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[民俗・芸能][行事][久保田町]は15件登録されています。
民俗・芸能 行事 久保田町
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八天さん参り
1月4日ごろに火の神さま八天神社にお参りに行き、お札をうけてくる。
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鬼火焚き(ほんげんぎょう)
オネビ焚きともいって、1月7日の早朝、庭で竹や藁を燃やし1年の災難よけにした。旧年の災厄を焼き払って新年を迎えるという意味が込められているのだろう。前日までに嘉瀬川の堤防の竹やぶから青竹を伐ってきて、やぐら状に組み、中にワラを入れ燃えやすくする。当日は他の家より早く起きて行った方が効果があるとされ、また、竹の弾ける音が大きいほうが鬼が驚いて逃げだすといわれた。年徳さんの餅は、7軒の鬼火で焼いて食べると病気をしないといわれた。焼け残った竹の先端を三角に曲げて、屋敷の入口に立てて魔よけにした。 現在は、神社の境内や田で地区の行事として行われている。この日に正月のしめ飾りなども焼かれる。
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もぐら打ち
1月14日の夕方に子どもたちが行う作物の豊作を願う予祝行事の1つである。1間(1,8m)ほどの木や竹の先に、藁を束ねた槌状のものをくくりつけた、もぐら打ち棒をつくり、家毎に廻って庭先で歌に合わせて打ち歩き、お礼に餅を貰う。 もぐら打ちが終われば、もぐら打ち棒を折って柿の木にかける。朝、行う集落もある。 田地を荒らす、もぐらを追い払い、成木に多くの実がなるようにとの願いがこめられた行事である。 「なあれ、なあれ柿の木、ならずの柿をば、千なれ、万なあれ、あすの晩までになあれ わが子のちぎろうどきゃ、畑のまんなきゃーなあれ、人の子のちぎろうどきゃあー、堀の岸ぃなあれ もぐら、もぐら、もんな なあれ、なあれ柿の木、14日のもぐら打ち、おかちんな、よごうでも、太かとからくいござい
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裸ん行
1月18日に酒造業の杜氏たちは、フンドシ1つの裸になり、数人が連れ立って小城の清水観音参りをし、滝に打たれて寒行をしていた。この頃、茶講内で、女性が清水さん参りをする集落もある。
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百手
的を弓矢で射て、五穀豊穣、家内安全、無病息災などを祈願する行事で年初に行う。現在は、2月1日に上新ヶ江の若宮神社で行われるのが唯一となっている。的は直径約60cmほどで、竹を組んで紙を張り墨で円を描く。10mほど離れた所から、1人、3本の矢を射る。的に当たれば豊作、はずれると注意を要するといい1年の吉凶を占う。
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ひな祭り
3月3日に女の子の健やかな成長と幸せを祈る行事として行われる。ふつ餅や節供だごをつくり、タニシを食べる風習があった。初節供には嫁の実家から贈られたひな人形を飾り親類や近所の人を招いて、お祝いをする。
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潮干狩り
旧暦3月から4月の新月、満月の大潮の時に、有明海の沖合に出て潮干狩りをしていた。嘉瀬川筋の久富御番所、福富宇治端、下新ヶ江三丁樋尻などから船出をする。午前中に舟を出し、日中、貝や小魚をとり、夕方ごろ満潮で帰ってくる。男女打ちそろって、芸者や舞子を乗せ太鼓や三味線で賑やかに酒盛りをしながら行われていた。
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堀干し
金肥が豊富でないころの自給肥料といえば、堆肥、緑肥、糞尿であったが、もっとも手近な肥料のひとつに、堀のゴミ(泥土)があった。田を肥沃にするために堀のゴミを田にあげていた。あげた回数で金の分配がなされていたので、堀干しが終わったら、金を出し合い、部落長のところでシミャアゲ(終い祝い)をしていた。
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さなぼり
さなぼいともいう。田植えの無事終了を田の神に感謝する行事で、チャーキ(馬の鞍)をマガ(馬鍬)の上にのせ、床の間に飾り・さなぼり餅(あん餅やよごれ餅)・なます・豆腐などの料理を供えた。葦(当地では、ヨシという)で箸をつくり添えて、これで、ヨシとするところもある。料理は馬使いが酒を飲みながら食べた。また、餅は田植え加勢を受けた家に配り、ゆっくりと休み、嫁は里帰りをすることもある。
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沖の島参り
旧6月19日に有明海の孤島・沖の島に沿岸の集落から行く。提灯やのぼりを飾りつけた船に乗り込み、浮立を囃しながらの沖の島参りはたいへんな賑わいをみせる。
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四万六千日
旧暦の7月10日は、「四万六千日」といって、この日に観音に参拝すると4万6千日の功徳があると伝えられている。
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おくんち
9月9日は陽数(奇数)の最大でもある9が重なるために、重陽と呼ばれた。現在では重陽の節供を祝う風習は、一般ではほとんど見ることができないが、9月9日を節目とする感覚は残されていて9日・19日・29日をクニチといい、餅を搗いたり赤飯を炊いて祝うことが行われている。稲の収穫期と重なるので、秋祭りとして行われるようになった。 昭和の初めころまでは、明治天皇の天長節、9月29日に行っていたが、昭和のなかばになると、農作業の日程などでたびたび変更され、終戦後は10月23日となり、近年は第3日曜日に行われるようになった。 オカセンさん(香椎神社)のくんちは、神輿のお下り、お上りが行われ、浮立や手踊りなどがでて賑わいを見せる。家庭では鮒のこぶ巻きなどのくんち料理をつくり、親類同士のくんちみゃり(参り)に忙しい。
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三夜待・六夜待
月の満ち欠けは日時の推移を知る手段であり、農耕や漁撈は月の運行によって行われていた。それだけに月は古くから信仰の対象となっていた。特定の月齢の月の出を待って礼拝する月待ちという講行事で、二十三夜と二十六夜が広く行われている。これは満月の後の半弦の月が特徴的であったためと思われる。二十三夜は男性で三夜待、二十六夜は女性でお六夜さんと称されている。講員は家廻りに集まり、月持ちの本尊の掛け軸をかけ、お参りをした後、飲食や話に興じて、月の出を待つのである。本尊としては勢至菩薩・月天子などを祀る。特に三夜待は、旧暦7月23日が祭り日であった。 現在では待行事の意味は薄らぎ、懇親の場として親睦を深める行事の意味合いが強くなっており、二十三夜、二十六夜にこだわらず、日時を決め、講員の家だけでなく料理屋などで行われている。もとは戸主、戸主の妻が主体であったが、のちに一定の年齢別に複数の講仲間が組織され、冠婚葬祭などでは互いに協力しあうなど強い絆で結ばれるようになった。 講の記念碑の二十三夜塔は、下弦の月の上に坐した勢至菩薩像を彫ったものが町内の随所に見られる。勢至菩薩の有縁日が23日というところから、二十三夜の本尊とされたものである。
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伊勢講
庚申講とともに近世において隆盛をきわめた講であったが、早い時期に消滅し、今はまったく見られない講の1つである。路傍や神社境内に見られる「太神宮」「天照皇太神宮」と刻された石祠が伊勢講の記念碑である。 伊勢講は伊勢信仰つまり三重県伊勢に鎮座する伊勢神宮(天照大神を祀る皇大神宮〔内宮〕と豊宇気毘売神を祀る豊受大神宮〔外宮〕とからなっている)の信仰集団である。伊勢神宮は天皇家の祖先神として皇室の庇護を受け、私幣をささげることは禁じられ、民衆の信仰とは無縁であった。しかし、時代が下るにしたがって民衆の間に大神宮崇敬が広まった。そうした信仰を広めたのは御師と呼ばれる人たちであった。御師は諸国を巡り御祓大麻を配りあるき商人や農民といった庶民へ参詣を説き広く浸透していった。御師というのは御祈祷師・御詔刀師から始まるといわれるが、祈願・奉幣をとりついだり参詣者に宿を提供したりした。この御師の活動により地域単位による伊勢講の組織がつくられ、伊勢参宮の風を生じ、代参者を立てて行われ、日本全土に伊勢信仰が普及するようになった。庶民にとって、参宮は一生に一度の願いであった。町内には、参宮記念としての伊勢講碑がいくつか見られる。「太神宮」などの刻字塔の他に、雨宝童子を彫ったものがあり、「講衆」として講仲間の名前が記されている。
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庚申講
甲乙丙丁…という十干と、子丑寅卯…という十二支を組み合わせると、60組の干支ができる。これを用いて、年、月、日、時などを表してきた。その57番目が庚申で、60日に1度、庚申の日が巡ってくることになる。この日に講を開くものである。奈良時代に、庚申の夜に寝ると夭折するという中国の道教の説が伝えられ、この夜は徹夜をするという守庚申が宮廷中心に行われた。貴族たちが大勢集まって、歌合、碁、詩歌、管弦などの宴遊を行いながら夜明かしをするという、遊楽的なものであった。 道教の説というのは、人間の体内には三尸という3匹(上尸・中尸・下尸)の虫がいて、常にその人の行動を監視していて、庚申の日の夜に、寝ている間にひそかに身体から抜け出して、その人の罪科をすべて天帝に報告する。人間の生死をつかさどる天帝は、罪科に応じてその人の寿命を縮めるという。そこで庚申の夜は眠らないで、三尸が身体から抜け出さないようにする。というものである。 このような、守庚申のやり方は、15世紀のなかばごろ仏教と結びついたことによって、本尊ができ、守庚申は庚申待とよばれ全国的に広まり、道教的な色彩が薄らぎ、貴族や武士以外の人々も信仰するようになった。民間でも祭事後、公然と夜明けまで酒食の宴が許されたので江戸時代には庶民の間で盛行した。庚申には祭神が多い。仏数式庚申信仰では、「青面金剛」(帝釈天の使者)を本尊とし、下って江戸時代後期になると、山崎闇斎が説いた神道的庚申信仰が広まり、「猿田彦大神」を祭祀するようになった。猿田彦大神は天孫降臨の際に道案内をしたという神である。 今日、各地に見られる庚申塔は庚申待を何回か行ったときに、供養塔として造立されたものである。町内には文字塔と像塔があるが、江戸時代の造立のみで明治以降の塔は見あたらない。早い時期に庚申講は消滅したものと思われる。