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[物語・いわれ][物語・四方山話][赤松校区]は7件登録されています。
物語・いわれ 物語・四方山話 赤松校区
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鍋島猫化け騒動
2代藩主鍋島光茂(1657〜1700)は盲目の青年、龍造寺又七郎を城中に招き囲碁に興じていた。龍造寺氏は鍋島氏の主家にあたるが、当時は没落し、又七郎も客分として禄1,000石を与えられて臣従していた。碁の名人である又七郎に光茂は連敗、激昂のあまり遂に又七郎を斬殺してしまった。又七郎の母はわが子の死を嘆き、悲しみと怒りを飼猫に語り自殺する。流れる老婆の血をなめ尽くした怪猫はいずこともなく姿を隠した。そして城内に忍び込み光茂の愛妾お豊の方をくい殺し、お豊の方に化けて夜ごとに光茂を苦しめた。忠臣伊藤惣太・小森半左衛門はお豊の方(怪猫)を見破り退治して、鍋島家の安泰をはかったというのが粗筋で、これが幕末になってから劇化された。しかし、実際の主人公は光茂ではなく直茂であり、龍造寺氏では隆信の孫、高房である。天正12年(1584)龍造寺隆信が島津、有馬の連合軍と戦い、島原半島沖田畷で敗死すると、肥前統治の実権は果敢で思慮深い重臣鍋島直茂に移った。龍造寺高房は憤激のあまり慶長12年(1607)、22歳の若さで江戸屋敷で自殺してしまった。高房の遺体は佐賀城下精の泰長院に葬られ、高房の父政家(50代)も落胆のあまり同年死去してしまった。以来、龍造寺氏の残党が佐賀城下に出没して治安を乱した。直茂も高房の非業の死に心を痛め、高房のために天祐寺(多布施三丁目)を建立し、その霊を慰めた。これが鍋島猫化け騒動の背景である。小森半左衛門の墓碑は宗龍寺(水ヶ江一丁目)にあるが、過去帳にはない。
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鍋島家紋
杏葉紋はもともと馬具の杏葉に象ったもので、その形成上から2個以上をもって紋と成してあるものが多い。鍋島家の紋は杏葉の紋である。「藩翰譜」によれば、鍋島直茂が今山の戦いに勝利したことにより、敵大友八郎の紋をわが紋にしたとあり、それまで用いられていた剣菱紋は、以後かえ紋として使用されたようである。 また一般に杏葉紋には葉脈はないが、鍋島本家の杏葉には葉脈がかたどってあるため、後世、茗荷紋、とくに「だき茗荷」などと見誤られることとなった。ちなみに嫡子や三支藩、または親類の白石鍋島家の紋には葉脈がなくおしべのついた花杏葉が用いられ、それぞれおしべの数が異なっている。
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佐嘉の地名起源(『肥前風土記』)
日本武尊が御巡幸の時、楠巨木が繁茂しているのを見て「この国は栄えの国というべし」といわれた言葉から、栄郡(さかえこおり)転じて佐嘉郡になったという。 郡の西の川に荒ぶる神がいて、往来の人の半数を生かし、半数を殺した。そこで郡の主が大荒田の占いに問うたら巫女、旧く「下山田の上で生けにえの代わりに人形、馬形を造って神を祭れ」と、そのようにしたら荒ぶる神はやわらぎ静まった。そこで、この巫女は賢女(さかしめ)であるといわれたことから、賢女郡というようになったという。
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佐賀の役(佐賀戦争)
明治7年(1874)頃の佐賀には、征韓論実行を主張する征韓党と、政府の欧化政策に反抗する保守的な憂国党の二大士族のグループがあった。政府内で征韓論を主張していれられず下野した前参議江藤新平は迎えられて征韓党の首領となった。憂国党は北海道開発の祖、前秋田県令島義勇を党主としてその数は1万余りに達した。江藤はひとたびことを起こせば各地の反対分子があいついで呼応すると期待していたが、その足並みはそろわなかった。それに反して政府の処置はすばやかった。政府は陸軍省に出兵を命じ、参議、内務卿大久保利通に兵馬の大権を授けて出張させた。岩倉高俊は佐賀県令に任じられ、熊本鎮台の兵を率い佐賀城に入り戦闘を開始した。佐賀士族軍は一時佐賀城を奪回したが、洋式鉄砲訓練をうけた政府軍が攻勢に転じ完敗させられた。 江藤はひそかに鹿児島に逃れ西郷隆盛を頼ったが、西郷はこれに応じなかったので渡海して高知に赴き片岡健吉・林有造に会見したが、ただ自首を勧められるだけであった。江藤はさらに東上を企てたが、高知県東端の甲の浦で逮捕され、佐賀に護送された。ただちに軍事裁判が開かれ、江藤、島は「梟首」の惨刑に処せられた。後年明治天皇の御聖断によって賊徒の汚名が消され、大正5年、江藤新平、正四位。島義勇、従四位。贈位。
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乾亨院のコンニャクの化け物
もう4・500年も昔のことだが城内の乾亨院の大楠には、コンニャクの化け物が住んでいた。時は移って、さすがの大クスも年老いて、切り倒された。 その後にその木の魂をなぐさめるために、石碑がたてられた(明治20年)。石碑の表に「南木神社」と刻まれている。また、コンニャクの化け物のいわれを残して、側の川に架けられた橋を「コンニャクばし」と呼ぶようになった。
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佐賀城下の火災
1.享保11年(1726)3代藩主綱茂公の時、片田江堅小路、手明鑓の藩士の家から出火。水ヶ江、二の丸、鬼丸まで類焼。天守閣を除いて再建。 当時大飢饉、火災、天災に苦しめられ、倹約令発布。実用性のうすい天守閣は後まわしになったという。 2.天保6年(1835)10代藩主直正(閑叟)公の時、二の丸長屋より失火。三の丸、御座間(御居間)を残し焼失。直正公の室、盛姫様 徳川家のため、幕府より2万両の見舞金をうける。当時としては大金であった。 3.明治7年(1874)佐賀戦争で玄関、式台、外書院、鯱の門を残し戦禍をうける。玄関、式台は解体され龍泰寺本殿に移築された。御座の間(執務室)も移転された。鯱の門は26弾痕を残し名をとどめているが国の重要文化財に指定され、石垣も含めて当時の面影を偲ばしてくれる。
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龍造寺家家紋 十二日足
龍造寺家の家紋は、十二日足(じゅうにひあし)紋を用いているが、いつごろから使用されたかは不明である。 これは、日に光芒が脛(すね)のような形で十二ついているもので、日は太陽を象ったもので、神を意味しており、鎌倉時代には、皇室の御紋章にされたともいわれる。 「歴代鎮西志」に、「龍造寺家の紋は日光(ひあし)なり。略家伝に曰く、往昔先祖初めて下る時、夢に旭日の光晃曜として身を照らす。覚めて見るに、旭日東に映じて光身に徹す。宛も見る所の夢の如くなり。是に於て、其の晃曜を尽くし、旗に着くるに、向う所利を得、処る所運開く、爾来永えに流へて家紋と為る。所謂日光文是れ也。」とある。