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人物 人物 高木瀬校区
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高木氏
東高木の通称郷倉という所に、「高木城の跡」という標識が建っている。鎮西屈指の豪族として盛えた、高木氏の居城の跡である。 高木氏は藤原累代の豪族であって、大織冠鎌足の正統、中関白藤原道隆公の後裔といわれる。公の子文家及びその子文時何れも、中納言太宰師であった。文時の子文貞は右近衛中将、その子季貞は太宰の大貳であった。このように代々太宰府の官吏であり、又肥前国龍造寺の地頭職となった藤原季家という者もあった。要するに、太宰府の役人であった藤原一家の者が、この地方に土着、勢力を張り附近を支配するようになったのが、高木氏の起りである。 佐賀郡誌にも、清和天皇の頃より、国司は遙任の風を馴致し、介、椽等の府吏地方に勢力を得るに至った。本郡にもまた府吏より家を起して一方に雄飛する豪族を出した。その主なるものは北方に高木氏あり。と書いてある。 季貞の子、貞永というのが越前守と称し平家残党追討のため、この地に下向して高木の地に居館を構え、その長子宗貞の時から、所の名を取って高木氏と号するに至った。 鎮西志に貞永に三子あり。長を宗貞と日ふ、肥前に在り、高木氏を始む。其の虞を以って氏號と為し、兼ねて河上社の宮司職を掌る云々とある。 藤原季家が肥前龍造寺の地頭職に補せられたのは、文治2年(1186)9月27日とあるから800年近くも前のことである。 このように貞永の時代から高木に居城を構え、その守り神として高木八幡宮を創建し、武威を四方に拡大した。 高木宗貞は肥前守と称し代々国府執行の職にあり、在廳国司の謂にして、於保郷を知行す。ともあるから、高木地方のみならず、川上の於保地方にも領地を持っていたのである。また宗貞は、河上社の宮司をも兼ねていたのであるから、上佐賀一帯が高木の支配下にあったということができる。そして草野、北野、上妻、於保、益田、八戸、笠寺、長瀬、富崎、龍造寺等の家系として、発展して行ったのである。 越前守貞永が、八幡社を創建したことについては、別稿八幡社のところで詳述のとおりである。 又鎮西志に「正嘉元年(1257)北條時頼、薙髪して道崇と號し、肥前国佐嘉郡北原河上社に至る。祭祠の日か、詣りて神前に参り、高木氏の社参に遇ふ。高木氏は上佐賀、諸縣の若干地を領地して勢の有る者也。本地は甘南備峰、居館は高木邑、特に當社の宮司職たり。騎卒多勢、列々詣づ焉、修業する者社邊を徘徊す。或は之を迫ひ、或は之を將ゐ、其の場に引きずり、卒を以って遂に之を退く。其の所為太だ無礼也。亦且つ高木氏の駕する所の鷲泥、衣袍に及ぶ。道崇蜘○して本所に還る。夫れ高木氏は、上佐賀の所領を削られ、其の地を以って、国分忠俊を封ず。今朽井鑰尼(鍵山)と稱する。云云とあり。 思うに、北条時頼が姿を変えて地方行政を視察するため諸国行脚をした折、このように高木氏の郎党共が、高慢無礼の所行があり時頼の装束まで、汚泥をつけてしまった。その非礼の責任のため、後々上佐賀の所領を削れたのであろう。そこで、鎮西志には、室町以後、此の氏、何によりてか、南北朝以後大いに衰へ、永享6年(1434)、嘉吉元年(1441)などに僅かに見ゆ、但し天文(1530-)の末年に、高木能登守鑑房、同胤秀等あり。東西高木と稱して猶存せしが鑑房、龍造寺隆信に誅戮せられ、全く亡ぶ云云とある。 高木氏は、太宰少貳の系統であったから、文永、弘安所謂元寇の役の時にも、少貳氏の指揮下に在って国難に当った。高木一族の高木伯耆守六郎家宗、国分弥次郎季高、於保四郎種宗等は大いに戰功をたてた。 鎌倉幕府が滅びてからは、朝廷側の菊池氏と戦ったが中央の形勢が非となるや態度をかえて北條を攻めて探題を自害せしめた。後醍醐天皇の皇子尊良親王下向の際はまた反朝廷側につき高木伯耆太郎という武將もこの方に味方した。南朝北朝の覇權爭いの時代、いつも少貳氏との旧縁で、北朝の將軍方に属していた。征西將軍懐良親王が九州に、出征されたときも高木氏は反宮方であって、勤王方の菊池氏と戦っている。 天文22年(1553)龍造寺隆信と鑑兼(隆信の妻の兄)との同族の争のときには、高木城の高木鑑房同胤秀は鑑兼の方に加担した。高木胤秀は西高木城主といわれている。高木の系統である八戸宗暘も鑑兼の方についたが、宗暘の妻は隆信の妹であったから八戸氏とは和議が成り立った。 天文23年(1554)3月、隆信は高木城主・高木能登守鑑房を討つべく兵を進めた。元来高木と龍造寺は同系であり共に少貳氏に属していて、今まで相争うことはなかった両家に角逐が起ったのはこれが初めである。鑑房は隆信の軍を三溝に迎え、防戦したが戦利あらず、去って杵島郡佐留志の前田氏を頼って落ちのびた。 近世に至って、東高木家より、佐賀戦争や西南の役に参加した、高木豹三郎の名がある。その子誠一郎・高木背水は明治10年生れ昭和18年に没したが、洋画家として名を残した。明治天皇の御肖像を初め、多くの名画を残した。明治天皇の御肖像は、背水師の原画に基づくものが多い。背水画伯のことについては高木背水伝や、佐賀史談昭和48年7月号に詳しい。西高木家からの系統は明治の初期東京控訴院検事長であった、高木秀臣、東大国際法の教授であった法学博士高木八尺氏などがある。 高木城跡、八幡社、正法寺門前等にある由緒碑は、昭和16年11月この高木背水氏と高木良次氏が建てられたものである。 高木城はどんな規模で又その広褒はどうであったろうか、記録等何一つ見当らない。又東西の高木に分れていたものの、その城跡、居館の跡も定かでない。郷倉から少し離れた田圃の中に、一つの丘陵があったが、四周から削られて今はほんの数坪ばかりの土塁があるが、ここには熊野大明神が祀られている。こんな所や、東高木、上高木、下高木、寄人の地域に、館、馬場先、櫓の下、前櫓、西櫓、守垣、垣元、門之内等の地名が残っているから、そんな所が高木城の跡であろう。又館橋から東流する、今は県営水路となっている小川の北側は、横堤といって竹林が生い茂っていた。この竹薮は高木城を隠す役目をしていたという。この点から考えても高木城はさほど大きくない、平城或は館であったことが判る。
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肥前忠吉
肥前鍛冶の中心人物は名匠忠吉である。忠吉家は初代忠吉より11代、初代門人正広家は15代、慶長より明治にかけて、約300年以上連綿として続いている。初代忠吉の門人には、正広、広則、広貞、吉房、吉國、吉広、忠清、行広、忠國等の名工が輩出している。 初代忠吉は姓を橋本、名を新左ヱ門と言い。遠く先祖を尋ねれば、太宰少貳の一族である。忠吉は元亀3年(1572)天下麻のように乱れた時、肥前国長瀬に生る。祖父盛弘、父道弘、龍造寺隆信に仕えて、共に天正12年3月(1584)隆信公島原の役に、薩軍と戦った時、公と共に戦死した。 この時忠吉は弱冠13才であった。13才にして主家は敗れ、父祖を同時に失った、世にも不幸の少年は己むなく武士を捨て、一族の刀匠に就て鍛刀の術を学んだ。学ぶこと13年刻苦精励の効空しからず、はるかに師を凌駕するようになったが、なお忠苦その意に満たず、25才の時、笈を負うて、京に上り、当時新刀鍛冶の祖といわれた名匠埋忠明寿に師事し、専心研究3年にして秘伝を伝授されたという、天性又非凡であったというべきであろう。 忠吉は元和元年(1615)再度上京し同10年2月18日武蔵大椽に任ぜられ、以後名を忠広と改めた。寛永9年壬申(1632)8月15日病を以て没した享年61才(鷹木隆城氏著作に依る県人会報昭10、7月号) 子孫は分家筋に当る河内大椽正広の後裔に当る橋本正敏氏が佐賀市長瀬町に橋本宗人氏が高木瀬町城北団地に居られる。 ちなみに、昭和50年1月22日附佐賀新聞に依れば、初代忠吉は、京の埋忠明寿の門に入る前に、加藤清正のお抱え鍛治であった熊本県玉名市伊倉の田貫善兵衛に弟子入していたことを証明する古文書が橋本正敏氏宅から発見されたということである。
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佐賀戦争に参加した高木瀬の人
明治7年(甲戌)の佐賀戦争については、江藤新平伝その他沢山の著書もあり、戦争後100年目に当った昭和49年には、テレビ、ラジオにも取り上げられ、殉難者の100年記念特別慰霊祭も行われ、江藤新平記念碑の建立計画も発表された。 当時の佐賀にとっては、佐賀戦争はどこも、ひっくり返るような一大騒動であったろうと思われる。直接戦闘に参加しなくても人夫にとられたり、直接間接生命財産の不安にさらされたことであろう。 高木瀬の人で、佐賀戦争に参加した人々は果して何人であったろうか。今までに判明している人々は次のとおりである。 佐賀戦争に参加した高木瀬人 長瀬 石井貞興 櫛山叙臣 高木貞光 寄人 石井周蔵 東高木 池田清兵衛 垣内房諧 高木村十四番地 横尾俊一 下高木 久富梅之允 板谷雄平 古賀廉造 上高木 江副新吉 原口寿七 平尾 西川種近 松原町 高木豹三郎(高木城主高木家の子孫) 地区不詳 市川本章
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石井貞興
石井貞興は天保11年3月生、佐嘉藩士櫛山彌左衛門の長男、幼名竹之助、後、本家石井忠克の嗣と爲り、石井貞興と稱す。少壮、枝吉神陽、石井松堂に就て經學を修め、且つ意を武技に留め槍術馬術は彼が得意とする所なりと云。戊辰之役、奥羽征討軍に従軍と記録あれば、家老鍋島平五郎の隊に屬し、奥羽先鋒總督九條道孝の麾下に入り、奥羽二十餘藩聯盟の佐幕軍と戦ひし事ならむ。明治3年冬佐嘉藩少参事に任ぜらる。明治4年7月、廢藩置縣令の施行に伴ひ、改めて佐賀縣權典事に任ぜられ、幾何も無く佐嘉縣大屬に任ぜらる。廢藩置縣後、新に任命せられて赴任せる知事、参事、縣内の事情に晦く、実績擧ぐる能はず、然れば縣政百般の運営は皆石井氏の司る所にして、陰然佐賀縣の実權を掌握せる由。明治7年2月、風雲急を告ぐるや、征韓黨の帷幕に参じ、首謀江藤新平を輔け畫策する所尠からず。殊に彈薬の供給、兵糧の確保等軍需物資の運轉に萬全を期せし、其功偏に氏の手腕によるものなくんばあらず。戰敗れて薩摩に奔る。薩の梟勇桐野利秋、非運を憐んで之を庇護す。丁丑之變に際曾、貞興、慨然、知己の恩に報ぜんと欲し桐野利秋に随ふ。此を以て薩軍奇兵隊總監軍に擧げられ、各所に轉戰大いに官軍を撃破せるも、後半に至って戰況利有らず、遂に日向に退き長井村の重圍を突破して、深夜可愛嶽の天嶮を越ゆるに際し、貞輿過って深壑に陥り意識を失ふ。官軍の兵来りて之を捕ふ。9月5日長崎に送られ、10月26日、元麑島縣令大山綱良等と共に斬に處せらる。享年35なり。
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石井周蔵
石井氏世々佐嘉藩士、周藏、天保12年を以て生る。少壯弘道館に學び規定の科程(小學、大學、論語、孟子、中庸、詩經、書經、易經、禮記、春秋)を卒ゆ。最も新陰流兵法に錬達せりと云。其系譜分明ならざれ共、藩の指南番吉村幸太夫(柳生直門)に就て學びしに非ざる歟。戊辰の役に従軍、事情行動皆石井貞興に於けると同じ。明治4年7月廢藩置縣の施行に伴ひ、佐嘉藩は佐賀縣と改まるや、佐賀縣五大區の副戸長となり、専ら民政に盡力しつつありしが、岩村高俊、新に佐賀縣權令に任ぜらるるや、熊本鎭臺兵300餘名を具して、佐嘉城を占據し、佐賀縣士族討伐に着手せり。周藏之を見て大いに怒り、直ちに戸長石井源三と謀り壯士300名を召集し、武装隊伍を編成し、征韓黨の亞者(首謀の次位)西義質を訪れ參戦の希望を陳ぶ。義質大いに喜び一等斥候を委囑す。周藏、勇躍その率ゆる所の300名を指揮し朝日山に馳せ、征西官軍總司令官陸軍少將野津鎭雄麾下の軍、大阪鎭臺歩砲兵1400餘名を轟木安良川に邀撃し大いに之を破る。爾来各所の戰闘に善戰健闘せるも武運に恵まれず、遂に敗れて官軍に捕はる。官軍の將、周藏の強剛なりしを知り、その罪重しと宣言し懲役5年に處す。出嶽後は望を現世に棄て、風月を友とし讀書に光陰を消す。時々出で、佐賀中學校の青少年に剣術を指導す。明治末年易簀。その長男、大正末期小城中學校教頭石井時太郎(昭和22年歿)、次男、大正中期佐賀中學校長千住武次郎(昭和30年頃歿)。
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櫛山叙臣
佐嘉藩士櫛山彌左衛門の二子なり。弘化元年生(※)。兄貞興出で、石井家を嗣ぎしを以て櫛山家を嗣ぐ、爲人、剛武勇悍而頗る赳々武夫の俤あり。壯年選ばれて崎鎭防衛常額之外、香焼島屯戌壯士隊に編入せられ、鎭西海防の任に當る。戊辰の役に際しては、奥羽先鋒總督九條道孝の麾下に屬し、大番頭鍋島孫六郎の隊に編入せられ、東北の野に轉戰して功あり。凱旋の後、佐嘉藩軍務掛り、國學寮監等歴任。明治4年東京に出で専ら佛式陸軍操練の研究に勵む。明治6年佐賀に歸り、征韓論に注意、形勢を観望しつつ、ありしが明治7年2月佐賀戦争に際曾、敍臣、憤然戈を執って起つ、輙ち征韓黨の領袖、小隊長として各所の戰闘に激戰敢闘せるも遂に一敗地に塗れ、南海に奔竄、高知中村にて縛に就く。懲役3年の刑に處せられしも、後減刑せられ明治9年赦されて出獄。以来、人物全く一變、剽悍の性影を潜め、温厚篤実、地方の教育に専念し、世人に師表と仰がれ、衆庶の敬慕する所なりしが、明治43年病みて歿す。亨年67歳。 ※天保14(1843)年生
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久富梅之允
佐嘉藩士山内某の2子、弘化2年の生なり。後、久富三之允の養嗣子となり、久富梅之允と稱す。幼にして弘道館に學び、略々經史に通じ、又兵學に達す。戊辰之役、命を受け家老鍋島平五郎の隊に屬し、奥羽先鋒總督九條道孝の麾下に入り、各所に轉戰功有り。凱旋後藩軍の一隊長なりしが、梅之允容貌凄愴にして其性、剽悍、人の畏怖する所。明治4年、公用にて馬関海峡を渡るに際し、同舟の旅人と爭ひ、怒って一刀の下に之を斬殺せる科により永蟄居を命ぜらる。明治4年7月、廢藩置縣令施行以来、漫然世相の變遷を望觀。明治7年2月、佐賀戦争に曾す、席を蹴って起ち、征韓黨一等斥候を委屬せらるゝや、憂國黨の曾軸村山長榮の軍を援く、2月22日出動、官軍陸軍少佐佐久間左馬太の率ゆる能本鎭臺を和泉(江見の西)に邀撃す。この日佐賀軍の攻撃は凄絶を極めしが、就中、久富梅之允の奮戰は敵味方共に瞠若舌を惓けりと云。三養基郡誌、佐賀戰爭の記事に日く(注 官軍の兵力 約1000人 佐賀軍の兵力も約1000人 にて兵力は互角) 《佐賀軍の主力は征韓、憂國両儻の將兵、之に鶴田有本、陣内利武の率ゆる蓮池の兵、之に合し、善戰健闘大いに力む。就中、驍勇絶倫と稱せられし久富梅之允、この日、征韓黨の將として馬を戰場に驅り、太刀を揮って叱咤奮闘するの状、勇威凛烈、官軍の將兵、避易して近づく能はざりしと云。官軍大いに敗れ、筑後川を徒渉し住吉に退却す。》 とあるも亦以而梅之允の猛勇察知し得べし。後各所に奮戰せるも、大勢非にして境原の大激戰に敗るゝや、高木瀬の自邸に歸り、佛前に禮し、養父三之允と死別の盃を交はし、三之允の介錯にて從容腹を屠って死す。享年 30歳。
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古賀廉造
安政6年の生れにはあらずやと思ふ。明治7年佐賀戰爭に際しては、16歳以下の少年武士を以て編成せられし、少年隊に入隊し、憂國黨の司令、大塚左源太の指揮下に各所に轉戰。田手川の激戰には、左源太、壮烈なる戰死を遂ぐる迄終始その叱咤の聲を耳にせりと、親しく余に話されし事あり。戰後、年少の故を以て罪を免ぜらる。以来、司法省法律學校卒業、大審院検事、法學博士の學位を得。内務省警保局長として、全國の警察を統轄指揮するに當って、その彈壓、辛辣を極めしは有名なり。貴族院議員に勅選せらる。拓殖局長官を最後に、總ての官公職を辭し、千葉縣御宿に陰棲。昭和9年の秋、飄然、萬部島招魂場を訪れ、記念碑參拝の後、鯱の門に至り、城壁、石壘を指示して、往年接戰奮闘の状を語られしが、今日回顧すれば実に貴重なる実戰談なりしなり。 昭和19年房総の漁村、草庵に、溘焉として逝く、87歳。 昭和癸丑初秋 西陲残叟記 ※古賀廉造の生年は安政5年(1858)、没年は昭和17年(1942)で享年85歳であることを追記する。
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香月経五郎
佐賀戦争と共に忘れてならないのは、極楽寺にその墓がある香月経五郎のことである。 香月は佐賀戦争に亞者(参謀格)として参加し江藤と共に処刑された。 香月は嘉永2年(1849)早津江に生れ、藩校弘道館に入り非凡の秀才ぶりを発揮し、明治2年21才のとき東大の前身たる大学南校に入ったが、翌明治3年文部省の第一回海外留学生としてアメリカ、イギリスで勉強した。この留学も江藤の推薦によるものといわれた。 明治4年、岩倉具視一行の遣外使節団がアメリカに向け出発した。佐賀藩主鍋島直大侯も同行したが香月が直大侯の案内役に当り、イギリスに渡り、直大侯と香月の2人は主從共共オックスフォード大学で勉強した。 香月の専攻は経済学であったが、大学南校の同窓やその指導を受けた人々には、後の東大教授、法学博士田尻稲次郎、枢密顧問官男爵目賀田種太郎、同伯爵伊東巳代次などがあったから、若し命を保っていたなら、わが国の重要な人物になっていた人であろう。 墓は極楽寺本堂の正面にあった。老坊守さんのお話によれば、先代坊守さんから、香月さんの死骸は首と胴を青竹でつないでここに埋めてあるといわれていたそうである。 極楽寺には経五郎氏の甥の陸軍大佐 香月三郎氏の墓もあったが、納骨堂の新築と共に何れも他の場所へ移され、墓石のみが淋しく残っているのは、烈士のために痛恨の極みである。