検索結果 RESULT
[建造物][碑][鍋島校区]は3件登録されています。
建造物 碑 鍋島校区
-
成富兵庫誕生地
成富兵庫茂安は、永禄3年佐賀藩士成富甲斐守信種の第二子として、鍋島村増田(益田)百石に生まれた。増田地区の東北隅嘉瀬川堤防の中腹に誕生記念碑がある。茂安は資性勇武智慮深く、17歳のとき初陣に功を立てたのを初めとし、寛永18年(1641)病没するまで75年間今山戦はじめ大小幾十度の戦に従い武勲を顕した。後半は築城(熊本、江戸、大阪、名古屋)、土木、治水、干拓、塩田に精励し、民生事業に妙技を発揮し、藩財政を豊かにし余慶を後世に残した。東は筑後川堤防から西は伊万里海岸まで、佐賀平野各地に茂安の徳をたたえる記念碑や社がある。
-
忠魂碑
鍋島町遺族会は、日露・日独戦争や満州・上海・支那事変・大東亜戦争において戦没された英霊を祭神として、大正13年10月鍋島小学校の一角に鍋島町郷友会の発起で忠魂碑が建設された。 ところが昭和16年勃発の大東亜戦争で敗戦となり占領下のもと一時倒壊のやむなきに至った。 戦後忠魂碑再建委員会が設けられ、鍋島町全域からの現金や奉賀米等の寄附により、昭和28年3月に再建された。当時の合祀者数300有余柱を祀り、遺族会は毎月開かれ献花清掃は地区当番を決めて、諸英霊のご冥福を祈り、年1回郷友会主催で合同慰霊祭が行われている。また、同碑の横に明治39年6月に鍋島村奉公会で建てられた日露役戦死者の碑も東新庄から移され忠魂碑の横に奉神されている。 昭和28年忠魂碑建設のための現金寄附は、20万2000円、奉賀米算額15万1000円で合計35万3000円である。(内、忠魂碑建設費は18万7000円)
-
堤長定先生顕彰碑
堤長定は、嘉永6年(1853)植木で生まれ、血気盛んな21歳時に憂国少年隊に加わり、佐賀戦争の寒水川、田手川の戦で奮戦の記録が残っている激情家であった。 彼は、資性剛直、清廉潔白で教育事業に熱心であった。明治10年頃鍋島町内には蛎久、森田、東新庄など数ヶ所に別れて小学校があり、非常に不便であったので、一村一校の学校建設のため、東奔西走して、村民の同意を得て、遂に明治15年養成小学校(現鍋島小学校)を設立させた。 彼は、教員として、学務要員として、本村教育に貢献すること三十有余年不滅の功績を留め、大正13年72歳で逝去した。墓は蛎久天満宮の横にある。 古老の談によると、後半彼は、植木の自宅で水車を利用して精米業を営んでいた。さすが佐賀戦争の勇士らしく不屈の気概で鍋島教育界にきらめく星であった。 七賢人の島義勇の甥にあたる。