神代家(親類藩) 

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神代家(親類藩) 

■所在地佐賀市久保泉町
■登録ID2961

 神代家は、人皇8代孝元天皇の孫・武内宿禰を元祖とし、高良山玉垂の宮に仕え高良山に住んでいたが、源平の頃高良山の北麓神代村に移った。元寇の役のとき増水した筑後川で、筑後以南の軍勢を船を繋いだ浮橋によって渡した功により、幕府の感状を貰っている。以来、久留米東北部の地頭職であった。
 戦国中期、筑後の蒲池・西牟田に攻められ、一族と筑後の地頭土豪達27人が松浦の波多氏を頼って行く途中、千布の陣内氏と仲良くなり、婿に迎えられ、神代勝利が生まれた。
 勝利は山内の将に迎えられ、龍造寺と相争いその子長良の代に大友と共に佐賀城を攻めたが、鍋島の夜襲を受け大敗。鍋島直茂の甥(家良)を養子に迎えて4,300石の知行を受け、一時芦刈に移封されたが、川久保に戻り鍋島家良(直茂の甥)・直長(勝茂の10男)・直利(光茂の次男)を次々と邑主に迎え、親類藩として1万石の領主となり、明治の時代まで栄えた。
 龍造寺氏との攻防は、当時のいくつもの戦記に面白く述べられているが、勝利初め代々の領主は大小の溜池・水路開さく・新町開発等の善政をしいたので、主従の関係は他藩に無い親密なものがあった。特に最後の邑主神代直宝は、95町余の山林を県に寄付第一模範林として植林させ、緑と豊かな水で町を潤して呉れた。また350町歩の山林原野を川久保に無償払い下げ、今日の蜜柑産地として町民の懐を潤おした。士族授産竹細工奨励は堅ろう「川久保物」として県内外に有名になった。
 町民は、神代家の住民に対する業績を感謝しこの恩情をいつまでも忘れないで、語り伝えたいものである。

出典:久保泉町史跡等ガイドブックp.32〜35