征伐に参加した。平定の後大総督宮殿下から感状を賜り、後藩の兵術訓練部長に挙げられる。明治5年更に海軍兵学校幹事として奉職し、海軍中尉から少佐に進み、14年予備役仰せ付けられる。その後、海域学校の前身一貫舎を創立して専ら海軍軍人志望者の養成に努め、以来宅地家財及び恩給等全部を学校のために尽くし、32年4月には校舎を拡張して日比谷中学を創立する。39年同校を私立海城中学と改称。この間卒業生を出すと三千余名内海軍将校一千余名の多きに達した。墓は東京麻布の賢崇寺にある。
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野田常貞
嘉永4年(1851)に生まれ、明治40年(1907)に亡くなった、佐賀市北川副町古賀出身の政治家。 明治5年(1872)東京でドイツ語を勉学、7年(1874)帰郷「尚風社」を興し、法律を研究、弁護士となる。武富時敏と共に「肥筑日報社」を設立、政界に入って進歩党に属す。16年(1883)県会議員となり、21年(1888)議長となる。27年(1894)衆議院議員となるも1期で辞め、再び県会議員となり議長職を長く務める。30年、農工銀行設立のとき頭取となり、佐賀県経済界にも貢献した。
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龍造寺隆信
龍造寺周家の嫡子。享禄2年(1529)2月15日に水ケ江の城内で生まれた。7歳のときに、鬼丸・宝琳院で出家し、18歳で還俗して龍造寺宗家を継ぐ。 性は、剛勇果断で、肥前を統一し、筑後、筑前などを攻略した。天正10年、5州2島の太守と称せられた。 天正12年(1585)に、島津軍と島原の沖田畷で戦うが敗れて戦死した。享年56歳。 昭和4年に生誕地である中の館に巨石の記念碑が建立された。
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山本常朝
山本重澄の70歳の時の子であり、万治2年(1659)6月10日に佐賀市片田江の横の小路の屋敷で(中ノ橋小路)で生まれた。 9歳で2代藩主、鍋島光茂の御側付けになる。その後、小々姓、御書物役、京都役を勤めた。 元禄13年(1700)藩主光茂の死去により出家した。 金立村黒土原の庵で1710年から鍋島論語とも言われる「葉隠」を田代陣基に口述した。 享保元年(1716)、葉隠全11巻が完成した。その4年後に常朝死去。享年61歳 誕生地記念碑が中ノ橋小路にある。
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大隈重信
天保9年(1838 )2月16日に佐賀市水ヶ江会所小路で生まれた。藩校弘道館に学び、蘭学寮では西洋の新知識を吸収した。 明治に入り、参議、大蔵卿などを歴任、明治14年の政変で下野して、立憲改進党を組織した。 また、東京専門学校(のちの早稲田大学)の創立者である。 明治31年と大正3年の2回、内閣を組織して総理大臣となった。大正11年85歳で逝去。生家が保存されていて、記念館も建設されている。
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佐野常民
文政5年(1822)12月28日に佐賀市川副町早津江で佐賀藩士、下村光贇の五男として生まれる。 11歳の時、佐賀市水ヶ江枳小路の藩医佐野常徴の養子となり、14歳の時弘道館内生に抜擢された。 藩主鍋島直正の知遇を得て、藩の艦船製造に当たり、のちに明治政府に入って海軍創設に尽力した。 大蔵卿や農商務大臣などを歴任し、日本赤十字社の前身である博愛社を設けた。 この他、日本美術協会を設立し、更に博覧会総裁も務めた。明治35年81歳で死去した。
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副島種臣
文政11年(1828)9月9日に藩校弘道館教授であった、枝吉南濠の次男として佐賀市鬼丸町に生まれた。長兄は、勤王家である枝吉神陽である。のちに、赤松町南堀端の副島利忠の養子となり、藩命で京都に留学し皇学を研究、長崎では英学を学んだ。 明治政府では参与職や外務卿を勤め、のちに外務大臣、枢密顧問官となる。 中林梧竹と共に近代書の源流と言われ、明治38年に78歳で死去した。 佐賀県社会福祉会館敷地に生誕記念碑が建立されている。
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島義勇
文政5年(1822)9月12日に佐賀市与賀町精小路に生まれた。弘道館に入り、従兄枝吉神陽に学び、のちに江戸に出て佐藤一斎の門に入った。 藩主鍋島直正の命により、蝦夷や樺太を2年間探検し、直正が蝦夷開拓使長官になったときに同判事となり札幌市街の建設を行った。 明治7年に江藤新平と共に佐賀戦争を起こして敗れ、4月13日に佐賀で斬られた。53歳。 ※『明和八年佐賀城下屋舗御帳扣』(2012年、鍋島報效会)によれば、島義勇の出生地は「西田代横 同小路南側 従東到西 六番」で、現在の佐賀市西田代にあたる。 ※写真は佐賀城公園の島義勇之像
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大木喬任
天保3年(1832)3月23日に佐賀市水ヶ江三丁目(現南水会館)で生まれた。佐賀藩士・知喬の長子で、勤王論を唱える。 明治維新で江藤新平と共に東京遷都を主張した。のちに、東京府知事、民部卿、文部卿、元老院議長、枢密院議長などを勤めた。 明治32年に68歳で死去。 南水会館に巨大な記念碑が建っている。 ※出生地について『明和八年佐賀城下屋舗御帳扣』(2012年、鍋島報效会)によれば、「片田江北より六番横小路南側従西到東 五番」とあり、現在の佐賀市水ヶ江二丁目、枳小路で生まれている。
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百武兼行
天保14年(1843)6月7日に佐賀市片田江で生まれた。 明治4年に鍋島直大に随伴して、英国やイタリアで洋画を研究した。このころ、外務書記官で経済学を専攻し、画業は余技であったが、多くの傑作を残している。 日本洋画界の先達として著名である。明治17年42歳で死去した。
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下村辰右衛門
東京・新橋を走った東京鉄道馬車が、電車になるため、「不用になる客車やレールを使って、佐賀県内にも馬車鉄道を敷いたらどうか」、という話が出てきた。当時東京鉄道馬車の社長が、佐賀市出身の牟田口元学(貴族院議員、中央製糖、石狩石炭取締役その他)だったので大隈重信を介して、在京中の藤津郡出身の代議士永田佐治郎へ伝えられた。永田佐治郎は、この話しを聞いて鹿島の実業家牟田萬次郎氏(22歳で県会議員、佐賀米穀取引所開設発起人、広滝水力電気会社事業着手等)へ話しをした。佐賀市と鹿島市の実業家は早速賛成し、鹿島側は永田佐治郎を代表に佐賀側は実業家の下村辰右衛門を代表に交渉を進めた。この交渉が成立し、佐賀馬車鉄道、通称「馬鉄」が明治37年2月18日明治橋から佐賀市諸富町まで開通した。その後県庁前、御幸橋、佐賀駅まで延長されて、昭和3年まで佐賀市民に親しまれ運行された。下村辰右衛門は、佐賀市牛島町(現在東佐賀町)思案橋側で酒造屋を営んでいた。校区出身の国会議員は、現在までこの人一人である。 構口にある二十三夜尊設立に寄付されたことが石造物に記載されていて当時の面影を偲ぶことができる。また、神埼郡千代田町の『次郎物語』で有名な下村湖人の養父に当たるともいわれているようである。
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島本良順
代々漢方医の家に生れ蓮池町に開業、寛政年間(1789年〜1801年)長崎にて蘭学を学び、佐賀に帰り(1804年〜1818年)蘭方医の看板を掲げ、一方では門弟に講義を始めた。文政5年(1822年)執行勘造(後の伊東玄朴)が長崎から帰った良順へ入門した。門弟には伊東玄朴をはじめ、金武良哲、大庭雪齊など多数の入門者があった。天保5年(1834年)佐賀藩医学寮が八幡小路に設けられ、最初は漢方を教えていたが良順が寮監となって初めて蘭学が加えられた。こののち鍋島直正の時初めて種痘が実施された。因みに安政5年(1858年)今の片田江に医学寮が移ったが、現在の好生館の始まりである。島本良順は人柄、学力ともに認められ蓮池藩の侍医に抜擢された。晩年は寂しく、報いられることなく嘉永元年(1848年)11月13日に病没し、呉服元町光明寺に葬られたが、のちに柳町専福寺に改葬された。
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青木熊吉
元治元年(1864)〜昭和14年(1939) 佐賀郡金立村(現、金立町)に生まれる。 明治16年に設立されたガラス工場の精煉社は、幕末期佐賀藩主鍋島直正の命によって建設された精煉方(現、多布施3丁目)が改称されたものであり、正式には精煉合資会社といった。明治維新後、精煉社でのガラス事業は、鍋島家が管理し、明治21年(1888)に青木熊吉、岡部才太郎をガラス製造の技術習得のため、東京の工部省工作部へ派遣し、英人ゼームス・ピードについて研究させた。両人帰国後は、精煉社ではもっぱらガラスを製造、ランプ、コップ、ハイ取り器なども生産し、販路は県下一円、近県、遠くは支那、朝鮮、台湾におよんでいた。 後に、青木熊吉は、精煉社を譲り受け、量産にはげみ財をなした。 当時、精煉方近くの多布施川に架けられていた掃部殿橋は、土橋であったため、水害のたびに流され、そのたびに住民は橋造りに駆り出されていた。そのため、住民の要望を入れて青木熊吉は、橋の建設費を出資し、明治38年(1905)長さ11m、幅4mの石橋を架けた。青木熊吉の名にちなみ「青木橋」と名づけられた。 尚、現在の「新青木橋」は、昭和38年(1963)3月に老朽化したために、架け替えられたものである。
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石井龍右衛門
文政8年(1825)〜明治15年(1882) 国学者として名をなした。名は鉄、通称龍右衛門・松堂と号した。北島武兵衛の次男に生まれ、のち石井家の養子となった。 弘道館及び夏秋富雄に学び、弘道館指南となったが、病気のために辞してのち佐賀駄賃小路(現在の伊勢町)に家塾純粋社を開いて子弟を教えた。日本外史・大日本史を講じて、愛国思想を鼓吹した。朱子新註を説いた夏秋富雄の学説をついで、彼の国典経史を基礎とした枝吉神陽学派と相応じ、古賀精里学派の旧朱子学に対立して重きをなした。 豪放活達で幕末新進の青壮年に尊敬された。副島種臣と親交があり、江藤新平、石井竹之助、山田平蔵らはその門下生であった。 佐賀市伊勢町に純粋社の記念碑が建っている。著書に「純粋社詩文鈔」がある。
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石田一鼎
寛永6年(1629)〜元禄6年(1693) 石田平左衛門実之の嫡男として、佐賀城下多布施(現在の多布施1丁目)に生まれた。幼名兵三郎、通称神左衛門のち安左衛門と改めた。神儒仏三道に通じ、17歳にして藩主鍋島勝茂に近侍し、29歳の時2代藩主光茂のお側相談役としても仕えた。 寛文2年(1662)一鼎34歳のとき、光茂の怒りを買い、禄を召し上げられ小城藩にお預けの身となり、西松浦郡山代郷に幽閉された。七年後許されて佐賀郡平野に帰り、のち同郡下田(大和町梅野)に閑居し、この時下田處土と号した。延宝5年(1677)剃髪して一鼎と号した。 葉隠の口述者山本常朝が一鼎と交わりがあったのは、一鼎が、すでに50の坂を越えた下田處土と号していたころと思われる。湛然和尚と共に、山本常朝にとって人間形成の上に大きな影響を与えた。 65歳で没した一鼎の墓は、閑居の地、下田と佐賀市与賀町の水月寺にある。水月寺は、石田家累代の菩提寺である。下田祠堂の墓には、梅山一鼎處士、水月寺の墓には、碑面仏像のかたわら「無得軒梅山一鼎願渓愚璞庵主」としるされ、どちらも妻室円室貞固大姉と法名が並び刻まれている。 著書に「要鑑抄」「日峯公(鍋島直茂)御壁書二十一箇条註」「泰巌公(隆信)譜」などがある。
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右近刑部
慶長20年(1615)没 佐賀城総普請に際して、初代藩主鍋島勝茂が、右近刑部を都会支配役にして、町造りを命じている。右近刑部は蛎久天満宮(佐賀市鍋島町蛎久) の社人で、菅原道真の子孫といわれる。町づくり支配を命ぜられた右近は、中元寺新右衛門とともに、慶長町、高木町、元町、白山町、岸川町、伊勢屋町、六座町、八戸町などの町々を造った。城下町完成後は藩主の意向によって町人となり、伊勢屋町に旅人宿を営んでいた。 『葉隠』の中に、「右近刑部は歴々にて候を、御約束にて町人に召成され、伊勢屋町にて旅人宿仕り候様に仰付けられ候、刑部死後、栖竜院へ刑部菩提のために、勝茂様より御知行御付けなされ候」とある。刑部の墓は、鍋島町蛎久の栖竜院に残っており、六座町に右近刑部屋敷跡がある。
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江藤新平
天保5年(1834)〜明治7年(1874) 佐賀藩士江藤助右衛門の第1子として佐賀城下八戸町に生まれる。名は胤雄、号は南白。11歳で弘道館に入学、19歳で枝吉神陽に学び、義祭同盟に参加、22歳で開国論をとなえた。28歳の6月脱藩して京都へ上り、尊皇運動の中心となっていた公卿の姉小路公知と会う。8月佐賀に連れ戻され、永久閉門となる。慶応3年(1867)閉門を許され、京都で倒幕運動に専念する。明治元年(1868)官軍の軍監となり彰義隊を討つ。大木喬任と連名で江戸遷都を建議、7月鎮将府会計局判事となり、東京の民生に尽くした。明治政府内では立法・制度において偉大な功績があり、明治5年(1872)司法卿として司法制度の基礎を作った。明治6年(1873)参議となる。征韓論を主張したが敗れて参議を辞任、板垣退助等と民撰議院の建白をしていれられず、佐賀に帰り、佐賀県士族におされて、島義勇の憂国党と組み佐賀の役を戦ったが敗北、佐賀城内で処刑された。 墓は佐賀市西田代町本行寺にある。維新佐賀の七腎人の一人である。
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大木喬任
天保3年(1832)〜明治32年(1899) 佐賀藩士大木知喬の長子として佐賀城下赤松町に生まれる。通称幡六、のち民平と改めた。15歳で弘道館に入学、義祭同盟に参加する。32歳で学館指南役を命ぜられた。明治元年(1868)4月、江藤新平と連名で江戸遷都を岩倉具視に建白した。参与となり12月東京府の知事に任命された。民部卿、文部卿、司法卿を歴任、3回にわたる文部大臣として学制・学校令・教育勅語などの教育体制の整備に尽力した。元老院、枢密院両議長を歴任し、明治国家の確立に努力した。常に開明的な立場から圧迫をうけながらも終始儒教主義をとおした。生涯を通して誠実、廉潔を性格の持主で、また篤学の人であった。 維新佐賀の七賢人の一人。 ※出生地について『明和八年佐賀城下屋舗御帳扣』(2012年、鍋島報效会)によれば、「片田江北より六番横小路南側従西到東 五番」とあり、現在の佐賀市水ヶ江二丁目、枳小路で生まれている。
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古賀精里
寛延3年(1750)〜文化14年(1817) 江戸後期の儒学者で、佐賀城下精小路に住む。名は撲字は淳風、通称は弥助。陽明学を学び、のち江戸幕府の官学として保護された朱子学に転じた。天明2年(1782)、8代藩主藩島治茂により城下の松原小路にたてられた藩校「弘道館」の教授となり、弘道館の学則を制定した。寛政3年(1791)幕府の昌平黌の教官に抜てきされた。高松の柴野栗山、伊予の尾藤二州とともに寛政の三博士と呼ばれている。著に「四書集釈」「近思録集説」などがある。
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佐賀の花
大正6年(1917)〜昭和50年(1975) 染め物屋北村忠太夫の第4子として、佐賀市八戸町に生まれる。名は勝己。昭和5年(1930)3月日新小学校、佐賀高等小学校を卒業。16歳の時、横綱玉錦に見込まれて二所ノ関部屋に入門。当時身長170㎝、体重75㎏でさほど大きい方ではなかった。 鋭い立ち合い、一気の寄り、つりで頭角をあらわし昭和17年(1942)夏場所小結、昭和18年(1943)春場所関脇、昭和19年(1944)春場所13勝2敗で初優勝を飾り同年夏場所で大関に昇進した。 昭和27年(1953)1月引退、以降、二所ノ関部屋を運営、二所ノ関親方として不世出の横綱大鵬、大関大麒麟を育てた。昭和39年(1964)1月、日本相撲協会取締役に就任し活躍した。 なお、日新小学校のシンボルの一つとして知られる初代「少年の像」は、昭和4・5・6・7年卒業の連合同窓会が中心となり、昭和40年(1965)10月建設され、二所ノ関親方も寄進者の一人であった。現在の「少年の像」は、損傷が激しかったため、昭和49年(1974)にブロンズ像に再建設されたものである。 また、親方の母校愛により「二所ノ関勝己体育奨励基金」が設定され、毎年開催される校内相撲大会の賞品代にあてられている。