精煉方跡

精煉方跡

■所在地佐賀市多布施3丁目
■登録ID450

 佐賀藩主鍋島直正の命により設置された精煉方は、明治維新後、ガラス製造部門が青木熊吉によって引き継がれ、精煉社、精煉合資会社と名前が変わった。
 敷地内は、現在も青木家が居住し、昔を忍ぶ人は通称ここを「精煉社」と呼んでいる。そもそも精煉方は、直正の時、産業拡大を目的として設置された理化学研究所であり、その活動はめざましいものであった。ここで蒸気汽鑵、電信機械等が研究され、汽車、蒸気船、電信機等の模型が製作された。模型とはいえ、外形だけでなく、中の方には走れるように蒸気機関や機械が備えつけられて、実際に動かされた。汽車を走らせるためにはレールを大きく環状に置き、その上に機関車を(アルコールを焚いて、水蒸気を起して、車輪を廻転させる)のせて走らせ、多くの貨車を引かせ、くるくると回らせた。

出典:日新読本(P.215)

【精煉方跡】
 嘉永5年(1852)に多布施河畔の高岸に設置された幕末佐賀藩の「理化学研究所」で、様々な理論・技術の研究開発を行った。初期には築地・多布施反射炉での鉄製大砲鋳造のバックアップや火薬などの研究を行っていたが、後には蒸気車・蒸気船の雛形製造、電信機の試作などを行い、慶応元年(1865)の三重津海軍所における国産初の実用蒸気船「凌風丸」完成にも大きく貢献した。精煉方のメンバーは主任の佐野常民が御雇として藩外から集めた専門家であり、洋学者の石黒寛次が翻訳して、化学者の中村奇輔が理論研究を行い、田中近江(からくり儀右衛門)父子が製作を担当して、新しい技術の開発・取得に成功していった。

出典:文化振興課前田達男氏提供

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