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[民俗・芸能][民俗芸能][大和町]は4件登録されています。
民俗・芸能 民俗芸能 大和町
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大和町の浮立
辞典によると、「風流」と書いて「ふりゅう」と読み、鎌倉から室町時代にかけて流行した芸能の一種。さまざまの仮装をし、歌や拍子に合わせて、手振りおもしろく踊った群舞。今日でも郷土芸能の中に見られ、祭礼の山車や鉾、盆踊りなどは代表的、とあり。また、福岡博氏著の佐賀豆百科に「浮立のいわれ」として、「もともと浮立は風流という意味から生まれたもので、平安時代から鎌倉時代にかけてはざん新とか、奇抜といった意味に用いられた。具体的には、奇抜な格好をした行列やハヤシ物を「風流」と呼んでいた。特に室町時代からは動きの活発な、当時としてはモダンな踊りが風流として生まれてきた。例えば、宗教的な念仏踊りではおもしろくないので、それが大衆化され盆踊りに変わっていくようにすべての民俗芸能は昔からそれを保有しようとする意志と常に新しいものを取入れ、自分たちや観客に興味あるものにしようとする性質がある。だから一口に浮立といってもその呼び方や内容もまちまちである」と述べておられる。 大和町内で今も浮立が続けられているのは平野と池上、大願寺、久池井、楢田である。平野や大願寺の浮立は天衝舞(てんつくみゃあ)と呼ばれるもので鐘浮立の一種であろう。鐘浮立といっても同じ大きさの鐘を打つものや、大きさも形も違う鐘を打つ浮立などいろいろあって、その内容も異なるものである。衣裳を美しくし、天衝舞などを伴い、鐘浮立はその伴奏役を務めるものと解してよかろう。鐘浮立の歴史や起源は判明しないが、全国的な浮立の発生からみて、だいたい鎌倉時代の末ごろと見られている。天衝舞は佐賀市周辺を中心に伝承されているもので、玄蕃一流浮立とか、天月舞、天竺舞などとも呼ばれ、踊り手が踊る時に頭にかぶるかぶり物の名称からきているということである。天衝舞を玄蕃一流の浮立というのは、佐賀市神野町掘江神社の社記によると、 「弘治二年(1556、室町時代末期)五月、掘江大明神の雨乞いの祈願に、神職の山本玄蕃が始めたと伝えられ、自分の年令の四十七才にちなんで大もりゃーし(大太鼓)二十、小もりゃーし(小太鼓)二十七という簡単な編成で、日鉾(長柄傘)数本はすべて女性の帯で飾り、玄蕃一流の浮立を始めたが、その後佐賀郡、神埼郡の各村の雨乞いや、産土神社の祭にこれを献ずるようになった。」 ということである。
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平野の浮立
(平野地区の笠原義治氏、村岡与六氏提供の資料による) ① 実施期日 以前は毎年旧暦の9月15日、産土神社祭の時行われていたが昭和初期から旧川上村は毎年10月15日にお供日をするようになったので、浮立も10月15日に変更している。 ② 起源 平野の浮立がいつごろから起こったのか判明しない。掘江神社の社記では、雨乞いのため浮立を奉納するとあるが、その他もろもろの災難から逃れ、五穀豊穣、家内安全をも祈願したものであろう。ただ平野では次のような話が伝えられている。平野地区の西部に龍徳院というお寺があるが、その境内に餓死塔という古い石碑が建っている。その塔は享保18年(1733)ごろ、時の大庄屋中原只右衛門正純が施主となって建立したものである。当時は飢饉とか暴風とか旱ばつ等の災難に際しては、人々はただ苦しみに苦しんだあげく、神仏へ祈願する以外なかったので、この飢饉を契機として起こったというのであする。また、浮立は用具その他多額の経費がいるので、西古賀の当番の時、一時中止したところ、その年は平野地区に赤痢が大流行して死者数名を出した。時の人々がおくじをひいたところ、それは浮立を中止したからだとのご託宣だったので、早速村中相談しておわびの浮立をするとともに以後中止しないことを固く決議したという。また、かつて佐賀藩主の御前浮立に出演したところ、平野の浮立を見た藩主は「これがほんとうの浮立だ」という賞賛のことばがあったということである。 ③ 浮立の構成 浮立については昔は浮立奉行がいて藩の浮立を統率していたが、明治維新以後これは廃止され、その後浮立のことを代行するものを頭取と称し、地区では区長がその任に当たっている。浮立をする者はもともと18名で、その選考に当たっては地区の年長者たちによって厳選されていたという。現在は15才から25才までの男子ということになっており人数は一定していない。 現在の浮立の構成は次のとおりになっている。 鉦10人、大太鼓2人、小太鼓8人、大太鼓運び2人、笛10人、後巻き10人、傘鉾持2人、頭取2人、つぶその主人1人
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池上の浮立
池上浮立については平野浮立と大同小異である。池上浮立については何の記録もないのでその起源は不明であるが、同地区の永渕喜六民らの話によると少くとも100年以上を経た古いものであるということである。池上浮立は嘉瀬から伝わったものといわれ、さらにそれが久留間へ伝わったという。池上は昔から水害が多かったので水害除けのため水神様に奉納していたものである。水神様はもと川のそばにあったが大正年間(1912~1926)に今の天満宮に移されたものである。近年はこれに家内安全、五穀豊穣の祈願をこめていることは他地区と変らない。したがって昔は池上にある水神さんの前だけ浮立を打っていたが、いつ頃からか地区内の社寺、区長宅、有志、新築したもので所望する所に打つようになったという。池上浮立ももともと天衝舞であったがいつの間にかこれが踊り浮立に変わった。 浮立は毎年小路回わしで2小路ずつがその世話をすることになっており、その世話元を「ほんつう」と呼んでいる。ほんつうは平野地区の「つぶそ」に当たり、小路中から1戸が選ばれるが、これは新築の家とか、年長者のいる家があてられる。浮立に要する一切の道具はここに保管されている。浮立に出演するもので「浮立団」が組織され「奉行」という役目の人がその頭取をする。その奉行は30才の男子2名と定っていたが、現在は30才以上の男子であればよいことになっている。奉行は世話方の方で奉行仲間の者から選定する。 ○ 構成 池上浮立は青壮年の男子に小中学校の男女児も加える。構成は平野の場合とやや異なるので簡単にあげておこう。 ○奉行2名、陣羽織に陣笠をかぶり鉄の棒を持っている。 ○つづみ打ち2名 裃をつけ鼓を打つ。 ○しめしかぶり2名、しめ太鼓を打つ者で菅笠をかぶり顔をかくす。角帯をしめ白足袋で高下駄をはいている。食事の時は奉行とともに座敷でする。昔は高御膳であった。 ○中鉦、小学校上級生と中学校下学年の男子で着物の上にたっつけ袴を着け中鉦を打つ。 ○もりゃーし、中学校上級の男子でたっつけ袴で頭にかぶとをつけもりゃーしを打つ。 ○鉦打、青年男子が当たり、浴衣に脚絆、わらじ掛けでたすきをし、花で飾った菅笠をかぶる。 ○銭太鼓、小学校下学年男子が当たり法被をつけ、小さな太鼓を叩く。 ○あや竹、小中学校女子全員竹筒の中に一厘銭を入れ色紙で飾ったものを持つ。 ○傘鉾、長い棒に女の丸帯を2本かける。 ○その他大太鼓は壮年の男子が当たり、笛は壮、老年の男子が当たっている。(以下省略)
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大願寺の浮立
大願寺の浮立も平野と同様10月15日のお供日の日に五社明神の秋祭りに奉納していたものだが、戦後は復活しないままになっている※。鉦浮立で天衝舞を伴い平野浮立と大同小異である。大願寺では安永年間(1772~1781)、文化年間(1804~1818)、明治の頃の古い記録が残っているが、その中今を去る安永3年(1774)の記録の中に「浮立諸道具相調候貫銭目安」というのがある。これは浮立に使う道具類を新調した決算報告書で、貫銭というのは、地区の各戸からぬき集めた寄付金のこと、目安というのは予算以外に決算の意味もあるということである。 「安永三甲午歳浮立相改帳」という記録があり、これには68名の名前を書き列ねその後に次のように記録している。これは花山院氏の訳文を借りることにする。 「当村の浮立道具が紛失したので祭礼ができなくなり、村中相談の上、この催しも中止していたが、いつまでもそのままにしておくわけにもいかず、道具を新調再興し神事も整えねばならないので金銭、穀物の寄進をうけ太鼓一つ、中太鼓四つ、鉦一つを整えた。以後は怠ることなく浮立を催すことである。不足の品はまた翌年にも受けついで整えたらよい。万事について利己に働き我がままをしてはいけない。今後は神社仏閣を先ず第一と考えることが大事である。」 この記録でわかるように浮立は信仰のための一つの行事であり、古老は「神社仏閣を第一と考えよ」といい、このためには「万事について利己に働きわがままをするな」と後継者に書き残したのであろう。 ※地元の人の話では戦後復活をしている。