鶴丸 廣太郎
鶴丸 廣太郎
■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1489
明治23年〜昭和19年(1890〜1944)実業家(海運業)
久保田村上恒安の鶴丸安太郎の長男として出生。思斉小学校から青藍高等小学校に進学、この頃から同郷の三学寺住職円盛和尚との交情は年と共に深まり、人生観に大いに影響を受けた。成績もよく師範学校進学を勧められたが、家業である農業に専念した。明治39年(1906)17歳の時一念発起して武雄税務署にはいる。佐賀税務署を最後に、20歳の時、苦学を決意し1人上京した。円盛和尚の忠告を振り切っての上京であったが、生活は苦しかった。福岡県の遠賀税務署長をしている先輩を知り、この人の勧めで再び遠賀税務署に勤務することになった。遠賀税務署は若松にあり、北九州唯一の石炭の積み出し港が控えていた。ここでも広太郎は敏腕をふるい、上司にその才能を認められたが辞して、商事会社、造船会社と発展し、周囲の人々の信任を得、身軽に働いた。やがて、海運業・造船代理店業の支配人となったが、会社閉鎖の憂き目をみる。無一物から立ち上がって、3人の同士と共に鶴丸商店を開業。懸命の努力が実り、関係業者間の信頼は日毎に増し、鶴丸の名を高めていった。度重なる危機にも逞しく立ち向かい苦難を乗り越え、昭和10年(1935)鶴丸は個人経営から株式会社になり、広太郎が社長に就任した。昭和13年(1938)株式会社鶴丸商店は、鶴丸汽船株式会社に改称。昭和15年(1940)全国機帆船連合会が設立され、初代理事長に鶴丸広太郎が就任した。愛郷心が強く関係の寺社に応分の寄進をしたり、自分を育ててくれた村へのご恩返しと、青少年のため武道場を建築寄贈。当時の高森村長に自ら申し出て、村に毎年奨学金を出すことを決め、昭和18年まで続けた。また、母校の校舎不足を知り小学校の南に校舎1棟4教室を寄贈した。初めて自分の家を持ったのは、昭和10年、小倉市日明に建てた。日明小学校後援会長時代も、校舎1棟の建築費を市に寄付。その外、教育に関する色々な援助を惜しまなかった。昭和19年(1944)太平洋戦争の末期に近い11月病に倒れた。墓は芦刈町光楽寺にある。第1回海の記念日に逓信大臣より感謝状を授与される。若松地区機帆船組合より広太郎の寿像が贈られた。従六位に叙せられる。享年55歳
※写真は王子権現敷地にある鶴丸廣太郎の寄進の石碑。鶴丸汽船の船の名前でも複数の寄進が行われている。
出典:久保田町史 p.319〜320