庚申講

庚申講

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1434

 甲乙丙丁…という十干と、子丑寅卯…という十二支を組み合わせると、60組の干支ができる。これを用いて、年、月、日、時などを表してきた。その57番目が庚申で、60日に1度、庚申の日が巡ってくることになる。この日に講を開くものである。奈良時代に、庚申の夜に寝ると夭折するという中国の道教の説が伝えられ、この夜は徹夜をするという守庚申が宮廷中心に行われた。貴族たちが大勢集まって、歌合、碁、詩歌、管弦などの宴遊を行いながら夜明かしをするという、遊楽的なものであった。
 道教の説というのは、人間の体内には三尸という3匹(上尸・中尸・下尸)の虫がいて、常にその人の行動を監視していて、庚申の日の夜に、寝ている間にひそかに身体から抜け出して、その人の罪科をすべて天帝に報告する。人間の生死をつかさどる天帝は、罪科に応じてその人の寿命を縮めるという。そこで庚申の夜は眠らないで、三尸が身体から抜け出さないようにする。というものである。
 このような、守庚申のやり方は、15世紀のなかばごろ仏教と結びついたことによって、本尊ができ、守庚申は庚申待とよばれ全国的に広まり、道教的な色彩が薄らぎ、貴族や武士以外の人々も信仰するようになった。民間でも祭事後、公然と夜明けまで酒食の宴が許されたので江戸時代には庶民の間で盛行した。庚申には祭神が多い。仏数式庚申信仰では、「青面金剛」(帝釈天の使者)を本尊とし、下って江戸時代後期になると、山崎闇斎が説いた神道的庚申信仰が広まり、「猿田彦大神」を祭祀するようになった。猿田彦大神は天孫降臨の際に道案内をしたという神である。
今日、各地に見られる庚申塔は庚申待を何回か行ったときに、供養塔として造立されたものである。町内には文字塔と像塔があるが、江戸時代の造立のみで明治以降の塔は見あたらない。早い時期に庚申講は消滅したものと思われる。

出典:久保田町史 p.598〜p.600