大財聖堂跡

大財聖堂跡

  • 大財聖堂跡
  • 大財聖堂跡

■所在地佐賀市大財1丁目
■登録ID5390

佐賀藩では2代藩主鍋島光茂が元禄4年(1691)に佐賀城二ノ丸聖堂を創立して、藩士の教育にあたりました。その後、3代藩主鍋島綱茂が元禄10年(1697)に鬼丸の観頣荘に聖堂を移転して、名称も鬼丸聖堂と変更しました。
 一方、民間の教育施設として、武富市郎右衛門咸亮(廉斎)により大財聖堂が建設されました。
 武富廉斎は、寛永14年(1637)、御用商人であった武富家(白山町)の分家、武富四郎右衛門常古の子として、勢屯町近辺に生まれました。幼少から小城の関尚樸(儒学者)に従学し、16歳の時に京都で中村惕斎に学んだ廉斎は、「諫早慶岩(巌)寺之住僧より筑紫筝を学、公家方より琵琶を学上手と成」(「葉隠聞書校補」『佐賀県近世史料第8編1巻』)とあり、筑紫筝や琵琶を学ぶ等文化も嗜んでいました。
 家業の呉服商を継いだ後、元禄5年(1692)に私財を投入し大財聖堂を創設、敷地内に講堂の鴛魚斎、私塾の依仁亭を開いて藩士や町民に儒学を講じました(『佐賀県先哲叢話』)。聖堂の完成に際して佐賀藩は、聖堂敷地4反6畝を免税地とし、協力を惜しみませんでした。正徳3年(1713)には自然石の大宝聖林碑を建立しました。この石碑は亀が石碑を背負った「亀趺」という様式で、昭和28年頃に多久市の西渓公園に移設されています。
 廉斎は、享保3年(1718)に82歳で亡くなりました。武富廉斎を始めとする一族の墓は称念寺にあります。
 その後、武富家の子孫が藩の援助を受けながら存続させますが、城下のはずれで通学に不便なため次第に学生数が減少し、天明年間(1781~1788)には廃校状態にあったようです(『鍋島直正公伝』第一篇)。鬼丸聖堂もまた同様の状況であったため、こうした状況を憂い、8代藩主治茂は天明元年に佐賀城下の中心の松原小路を選んで藩校弘道館を設置しました(『佐賀市史』第2巻)。
 大財聖堂跡付近には、昭和15年(1940)皇紀二千六百年記念に建てられた「大財聖堂址」の石碑があり、北側には廉斎の名を偲ぶ「れんさい橋」がありあります。

出典:豊福英二氏(郷土史の調査研究)

地図