堤長定先生顕彰碑
堤長定先生顕彰碑
■所在地佐賀市鍋島町植木
■登録ID2629
堤長定は、嘉永6年(1853)植木で生まれ、血気盛んな21歳時に憂国少年隊に加わり、佐賀戦争の寒水川、田手川の戦で奮戦の記録が残っている激情家であった。
彼は、資性剛直、清廉潔白で教育事業に熱心であった。明治10年頃鍋島町内には蛎久、森田、東新庄など数ヶ所に別れて小学校があり、非常に不便であったので、一村一校の学校建設のため、東奔西走して、村民の同意を得て、遂に明治15年養成小学校(現鍋島小学校)を設立させた。
彼は、教員として、学務要員として、本村教育に貢献すること三十有余年不滅の功績を留め、大正13年72歳で逝去した。墓は蛎久天満宮の横にある。
古老の談によると、後半彼は、植木の自宅で水車を利用して精米業を営んでいた。さすが佐賀戦争の勇士らしく不屈の気概で鍋島教育界にきらめく星であった。
七賢人の島義勇の甥にあたる。
出典:鍋島町史p.14、烈士島義勇p252
顕彰碑
堤長定氏居住跡
氏は佐賀の殉国烈士の一人上佐賀代官重松基吉氏の次男として佐賀城下精小路に生れた
伯父島義勇(北海道首席開拓判官・明治天皇侍従・秋田県令・憂国党々首)の薫陶を受け明治七年同役において弱冠十九歳にて憂国少年隊長として従軍奮戦した
謹厳実直・清廉潔白・不屈の気概を有する氏は子弟教育に情熱を傾注し明治十五年養生校(現鍋島小学校)創設に奔走し自ら教師又学務委員として活躍した
本町教育に貢献すること三十有年不滅の功績を留め大正十三年七十二才にてこの地で長逝した
堤長定氏次男堤龍雄氏公民館敷地としてこの地を寄贈
昭和六十年四月吉日
建立者
植木自治会
自治会長 石丸正義
公民分館長 古賀孝道
会計 古川義孝
出典:石碑碑文