平野の浮立

平野の浮立

■所在地佐賀市大和町
■登録ID2287

(平野地区の笠原義治氏、村岡与六氏提供の資料による)
  ① 実施期日
 以前は毎年旧暦の9月15日、産土神社祭の時行われていたが昭和初期から旧川上村は毎年10月15日にお供日をするようになったので、浮立も10月15日に変更している。
  ② 起源
 平野の浮立がいつごろから起こったのか判明しない。掘江神社の社記では、雨乞いのため浮立を奉納するとあるが、その他もろもろの災難から逃れ、五穀豊穣、家内安全をも祈願したものであろう。ただ平野では次のような話が伝えられている。平野地区の西部に龍徳院というお寺があるが、その境内に餓死塔という古い石碑が建っている。その塔は享保18年(1733)ごろ、時の大庄屋中原只右衛門正純が施主となって建立したものである。当時は飢饉とか暴風とか旱ばつ等の災難に際しては、人々はただ苦しみに苦しんだあげく、神仏へ祈願する以外なかったので、この飢饉を契機として起こったというのであする。また、浮立は用具その他多額の経費がいるので、西古賀の当番の時、一時中止したところ、その年は平野地区に赤痢が大流行して死者数名を出した。時の人々がおくじをひいたところ、それは浮立を中止したからだとのご託宣だったので、早速村中相談しておわびの浮立をするとともに以後中止しないことを固く決議したという。また、かつて佐賀藩主の御前浮立に出演したところ、平野の浮立を見た藩主は「これがほんとうの浮立だ」という賞賛のことばがあったということである。
  ③ 浮立の構成
 浮立については昔は浮立奉行がいて藩の浮立を統率していたが、明治維新以後これは廃止され、その後浮立のことを代行するものを頭取と称し、地区では区長がその任に当たっている。浮立をする者はもともと18名で、その選考に当たっては地区の年長者たちによって厳選されていたという。現在は15才から25才までの男子ということになっており人数は一定していない。
 現在の浮立の構成は次のとおりになっている。
 鉦10人、大太鼓2人、小太鼓8人、大太鼓運び2人、笛10人、後巻き10人、傘鉾持2人、頭取2人、つぶその主人1人

出典:大和町史P.817〜822