肥前忠吉
肥前忠吉
■所在地佐賀市高木瀬町
■登録ID1820
肥前鍛冶の中心人物は名匠忠吉である。忠吉家は初代忠吉より11代、初代門人正広家は15代、慶長より明治にかけて、約300年以上連綿として続いている。初代忠吉の門人には、正広、広則、広貞、吉房、吉國、吉広、忠清、行広、忠國等の名工が輩出している。
初代忠吉は姓を橋本、名を新左ヱ門と言い。遠く先祖を尋ねれば、太宰少貳の一族である。忠吉は元亀3年(1572)天下麻のように乱れた時、肥前国長瀬に生る。祖父盛弘、父道弘、龍造寺隆信に仕えて、共に天正12年3月(1584)隆信公島原の役に、薩軍と戦った時、公と共に戦死した。
この時忠吉は弱冠13才であった。13才にして主家は敗れ、父祖を同時に失った、世にも不幸の少年は己むなく武士を捨て、一族の刀匠に就て鍛刀の術を学んだ。学ぶこと13年刻苦精励の効空しからず、はるかに師を凌駕するようになったが、なお忠苦その意に満たず、25才の時、笈を負うて、京に上り、当時新刀鍛冶の祖といわれた名匠埋忠明寿に師事し、専心研究3年にして秘伝を伝授されたという、天性又非凡であったというべきであろう。
忠吉は元和元年(1615)再度上京し同10年2月18日武蔵大椽に任ぜられ、以後名を忠広と改めた。寛永9年壬申(1632)8月15日病を以て没した享年61才(鷹木隆城氏著作に依る県人会報昭10、7月号)
子孫は分家筋に当る河内大椽正広の後裔に当る橋本正敏氏が佐賀市長瀬町に橋本宗人氏が高木瀬町城北団地に居られる。
ちなみに、昭和50年1月22日附佐賀新聞に依れば、初代忠吉は、京の埋忠明寿の門に入る前に、加藤清正のお抱え鍛治であった熊本県玉名市伊倉の田貫善兵衛に弟子入していたことを証明する古文書が橋本正敏氏宅から発見されたということである。
出典:高木瀬町史P77〜79