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[神社仏閣][墓][本庄校区]は14件登録されています。
神社仏閣 墓 本庄校区
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梅林寺(庵)直茂伯母夫妻の墓
直茂(彦法師丸)の伯母夫妻の2基の墓が梅林寺墓所の東部にある。伯母於喜久(清房の姉)が久米良家に嫁ぎ、西川内に居住、梅林庵に帰依していた。彦法師丸が同寺で2年余り手習、学問に励んだことも、伯母夫妻の気遣いなどの影響からと考えられる。 「墓碑刻銘」 玉峯常金居士(正面) 久米主税助良家 天正十三年乙酉九月十八日(側面) 花屋妙春大姉(正面) 鍋嶋平右衛門尉清久公(直茂の祖父)御長女於喜久殿 天正七年巳卯 廿日(側面)
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高傳寺湛然和尚の墓碑
本堂南側に立ち並ぶ40基の墓は、開山・玲巌玄玻和尚を中心に両側に2代、3代、縦列両側に代々住職の墓である。ここに、『葉隠』の口述者・山本常朝が仏道の師と仰いだ11代湛然梁重和尚と常朝の刎頸の友と言われ『葉隠』の成立に大きな影響を及ぼした19代絶学了為和尚の墓がある。 [参考] 湛然梁重和尚:元々肥前の生まれで、三河国の寺にいた湛然和尚を武雄出身の名僧月舟和尚の推薦で高傳寺11代住職に就いた。楊柳寺(西与賀町高柳)の開山にもなった。禁酒など寺風刷新、反面慈悲心に富み、藩主鍋島光茂はじめ諸人の尊敬を集めた。寛文9年(1669)、圓蔵院の村了和尚が寺の昇格を藩主光茂に直訴したため斬首されたのを憤り、この寺を去った。湛然和尚は、松瀬(大和町)の通天庵に入った。藩主はもとに戻ることを説得したが受け入れなかった。そこで高傳寺の末寺として華蔵庵を建ててやり10石の扶持を与えた。延宝8年(1660)、ここで死去した。廃寺になった華蔵庵跡にも墓がある。
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高傳寺近親者の墓
御位牌所北側に藩主達の主な近親者の墓を集めた墓所がある。藩祖・鍋島直茂の祖父・鍋島清久、同父・清房、龍造寺隆信の母で、直茂の父清房に再嫁し、直茂の継母となった慶誾尼ほかの墓がある。
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高傳寺龍造寺一門と秀の前(波多三河守親の妻)の墓
墓所北部一画に龍造寺一門の墓が並んでいる。これは天文14年(1545)、少貳勢に謀られ、川上與止日女社で、龍造寺家純、家門、純家、祇園原(神埼町)で周家、頼純、家泰の6人が戦死し、龍造寺家壊滅の危機となった出来事があった。この6人の墓が建っている。 同じ区画に静室妙安大姉と刻まれた秀の前の墓がある。秀の前は、龍造寺隆信の養女(実は龍造寺胤栄の女)で、初め蓮池の小田鎮光に嫁し、後、松浦岸岳城主波多三河守親の妻となった。豊臣秀吉が名護屋在陣の時、名護屋に招かれたおり、秀吉の前で懐剣をとり落としたことからその怒りをかい、夫・三河守親は領地没収、常陸国に流された。その後、秀の前は佐賀に帰り、妙安尼と名乗り仏道三昧、妙安寺(川原町)の開基となった。寛永元年(1624)7月晦日、79歳で死去。
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高傳寺枝吉神陽の墓
枝吉神陽は枝吉南濠の長子で、副島種臣の兄である。通称は杢之助、字は世徳、神陽と号され、文久2年(1862)8月41歳で死去された。神陽は容貌魁異、眼光けいけいとして人を射て、音吐鐘の如く、加うるに健脚比なく1日に能く20里を踏破されたそうである。 神陽は始め、父南濠と夏秋富雅に学び、後江戸昌平黌に入り、帰国後藩学教諭となられた。神陽は早くから勤王の大義を唱え「普天の下率士の濱天臣に非ざる者なし。君臣の様は独り朝廷に対して用うべきものにして決して藩公に対して、用うべきものにあらず」と、常に力説しておられた程で、勤王の為奔走し、楠公父子像を祀って、子弟を教養された。 明治維新に際し佐賀から幾多の志士を輩出したのは、実に神陽の薫陶感化による事が大である。 明治44年11月従四位を追贈せられた。 重野安釋は神陽の事を激賞して「之を古今の史中にもとめて恐らくその比を見ず」と言われたそうである。 神陽は大変な親孝行で、母が日頃病身なので幼少から母を労わり、何事もやっておられた。ある時は弟や妹を背負って門外に出て遊び、堀畔に踞して書物を読んで勉強しておられたそうである。両親が死去されてからは必ず忌日には怠らず墓参されていた。 文久2年(1862)12月佐賀に虎列刺病が流行したが、その時神陽の夫人が虎列刺病に罹って死去された。神陽は亡き妻の死屍を自ら指図して処理し葬儀を営まれた。しかし不幸にして、神陽もこれに感染し虎列刺病に罹られ14日まさに死なんとする時、家人を呼んで礼服を持って来させ枕の上にそれを置いて、起蹲伏し、遙に皇居を拝し「草莽の臣それがし事畢る」と言って死なれたという事であり、実に神陽の心中を察して涙をさそうものがある。
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高傳寺副島種臣の墓
副島種臣は文政11年(1814)9月9日佐賀市赤松町にて生れる。枝吉南濠の二男で、神陽の弟である。幼名を二郎といっていた。 種臣が32歳の時副島利忠の養子となられ、副島姓を名乗られた。 種臣が後世に名をなしたのは、実に勤王家石井松堂の薫陶のしからしめたものである。種臣は蒼海・一々学人の号があり、学問該博、識見高邁、詩文に巧みで、明治天皇の侍講となられた。書は六朝を研究して妙を得、書聖中林梧竹翁と親交があり、梧竹翁が再三中国に渡り書道を研究したのは、偏に先生の書かれた書を見て発奮されたのである。「私は今度こそ、貴方に負けまいと支那(中国)に渡って研究して帰ってみると、先生の書は私より上手になって居られる。どうして支那にも行かれずに上手になられますか」と問われたのに対し種臣はただ笑っておられたそうである。 梧竹翁は書道においては種臣に一歩譲っておられた。しかし種臣はまた翁の書は実に見事だと賞讃して、明治天皇に梧竹翁の書を献上された程である。 種臣は維新の際国事に奔走され、明治元年初めて参与職制度事務局判事に任ぜられ、次いで参与職に補され、明治2年7月参議同3年5月外務省御用専務を経て、11月外務卿に任ぜられた。明治6年征韓の論が起った際議あわず辞職された。 明治17年伯爵を授けられ、明治25年松方内閣成立の時内大臣となられ、また枢密顧問官に任ぜられ、明治38年1月78歳で死去された。 墓地は東京青山及び高傳寺にある。
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高傳寺家永恭種の墓
家永は弘化元年(1844)佐賀に生る。通称を範之助、嘯倣と号す。早くから文武両道に達せられて維新の際参謀となって、奥羽戦争に従軍され功労があった。 佐賀県参事、水戸裁判所長などを歴任、明治7年佐賀戦争後大いに地方の衰退を慨嘆し、官を辞して帰国され、松風社、戊寅義学を起して佐賀の民風を振興する事に努力された。殊に佐賀取引所の創立等に力を尽くし、その他色々世の為に貢献された人である。 また、明治22年(1889)佐賀市制施行に伴い、佐賀市会(議会)初代議長に選出される。
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瑞應寺福地吉左衛門の墓
名は貞長、六郎右衛門家定の嫡子で、有馬の陣に従軍し、戦功があった。墓が瑞應寺にある。 寛文3年(1663)12月21日没。法名功翁道績。妻は鍋島孫左衛門の娘で、寛文12年(1672)7月24日没。 法名 善慶妙霊
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大應寺比翼塚
佐賀市北川副町大應寺境内には軍国比翼塚と江副次郎、江副美子さんの二つの墓が建っている。 今は語る人々もなくひっそりと八田江の流れを背に寄り添っている。 次郎さんは元本庄村長の江副九郎氏の二男で、早稲田大学高等学院卒業後昭和11年4月入隊、その後中支江南の流洞橋の激戦に参加し惜しくも戦死をとげた。 美子さんは井上作次郎氏の三女で、次郎さんとはいとこにあたり婚約者であった。 昭和13年4月13日に次郎さんの戦死を知った美子さんは、5通の遺書を残して4月15日に数珠を片手に後追い自殺をなした。その顔は微笑さえ浮かべ美しかったという。 昭和13年6月11日次郎さんの遺骨が門司港に無言の凱旋をした。美子さんの遺骨も江副家に入り、14日本庄村葬に続いて、魂の結婚式が行われた。 美子さんは「長崎女人」に属する歌人で遺書とともに8首の辞世の歌を残していたので全国から多くの同情が寄せられた。美子さんの遺作は栗原荒野先生の紹介で佐々木信綱博士の推敲のもとに遺稿集『散りにし魂』が出版された。美子さんの死は当時戯曲化され、東京の常盤座で上演されたという。 春深む 江南の野に 魂散りて 君は護国の 神となります 春の夜は 真深く更けて せきあぐる 己がなげきの 泣く音聞ゆる 〟美子〟 (豊増幸子著 『肥前おんな風土記』より)
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西光寺重松基吉の墓
西光寺に重松基吉が葬られ、その墓があります。基吉は、佐賀の七賢人の一人島義勇の弟です。藩校弘道館で学び、藩主閑叟公に重用されて上佐賀代官、横辺田代官から、江戸藩邸の公用人となりましたが、明治維新後は無役となり、明治7年(1874)に起きた佐賀戦争では、兄義勇、弟副島義高と共に憂国党の幹部として活動しました。佐賀戦争では政府軍に敗れて、2月13日、中川義純と佐賀を脱出し鹿児島に潜行したが捕縛。佐賀で臨時裁判が開かれ、義勇、基吉、義高三兄弟ほか10人、合わせて13人が最も重い罪に処せられました。佐賀ではこの処刑された人を、十三烈士と呼んで称えています。 齢52歳。 辞世の詩歌 死なば死なん 生くとき生きん 二つなき 其の負ふことの 道に尽さん
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慶誾寺多久安順と一族の墓
多久家は龍造寺隆信の弟長信が多久梶峰城に入り、後を継いだその子安順が鍋島直茂の長女をめとって多久姓を名乗り、2万1千石を与えられ幕末まで多久邑を支配した。 系譜は次の通り 龍造寺長信→多久安順(以後多久姓)茂辰→茂矩→茂文→茂村→茂明→茂堯→茂孝→茂鄰→茂澄→茂族→茂穀→龍三郎 慶誾寺に6代(茂明)迄の墓がある。7代以降は多久町円通寺にある。
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妙玉寺深堀領主の墓
深堀氏の先祖は三浦氏という。上総国深堀の住人で三浦深堀太郎左衛門尉仲光が、鎌倉時代の建長7年、肥前國戸八浦を賜ったので、来住して、地名を戸八浦より深堀と改める。(長崎市深堀町) 18代の孫深堀左馬助純賢茂宅入道は天正の初め、龍造寺隆信が西肥前彼杵・高来地方を攻略した時、純賢は真先に味方して、天正15年(1587)に豊太閤(豊臣秀吉)より「朱印」(領地を確認した朱印状)を賜り、直参になった。 文禄元年(1592)朝鮮侵攻の際に、増田長盛に頼み、龍造寺の家臣になることを願い出て許され、次いで鍋島氏に従い、鍋島直茂、勝茂から重用された。 (中尾正美氏編 『深堀資料集成』より) 深堀代々領主の墓が妙玉寺にある。
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妙玉寺鍋島安芸守茂賢と追腹の墓
妙玉寺本堂の南東部に鍋島安芸守茂賢、同後室外22名の墓がある。これには『葉隠』に述べられている追腹の物語が残されている。 茂賢は正保2年(1645)2月11日行年75歳で没す。茂賢が病死した時、藩士18人と組下二人が追腹を申し出たので、家老衆から「殿様でなく大組頭のあとを追って、追腹を切るのは妥当でない」と重ねて翻意を促された。ところが、この者たちは「先年筑後の八ノ院の合戦のとき、主水殿(茂賢の兄茂里)の組の中から、安芸殿が特に我々を選び出してくださり、八ノ院で枕を並べて討死しようと言い交わしました。そのとき安芸殿も討死されなかったので、我々も今日まで生きながらえてきたのでございます。武士たる者が、枕を並べてと、約束しながら1日も後に残ることができましょうか」と言って、ついに追腹を切った。 18人および供の者4人の位牌と墓は妙玉寺にある。
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妙玉寺鍋島主水茂里の墓
鍋島主水は、石井安芸守信忠の嫡子である。鍋島直茂が40歳になっても男子がなかったので、茂里の器量を見込んで、実子伊勢龍姫の婿養子とした。後、勝茂が誕生したため、茂里には別に神埼郡西郷村の旧地3千石を与えて一家を立てさせた。 幼名を太郎五郎、次いで左衛門大夫平五郎と改め後に主水佑茂里と称した。安芸守茂賢(深堀)の兄である。 慶長15年(1610)8月9日没 行年42歳 法名 見性院殿法山白妙大神袛 伊勢龍姫 寛永20年(1643)7月23日没 法名 月窓院天林妙清大姉(墓は妙玉寺にある) なお妙玉寺には勝茂公より、鍋島主水墓所に供養米を賜わった古文書が保存されている。