永正年代(1510年前後)龍造寺豊前守胤家が居館とした。後年、西の館に移って、ここはその子の斎亮に譲った。斎亮は、深く仏を信じ、豊前の国彦山権現に参籠修行し、遂に僧となり、清心院と称することになった。やがて、居館を寺としたので法号をそのまま院号とした。
慶長年間、佐賀城構築のときから、この寺が城の東北隅にあるので、鬼門鎮護の道場とし、西北隅の天祐寺とともに、佐賀城の出城の役目をしていた。現在でも清心院の周囲には堀が残っていて、当時の要衝の地であったことを偲ぶことができる。
出典:ふるさと循誘(P.15)