疣(いぼ)なおし地蔵

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疣(いぼ)なおし地蔵

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■所在地佐賀市三瀬村
■登録ID1267

疣なおし地蔵は平松地区と池田地区にまつられている。
 疣という語は飯粒(いひぼ)の転じたものといわれ、皮膚にできる丸い小突起物のことである。一種の皮膚病で、現今ではハトムギを煎じて飲んだリ、薬をつけたりして、簡単になおすことができるが、治療薬の発見されていなかった昔は、1つできると次々に数がふえ、なかなか根治しにくい頑固な出来物であったので、痛みはないが気味の悪い厄介な皮膚病とされていた。
 むかしの人は、疣にかぎらずなおりにくい病気にかかると、神仏への祈禱や呪い(まじない)をやればなおると信じたので、地蔵尊や薬師如来をまつって祈願する風習がひろく各地に普及した。
 とくに地蔵はあの世とこの世との境にあって、冥途におもむく者を救うと説かれたので、ついには、地蔵に祈って現世の利益を求める風潮を生みだした。
 とげぬき地蔵、夜なき地蔵、延命地蔵など、祈願の内容に応じた名前を持つ地蔵も多く、村内では山中の脚気地蔵、三瀬峠の聾なおし地蔵、池田・平松の疣なおし地蔵なども、その例である。なかでも、平松の疣なおし地蔵は、中央に石祠があり、その左右に2本の六地蔵が合祀されているところに特色がある。六地蔵は、六道(天上・人間・修羅・地獄・餓鬼・畜生)のいずれにも現われて、人々の苦悩を救ってくれると説かれているので、平松の場合は、この世でかなえられないならあの世ででも救われたいという強い願いをかけたものであろう。左側の六地蔵は座像、右側のは立像が彫られている。中央の石祠の中には衣冠東帯をつけた座像が彫られ、古老の伝承によれば、大江道寛という人を祀ってあるとのことであるが、疣なおしというだけでどのような人物であったかは不明であるが、来往するとき白馬に乗って来たと伝えられている。
 大江氏といえば、三瀬氏や豆田氏の遠祖であるので、この大江氏もその一統であったかも知れない。
 この場所は、むかし寺のあった跡といわれ、一帯には文化・文政年代まで園芸植物として玩賞されたカラタチバナが散見される。
 石祠の中の像の姿や付近の状況から推察すれば、大江道寛という人物は、知徳のすぐれた神宮寺憎(神仏混淆時代の)で、疣なおしなど医術の心得もあり、村人から深く尊敬されていたのであろう。
 六地蔵を左右に安置したのは、霊験の強化を願ったものと思われる。
 疣なおしを祈願するときには、年の数だけの小石を拾ってきて、それで疣をこすってからお供えして祈ることになっていたという。池田の疣なおし地蔵は、同地区中央辺から薙野川(現在高瀬川と呼んでいるが、明治初期まで薙野川と呼んでいた)を渡る細道の左向う川岸に建てられている。写真のような頭の尖った自然石に「南無地蔵大菩薩高嶋平之允」と刻んだ石碑である。建立した年月は碑文の右肩に印されていたと思われるが、磨滅風化してはっきりしない。
 地蔵建立の由来は不明であるが、橋のかかっていなかった時代には飛石伝いに川を渡ったとみえて、橋の下には今でも大きな飛石が顔を出している。少しの雨でも水をかぶって、渡るのに危険を伴ったであろうし、長雨や集中豪雨が降れば、飛石が流されるおそれもあったであろう。そこで、この地域の有力者高嶋平之允が、飛石の安泰と村人の安全を祈り、私財を投じてこの地蔵碑を建立したとも考えられる。また、平之允の近親者に疣ができて困っている人がいたのかも知れない。 
 地蔵は元来、あの世、この世の別なく人間の苦悩を救ってくれると信じられていたので、当時根治しにくかった疣の治癒を願って、この地蔵を建てたとも考えられる。
 とにかく、この地域の人々は今でもこの碑を疣地蔵と呼んでいて、地蔵碑の前には往時供えたと思われる小石がそのままに残されている。

出典:三瀬村史p672

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