宮崎林三郎

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宮崎林三郎

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■所在地佐賀市兵庫町
■年代近世
■登録ID572

安政4年(1857)4月、瓦町上分に生まれた。父栄蔵は村治に功績を残したが、氏は専ら農業に従事した。教育はわずかに寺子屋で読み、書き、そろばんを学んだのみで、兵役を終えてから商業の道に進み相当の財産をなしたが、中途不運にも資産を一時に失った。その上、平素の眼疾が悪化し、遂に失明するに至った。「富をつくるのは永遠の計ではない。家運を挽回するためには堅実な仕事を残すことだ。」と悟り、盲目の身にもかかわらず、発明考案に一生を捧げようと決意した。氏は、わが国が天然の漁業国でありながら漁網製造のすべてが旧式であることに着目し、漁網製造を始めた。
しかし、成功するに至らなかったので発明の方針を手近かなものに変え、繩ない機の発明が農家の福利増進に最適と考えた。これが宮崎式繩ない機発明の発端である。
何ごとも一朝一夕で成るものではない。苦心さんたん、家計は衣食に困るまでに窮迫した。職工の賃金なども不払のままであった。滝弥一(鍛冶屋)、滝屋佐一(大工)は先年来、雇われて同機の製造を助けてきたが、盲目で赤貧洗う貧乏でありながら林三郎夫妻の燃ゆる情熱に感動し、無報酬で発明に協力していた。
8年の歳月、あらゆる苦労を乗り越えついに繩ない機は完成したが、皮肉にも世間はその価値を認めなかった。林三郎は人に売るよりも一家を挙げて繩ないを実行し、機械の真価を証明しようと考えた。やがて村民は機械の利便を認めながら、高価であるとの理由から購入するものがなかった。両職人も仕方なく涙をのんで暇をとった。
林三郎はついに絶望し、病床にしんぎんしたが、夫人はよく貧困と闘い、病床の夫を助け、子女を励まし女の道を全うした。氏もまた妻の姿に決然と起ち上り、家具はもちろん、櫛、かんざしまで金に代え、職工を探し廻り、再びその製造を始めた。
時あたかも日露戦争が勃発し、繩の需要はうなぎ上りとなり、機械による大量生産に追われたが、機械に不慣れのため製品の粗悪さが目立ったので、家人を技術訓練のため各地に遣わし、やっと世間の信用を得るところとなった。こうして宮崎式繩ない機の名声は、一時に高まった。
我々は郷土の先輩のこの苦心をかみ締め、単に発明の結果を賞するよりも、盲目の身を以て農家の福利増進を念じ発明に執念した気概と夫人の内助の功を手本とすべきである。

出典:兵庫町史p217

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