欄干御茶屋

欄干御茶屋

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■所在地佐賀市松原3丁目
■登録ID5394

欄干御茶屋は佐賀藩4代藩主鍋島吉茂が新築した御茶屋で、享保8年(1723)の記録に「四月廿一日、御着懸欄干新御茶屋へ初テ入ラセラル」とあり、このときに初めてその名前が登場します(『佐賀県近世史料第1編第4巻』)。また、享保11年(1726)に起きた火事で佐賀城が焼けた際には、一時的な避難場所として欄干御茶屋へ入り、その後別の屋敷へ移るなどしています。
 公益財団法人鍋島報效会所蔵の元文5年(1740)「元文佐賀城廻之図」には、現在の松原神社鳥居の東側周辺の広大な敷地に「欄干茶屋」と名前がありますが、8代藩主鍋島治茂の時代、安永元年(1772)に「欄干御屋敷之儀、解除候様最前被仰出置候ニ付、解除相成候」とあり、この頃更地になったようです(『佐賀県近世史料第1編第5巻』)。
 その後、10代藩主鍋島直正が再興し、天保13年(1842)には「是迄願正寺御屯之処、此節欄干御茶屋被相建ニ付」とあり、それまで願正寺が担っていた役割を欄干御茶屋へ移しました(『佐賀県近世史料第1編第11巻』)。欄干御茶屋は、神野御茶屋や水ヶ江御茶屋と同じように藩主の休憩所として、また幕府の使者と面談する迎賓館的役割を果たすために使用されていました。
 現在では、裏十間川にかかる欄干橋に「欄干」の名称が残るのみとなっています。

出典:豊福英二氏(郷土史の調査研究)

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