山崎 時三郎
山崎 時三郎
■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1488
明治20年〜昭和45年(1887〜1970)実業家
久保田村徳万の山崎嘉助の次男として出生。思斉小学校4年を卒業。嘉瀬村の青藍校に入学したが、家計が苦しく1年で退学した。その後、天秤棒を担ぎ、ところ天・提灯等の行商をし、遠く六角・白石まで売り歩いた。その間も向学心に燃え、夜は蒲原塾に通い写本し漢学を学び、数学は宿直の先生を訪ね代数・幾何などを学び、同年輩の者に数学は負けなかった。小柄な体であったが、思斉校では剣道、碇道場では柔道の稽古に励み心身の鍛練に努めた。15歳のとき佐賀県庁の給仕として採用された。勤務成績良好で1年たたぬ間に抜擢されて臨時雇いとなる。
月給7円50銭、上司井上書記官の書生として松原の屋敷に寄居し、夜は栄城塾で英語を学び、朝は4時起床で大財の漢学の先生の指導をうけ、6時半から官邸の掃除その他の仕事に励み、17歳で教員の検定試験に合格した。他界した母の残した100円持って、東京での学究を志し上京した。中学卒業を目指し最短の道を選び4年の3学期に編入試験をうけ合格した。中学校を卒業する迄も学費や下宿代に追われることが多く、アルバイトに奔走したが、人々の厚意に助けられ優秀な成績で日比谷の海城中学校を卒業した。
官費で学習出来る学校として海軍兵学校を選び受験したが、身体検査で不合格になった。その後、知人の世話で神埼郡の三瀬小学校で代用教員をした。月給13円50銭。再び上京し鉄道院で働き、生活費は最小限に切り詰め、常に学費を貯えた。明治42年の春、念願の長崎高等商業学校に合格した。しかし、学資を稼ぐため長期休業の間脊振の広滝発電所に勤務。長崎では英・数・漢の塾を開き、長崎米穀取引所では土・日・夜と働いた。
広滝発電所勤務の折り上司の計らいで、関東・関西に電気事業視察の機会に恵まれ、東京大学の山川博士との出会いが実現し、大いに見聞を広め、卒業論文は「電気事業経営論」という膨大な諭文であった。卒業後、煉瓦製造販売店の会計係として就職、会社の発展に寄与し、博多窯業株式会社として新しく経営形態を改めるに当たり、過去の実績が認められ初代取締役支配人となる。昭和28年東洋精機社長、日本ハーダースジュース会長、東京石炭統制株式会社社長。昭和36年11月藍綬褒章を受賞。享年83歳
出典:久保田町史 p.318〜319