鍋島猫化け騒動
鍋島猫化け騒動
■所在地佐賀市(赤松)
■登録ID2489
2代藩主鍋島光茂(1657〜1700)は盲目の青年、龍造寺又七郎を城中に招き囲碁に興じていた。龍造寺氏は鍋島氏の主家にあたるが、当時は没落し、又七郎も客分として禄1,000石を与えられて臣従していた。碁の名人である又七郎に光茂は連敗、激昂のあまり遂に又七郎を斬殺してしまった。又七郎の母はわが子の死を嘆き、悲しみと怒りを飼猫に語り自殺する。流れる老婆の血をなめ尽くした怪猫はいずこともなく姿を隠した。そして城内に忍び込み光茂の愛妾お豊の方をくい殺し、お豊の方に化けて夜ごとに光茂を苦しめた。忠臣伊藤惣太・小森半左衛門はお豊の方(怪猫)を見破り退治して、鍋島家の安泰をはかったというのが粗筋で、これが幕末になってから劇化された。しかし、実際の主人公は光茂ではなく直茂であり、龍造寺氏では隆信の孫、高房である。天正12年(1584)龍造寺隆信が島津、有馬の連合軍と戦い、島原半島沖田畷で敗死すると、肥前統治の実権は果敢で思慮深い重臣鍋島直茂に移った。龍造寺高房は憤激のあまり慶長12年(1607)、22歳の若さで江戸屋敷で自殺してしまった。高房の遺体は佐賀城下精の泰長院に葬られ、高房の父政家(50代)も落胆のあまり同年死去してしまった。以来、龍造寺氏の残党が佐賀城下に出没して治安を乱した。直茂も高房の非業の死に心を痛め、高房のために天祐寺(多布施三丁目)を建立し、その霊を慰めた。これが鍋島猫化け騒動の背景である。小森半左衛門の墓碑は宗龍寺(水ヶ江一丁目)にあるが、過去帳にはない。
出典:あゝ佐賀城その歴史と周辺P7