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[遺跡・跡地][跡地][日新校区]は6件登録されています。
遺跡・跡地 跡地 日新校区
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江藤新平の誕生地
八戸の街道から北へ100mほど入った所に、江藤新平の誕生地があります。 1834年(天保5年)2月9日ここで生まれた江藤新平は、11歳の時に藩校弘道館に入学し、19歳の時には副島種臣の兄、枝吉神陽(えだよししんよう)のもとで学びました。明治新政府の初代司法卿(しほうきょう)となり多くの業績を残しましたが、「佐賀戦争」を起こし敗北、1874年(明治7年)に処刑されました。
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名刀肥前忠吉屋敷跡
慶長(1597年頃)のはじめ、佐賀郡長瀬村の鍛冶職人、忠吉は、藩主直茂に見いだされ京都に上り、刀鍛冶、埋忠明寿に師事、3年の歳月を費やして腕を磨いて帰国し、鍛冶場をつくりました。 当時、六座町より西は町名がなかったので、長瀬村からとって長瀬町と名付けたといわれています。 刀匠忠吉一門は9代まで継承され、見事な肥前刀を生み出しました。その面影を残すものは今は何もありませんが、「刀匠近江屋敷跡」「刀匠河内大掾藤原正広屋敷跡」の石柱が建てられています。
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近江屋敷跡
桃山時代末期の刀匠である肥前忠吉は、龍造寺隆信の家臣橋本道弘の子として生まれ、その系譜は江戸時代に入り幕末に至るまで、いずれも名工の名を残し、数多くの名刀を世に出したことで知られている。 初代武蔵大掾(だいじょう)忠吉のほか、2代近江大掾藤原忠広、3代陸奥守忠吉、8代忠吉等が特に著名である。 忠吉一門は、長瀬町5−41(現在橋本正敏氏宅一帯であり、橋本家は忠吉の子孫である)に屋敷を構えていたが、そのあたり3カ所に石碑が立てられて屋敷跡が表示されている。 近江屋敷の名は2代近江大掾忠広の名からくるものであろう。初代忠吉の墓碑は伊勢町の真覚寺にあり、その他一門の墓碑は八戸1丁目の長安寺にある。
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精煉方跡
佐賀藩主鍋島直正の命により設置された精煉方は、明治維新後、ガラス製造部門が青木熊吉によって引き継がれ、精煉社、精煉合資会社と名前が変わった。 敷地内は、現在も青木家が居住し、昔を忍ぶ人は通称ここを「精煉社」と呼んでいる。そもそも精煉方は、直正の時、産業拡大を目的として設置された理化学研究所であり、その活動はめざましいものであった。ここで蒸気汽鑵、電信機械等が研究され、汽車、蒸気船、電信機等の模型が製作された。模型とはいえ、外形だけでなく、中の方には走れるように蒸気機関や機械が備えつけられて、実際に動かされた。汽車を走らせるためにはレールを大きく環状に置き、その上に機関車を(アルコールを焚いて、水蒸気を起して、車輪を廻転させる)のせて走らせ、多くの貨車を引かせ、くるくると回らせた。
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多布施反射炉跡
佐賀市伊勢町㈱ミゾタ北側敷地一帯を言う。嘉永6年(1853)6月、米艦が浦賀に来航し通商を迫ったので、徳川幕府では大いにおどろき、日本の国防について種々評議の上幕府の阿部閣老より、同年9月3日に佐賀鍋島藩に命令書が下された。その内容は、鉄製36ポンドカノン(大砲)25門、24ポンドカノン(大砲)25門、及びそれを乗せる車台50台を注文したものである。 そこで佐賀藩では長瀬町の築地(ついぢ)の反射炉だけでは狭くてとうてい間に合わぬため、さらに多布施川畔に大規模な反射炉を築き、鍋島志摩を鋳立方頭人として大砲の鋳造に当たらせた。 何分大きな大砲なので何度も失敗を重ねてやっと安政2年大砲25門を鋳成した。ただちに大坂奉行の廻した順成丸、妙法丸の2隻(せき)に16門を積載して輸送したが途中7月23日紀州灘で暴風雨に遭い順成丸は沈没し妙法丸と乗組員とは勝浦に漂着した。 そこで積み残りの大砲と、その後出来上がった大砲を江戸幕府より廻された昌平丸に積んで輸送し、品川台場に据付けた。佐賀人として誇るべきことであろう。
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八戸城跡
八戸1丁目にある龍雲寺一帯は、室町時代八戸一帯に勢力を誇っていた豪族於保氏(のち八戸氏と改める)の居館跡である。 於保氏は鎌倉時代から戦国時代にかけての武将である。高木宗家の弟益田家綱の子、宗益が佐嘉郡於保(現在佐賀市大和町)に住し、子孫もこの地に居住したため於保氏と称した。宗益の子宗高は京都大番役を勤め、その子種宗も肥前国執行職についており、鎌倉幕府の御家人として、文治年間(1185〜1190)ごろより於保地頭職を継承したといわれる。 「北肥戦誌」によれば、於保弥五郎弼宗(すけむね)は南北朝期、筑後川の合戦で少弐方に立ち、菊池武光の軍と戦った。 さらに4代の後、宗繁の兄弟胤宗は龍造寺家兼の娘婿となった。また、同兄弟宗貞は、これより分かれて八戸氏と称した。 龍雲寺は、もと慶聚寺といって、大永元年(1521)八戸胤宗が建立したもので、城は三重の城濠で囲まれていたと言われる。 八戸家最後の主宗暘が龍造寺隆信との戦いに敗退して城はなくなり、寺は天文元年(1532)龍造寺家重によって龍雲寺として再建されたが、城濠の面影はなくなっている。 「葉隠」の口述者山本常朝は、八戸氏の後裔として当寺を菩提寺とした。その墓碑も当寺にある。