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[遺跡・跡地][跡地][循誘校区]は6件登録されています。
遺跡・跡地 跡地 循誘校区
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佐賀劇場跡
佐賀市材木町一の橋にあった佐賀劇場は、大正5年福岡市で開催された九州沖縄八県連合共進会の演芸館を古賀小一氏が払い下げを受け、当時『改良座』と称して演芸場を開設したのが始まりである。この劇場は、内側と外側が別々に回る二重の円形舞台が装置される等設備が整っていた。大正8年には『栄楽座』と改め、また昭和14年頃に『佐賀劇場』と改めた。佐賀劇場では、いろいろな演芸が上演され、芝居や浪花節(浪曲)は特に賑わい、関東関西の一流浪曲師が、この佐賀劇場の舞台で活躍し、『佐賀で浪曲の興業をやって損したことがない』と市民の間で口々に言われたこともあった。現在大相撲の国技館のように、建物の周辺には、何本も、のぼり旗が立っていて娯楽施設としての演芸場の雰囲気を一段と盛り上げていた。また、筑紫美洲(主)子さんもこの舞台で大いに活躍されていた。芝居と映画を組み合わせた『連鎖劇』といわれる新しい芝居なども上演されるなど、次の時代に出てくる常設映画館が流行するまで、佐賀市民の娯楽施設として重要な役割を演じてきた。その他当時の演芸場は、演説会、講演会などの集会場としての利用も多くあった。佐賀のガス会社の開業式も大正2年4月13日にこの改良座で行われ、佐賀県知事、佐賀市長の他400名が集まり、賑やかな式典であったと当時の新聞は報じていた。また、明治17年頃松原町新馬場に『松栄座』ができた後に『新栄座』と改められたが、(後に昭和館と改称)ここでは、佐賀市が水道施設の建設計画を進めた大正2年には、大々的な『佐賀市水道建設反対市民大会』がこの『新栄座』で開催された歴史もある。
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室園遊廓の跡
この室園遊廓のあったところは、佐賀藩唯一の河港があったところで、有明海から筑後川をさかのぼり佐賀江を通って今宿に至るもので、物資の流通と人の交流が盛んで商業が盛んなところでした。 室園遊廓には、北の方からと東西からの入り口がありますが、北と西には昔ながらの石橋がかかっていて、その欄干には遊廓の名前の屋号が刻まれていて、かつてここが遊廓として大変賑わっていた昔の面影を、彷彿として今にして思い出させる歴史の一端を残しています。 この遊廓は、明治中頃からここに集中して歓楽街ができたと云われていますが、昭和初年頃には12軒の遊廓があったとのことです。大正4年には約150人の女の人がいて年間2万8千人くらいの客で賑わったと云われています。 大正後半から昭和初年にかけて、病に罹患する青年が多くなったので、昭和3年9月1日から病気の予防取締法が実施され、多くの論議を呼びました。 また、武雄町では遊廓から集団で抜け出し、佐賀の『佐賀婦人矯風会』に保護を求め大きく問題化したこともありました。昭和31年婦人団体などを中心とした世論の力で売春防止法が成立し、昭和33年(1958) 3月までに転廃業し、公娼制度に終止符が打たれました。現在でも当時の面影を残す旧楼の建物が数軒残っています。
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勢屯
勢屯は「せいだまり」「せいだまる」「せいとん」等と読みます。勢屯とは城郭の中や城下町の出入口である構口や辻などに設けられた広場・たまり場を言います。戦国時代は人馬や武器を揃えて陣容を整える場所であり、江戸時代の参勤交代の際は行列を整えたりする場所としても使用されましたが、主に馬の調練場である馬場の役割を果たしていました。 元文5年(1740)「元文佐賀城廻之図」(公益財団法人鍋島報效会所蔵)には、欄干橋の南に「勢屯」とあり、現在松原3丁目にある深川製磁佐賀店前の交差点一帯に位置していたことが分かります。なお、城下町としての勢屯町は、さらに北に位置しています。 近世城下町にはこのような馬場がいくつか設けられ、城下に在住する武士が乗馬調練などを行うために使用していました。この場所の勢屯は、「文化御城下絵図」(公益財団法人鍋島報效会所蔵)には記されておらず、文化年間の中頃(1810年頃)には勢屯としての機能はなくなっていたようです。 この他にも佐賀城北御門の北側や、西堀端小路辺りにも勢屯がありました。 勢屯から東に向かうと、裏十間川の南側に片田江七小路の一つ、馬責馬場(うませんばば)があります。馬の調練場である馬場(勢屯)があったことから、この名がついたものと考えられます。馬責馬場の名称は地名として、今も使用されています。 なお、通りの北側にある裏十間川沿いの土手は、「土手際小路」と呼ばれていました。
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欄干御茶屋
欄干御茶屋は佐賀藩4代藩主鍋島吉茂が新築した御茶屋で、享保8年(1723)の記録に「四月廿一日、御着懸欄干新御茶屋へ初テ入ラセラル」とあり、このときに初めてその名前が登場します(『佐賀県近世史料第1編第4巻』)。また、享保11年(1726)に起きた火事で佐賀城が焼けた際には、一時的な避難場所として欄干御茶屋へ入り、その後別の屋敷へ移るなどしています。 公益財団法人鍋島報效会所蔵の元文5年(1740)「元文佐賀城廻之図」には、現在の松原神社鳥居の東側周辺の広大な敷地に「欄干茶屋」と名前がありますが、8代藩主鍋島治茂の時代、安永元年(1772)に「欄干御屋敷之儀、解除候様最前被仰出置候ニ付、解除相成候」とあり、この頃更地になったようです(『佐賀県近世史料第1編第5巻』)。 その後、10代藩主鍋島直正が再興し、天保13年(1842)には「是迄願正寺御屯之処、此節欄干御茶屋被相建ニ付」とあり、それまで願正寺が担っていた役割を欄干御茶屋へ移しました(『佐賀県近世史料第1編第11巻』)。欄干御茶屋は、神野御茶屋や水ヶ江御茶屋と同じように藩主の休憩所として、また幕府の使者と面談する迎賓館的役割を果たすために使用されていました。 現在では、裏十間川にかかる欄干橋に「欄干」の名称が残るのみとなっています。
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大財聖堂跡
佐賀藩では2代藩主鍋島光茂が元禄4年(1691)に佐賀城二ノ丸聖堂を創立して、藩士の教育にあたりました。その後、3代藩主鍋島綱茂が元禄10年(1697)に鬼丸の観頣荘に聖堂を移転して、名称も鬼丸聖堂と変更しました。 一方、民間の教育施設として、武富市郎右衛門咸亮(廉斎)により大財聖堂が建設されました。 武富廉斎は、寛永14年(1637)、御用商人であった武富家(白山町)の分家、武富四郎右衛門常古の子として、勢屯町近辺に生まれました。幼少から小城の関尚樸(儒学者)に従学し、16歳の時に京都で中村惕斎に学んだ廉斎は、「諫早慶岩(巌)寺之住僧より筑紫筝を学、公家方より琵琶を学上手と成」(「葉隠聞書校補」『佐賀県近世史料第8編1巻』)とあり、筑紫筝や琵琶を学ぶ等文化も嗜んでいました。 家業の呉服商を継いだ後、元禄5年(1692)に私財を投入し大財聖堂を創設、敷地内に講堂の鴛魚斎、私塾の依仁亭を開いて藩士や町民に儒学を講じました(『佐賀県先哲叢話』)。聖堂の完成に際して佐賀藩は、聖堂敷地4反6畝を免税地とし、協力を惜しみませんでした。正徳3年(1713)には自然石の大宝聖林碑を建立しました。この石碑は亀が石碑を背負った「亀趺」という様式で、昭和28年頃に多久市の西渓公園に移設されています。 廉斎は、享保3年(1718)に82歳で亡くなりました。武富廉斎を始めとする一族の墓は称念寺にあります。 その後、武富家の子孫が藩の援助を受けながら存続させますが、城下のはずれで通学に不便なため次第に学生数が減少し、天明年間(1781~1788)には廃校状態にあったようです(『鍋島直正公伝』第一篇)。鬼丸聖堂もまた同様の状況であったため、こうした状況を憂い、8代藩主治茂は天明元年に佐賀城下の中心の松原小路を選んで藩校弘道館を設置しました(『佐賀市史』第2巻)。 大財聖堂跡付近には、昭和15年(1940)皇紀二千六百年記念に建てられた「大財聖堂址」の石碑があり、北側には廉斎の名を偲ぶ「れんさい橋」がありあります。
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本陣跡
呉服町商店街の長崎街道を南に向かい東に折れた角に昔からの石の道しるべが二本あり、それぞれに「こくらみち・ながさきゑ」(小倉道・長崎へ)「右おふくわんゑ」(往還へ)と刻まれています。さらに道なりに東へ向かうと晒橋の手前に佐賀藩本陣跡があります。本陣とは、大名や旗本及び幕府の役人等が使用する宿泊所のことです。従来、佐賀城下では願正寺と称念寺が仮本陣(御茶屋)として利用されていましたが、寛政年間に入ると長崎奉行が佐賀城下に宿泊するケースが増えてきたため、当城下にも本格的な「本陣」を設ける必要がありました。 寛政12年(1800)、呉服町の御用商人野口恵助から私邸の提供を受け、安政年間になると、藩はさらに隣接屋敷を買収したり、献上させたりして本陣として拡張し、御書院・寝所・家老屯・御膳所・祐筆・医師など数多くの部屋を設けて整備しました(『佐賀市史』第二巻)。本陣ができてからは、願正寺・称念寺は脇本陣として使用されました。