了関橋

了関橋

  • 了関橋
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■所在地佐賀市水ヶ江2丁目(元横尾蒲鉾店前)
■登録ID499

この橋は、蓮池藩2代藩主鍋島直之公が、佐嘉城に兵学教授のため通っていたが、ここの所に橋がなく随分と遠回りをしなくてはならず、ここに橋を架けられた。橋の名前は、鍋島直之公の戒名に因んで付けられたとのことである。架橋により蓮池往還も賑わったとのことである。
 また、了関橋南に鷹匠橋があり、この橋の北側から裏十間川2号分水路で分れ東に流れて、室園橋や安住橋東に進み八田江川に入っている。

出典:ふるさと循誘(P.170)

蓮池藩主が架けた今宿の『了関橋』

蓮池支藩2代藩主鍋島直之公は神得流の兵学に長じていられたので、佐賀4代藩主鍋島吉茂公に『兵学』を教えていた頃、佐賀城に通っておられたが、朝日町の西側で水ケ江との境にある裏十間川には橋がなかったので、遠回りをしていた。鍋島直之公は、このことで大変不便を感じて、この川に橋を架ければ、難儀をしている人達が便利になると思案し、橋を架けることにした。架橋により『蓮池往還』は大変繁栄した。鍋島直之公は、初代支藩主『直澄』公の嫡男で江戸藩邸で生まれ、22歳で支藩主になり、元禄12年2月幕府の命によって、はじめて『勅使接待役』の命を受け大役を果たした。橋の名前は、鍋島直之公の戒名である、『要院殿了関宗勇大居士』に因んで後の人達がこの橋を『了関橋』と名付けられた。水ケ江町の龍谷学園前から蓮池町に通ずるこの道路は、道路幅が狭く昔は、バスの運行にも支障が出ていたので、永年にわたってこの道路拡張の計画が検討されていたが、近年地域の人達の協力により計画が実現して、数年前から龍谷学校前から工事が進み、この了関橋付近までは工事が終了し、かつての了関橋は幅員もとても広くなり、橋の存在すら注意しないと分からないように整備が進み様変わりしてきた。

出典:ふるさと循誘(P.156)

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